日本宗教大講座
第參卷


目次
日本宗教大講座第三卷目次

寫眞
天神御影(解説宮地直一)
法然上人繪(解説江藤澂英)
島原叛徒の旗(解説岩生成一)

神道講説
大社教(第二回) 大社教大教正千家鐵麿 (一七──二八)
天理教講説(第二回) 文學士山口宏澤 (二三──四〇)

佛教講説
眞言宗各派(第二回) 東寺大學教授小田慈舟 (九──二〇)
新義眞言宗史概觀(第二回) 智山派宗務長平澤照尊 (九──一四)
淨土宗講説(第二回) 大正大學教授石井教道 (一五──三四)
曹洞宗教理概論(第二回) 駒澤大學教授岡田宜法 (一一──二〇)
眞宗講説(第二回) 龍谷大學教授梅原眞隆 (七──一二)
眞宗大谷派史要(第二回) 大谷大學教授橋川正 (一三──二〇)

基督教講説
ハリストス正教會講説(終回) 日本ハリストス正教會司祭三井道郎 (一九──三二)


目次
日本組合基督教會とは何か(第二回) 組合基督教會理事長今泉眞幸 (一一──二〇)
アライアンス教會教理思想(第一回) 日本同盟基督教會年會長杉本光平 (一──二四)

聖典綱要
古事記綱要(第二回) 宮内相前章典佐伯有義 (一七──三二)
阿含經(第二回) 大谷大學教授赤沼智善 (二三──三六)
華嚴經の綱要(第二回) 大谷大學教授金子大榮 (一三──二六)
般若理趣經講説(第二回) 大正大學教授加藤精神 (一九──三六)
勝鬘經概説(終回) 東京帝大教授文學博士常盤大定 (二三──三二)
舊約外典綱要(第三回) 愛知教會牧師金子白夢 (三一──四四)

特設神社講説
神社概説(第二回) 神職會囑託照本亶 (一三──二四)
神社神道史(第三回) 國學院大學教授河野省三 (二一──二八)

宗教史傳
日本佛教史(第二回) 帝大資料編纂官補東洋大學教授藤原猶雪 (一七──二八)
基督教社會事業史(第二回) 日本女子大學教授生江孝之 (一七──三二)

彙報
編輯後記



法然上人繪 紙本着色卷子本 竪一尺三寸七分横四十尺 京都知恩院藏

(昭和二年四月二十五日國寶に指定) 知音院什寶係 江藤澂英

この繪圖は最近に國寶の資格ありと定められたもので、知恩院にては勅修御傳と傳ふる國寶法然上人行狀繪圖四十八巻と共に、新たに祖傳に一光彩を加ふることになつた。全長約四十尺の繪卷物で、内題は「法然上人繪」と書し、奧題は「黑谷上人繪」として、其下に「釋弘願」と記し何れも同一筆法である。内容は詞書畫圖各十三段から成り、扉の裝幀は表裏共に高雅な墨流しの模樣である。文字は上品な青蓮院流、繪は土佐風で頗る古雅淳朴である。詞はすべて繪の上に懸り繪の部分が少しづゝ除けて書かれてゐるが、この點から考ふれば繪は書よりも先に出來たかと思はれる。而して本繪卷の特異なる點は詞書と繪圖が同一料紙に載せられてある部分が多く、しかも書と繪との間に墨色の薄い細線を以て區畫がつけられてゐる如き、また波頭に胡粉を筆端で跳ねて白馬をあらはしてゐる手法なども珍らしいものである。

茲に掲出せる部分は開巻で、元久二年の四月五日法然上人が九條殿に參じて退出の砌、兼實公が上人の頭光踏蓮せらるゝ瑞相を拝してをる一段である。而して最後は上人が四國の流罪より赦免せられて、攝州勝尾寺に滯留中、如法念佛會を修行せらるゝ所で終つてゐる。されば上人の世壽を八十年として、七十三歲より七十六歲に亘る晩年の傳記の一節である。尤も一巻のみでは首尾完結せず殘缺本たるは明かであるが、考古書譜に「法然上人繪、殘缺、三巻、古畫目錄云法然上人繪傳三巻、毎卷標題黑谷上人繪傳釋弘願、御家人坊主中村家藏、寛政戊午觀二于屋代弘賢家一」云々とあるは、本繪卷と同種のものであらうと思ふ。

筆者釋弘願に就ては寡聞にして之を明かにし得ないが、淨土宗側に傳ふる系譜人名には見當らないやうである。東本願寺の所藏にかゝる貞和二年善如上人の書寫といふ、親鸞聖人傳繪の第四巻の尾端に書す「釋弘願」の筆蹟は、正に本繪卷のそれと合致するやうであるが、恐らく南北朝初期に於ける親鸞門下の人であらうと思ふ。

因みに本繪卷は元眞宗大谷派の某寺に傳はりしものなるが、數奇なる經路を流轉して、偶然大正十四年二月筆者の手に入り、篤志者に依り知恩院の寶庫に寄納されたものである。



【法然上人繪解説追記】 江藤澂英

前に述べたるが如く知恩院藏の法然上人繪一巻が殘缺本なることは云ふ迄もないが、神戸市男爵川崎武之助氏の所藏にかゝる法然上人繪傳三巻は、夙に同家の長春閻觀賞第一集にも圖版三葉が掲出せられて、その逸品たることは廣く知られてゐるが、その解説には詞書畫圖共に筆者不詳とされ何等知ることが出來なかつたのである。然るに最近(五月二十二日)予は多年の宿願が達せられ、親しく同繪卷三巻の全幅を拝見するの光榮を得た。同繪卷は全三巻で第一巻は長さ四十四尺で、内題は「法然上人繪」、奧題は「黑谷上人繪傳一」とあり、其下には「釋弘願」として、降誕より入洛までが記されてある。第二巻は全長三十四尺で内題は同じく、「法然上人繪」とあり奧題は缺けてゐるが、夢中善導大師との對面より初り、敬佛房との問答で終つてゐる。第三巻は三十二尺餘で首題は缺け、「普告干予門人念佛上人等」の七ケ條制戒より初り、大和入道見佛の佛事で終り、奧題は「黑谷上人繪傳第三」とあり「釋弘願」とある。何れも竪は一尺三寸三分である。今これを知恩院の新に國寶に編入せられたものと對比するに、寸法、紙質、畫風、筆蹟等すべて同一で筆者も同じく「釋弘願」と明記されてあるので、川崎家のそれは全く知恩院の新國寶本の殘缺たることが明瞭になつたのである。しかしこの兩者を合しても尚これを以て完全なものと云ひ難いことは、前後の連絡から想像し得るので、本繪卷は久しい流轉の間にその一部分が散佚したものであらうと思ふ。何れにしても考古畫譜に舉ぐる、古畫目錄に所謂釋弘願筆の、法然上人繪傳の面影が明かになつたことは喜ばしいことと思ふ。





眞言宗
第二回
東寺大學教授
小田慈舟


頁九
卽身成佛説は眞言宗の教義の樞軸を為すものであるから、次の三問題に分つて今少し詳述して見よう。三問題とは第一に佛陀とは何か、第二に成佛の方法、第三に卽身成佛説の理論的根據である。

先づ第一の問題について説明する。佛陀とは普通自覺・覺他・覺行圓滿と説いて、自ら一切の法を如實に覺り、他の人々をも覺らしめ、覺行を滿足せる大覺者を指す、換言すれば佛陀は大智慧と大慈悲との二德を具備せる偉大なる方である。佛陀の慈悲は利己的な慈悲でもなく、局限された慈悲でもない。あらゆる衆生を悉く攝取して捨てないといふ廣大無限な慈悲であり、その報酬を要求しない無我の大慈悲である。吾宗には佛陀の智慧は無量無邊であると説き、その無量の智を攝して五智とする、卽ち法界體性智・大圓鏡智・平等性智・妙觀察智・成所作智である 吾人が佛果の位に到達した時に、吾人の認識智が轉じて此五智となる。卽ち吾等の眼耳鼻舌身の五官の感覺によつて得た認識の智(前五識と云ふ)が佛陀の自覺智となるとき成所作智となる、此智慧は種々なる事業を成して一切の目的を達する智慧であるから「所作を成ずる智」と云ふ意味で名けたのである。又五官によつて得た智を統一して前後を分別し考察する作用は第六意識である。此意識が果位に於ては妙觀察智となる、此智は活動的根本智であつて、一切の法を悉く照し妙に機類を觀察して能く法を説き衆生を利益せしむるから妙觀察智と名ける。又事物を分別し認識する所の前五識や第六意識の作用を起す根源となる智を第八阿賴耶識と云ふ。此識は萬有をそのまゝ受入れる受働的根本智で、一切の種子を此中に包含し執持してゐるから阿賴耶識と名ける、阿賴耶は含藏又は執持と譯される梵語である。


頁一〇
此第八識が佛果の位にあつては大圓鏡智となる。此智は萬有の當相をありのまゝに照す智であるから、これを大なる圓鏡が萬像の影を悉くありのまゝにうつすに喩へて大圓鏡智と名けたのである。又第六意識と阿賴耶識との間に末那識と云ふのがある。此第七末那識は第六識と同じく意識と名くべきである、末那は意の梵語である。しかも第六識が此識を所依としてゐる邊で意識と名くるから、兩者の混亂をさけるために梵名のまゝで末那識と呼んでゐる。此識は物事を利己的に考へ、我痴・我見・我愛・我慢の四煩惱と相應して物の差別相を認識する作用を持つてゐる。此差別智が自覺の智となつた時に平等性智となり、萬有を悉く平等に照し萬有の普通性平等性を覺り眞如實相を悟る。以上の四智の中大圓・平等は自利の智、妙觀・成所は化他大悲の智であり、又大圓・妙觀・成所の三智は差別智、平等性智は平等智である。此四智を統括し差別平等の兩作用を該羅した所の智を法界體性智と名ける、これは諸法の體性となる智で、因位に於ける識の根本たる第九菴摩羅識の轉じたものである。菴摩羅識は無沒識と譯する。五智の中で前四智は顯教にも説く所であるが、此法界體性智は密教獨特の説である。

さて上に佛陀は大智大悲の無限の德を有する大自覺者であると説いたが、その佛陀とは誰を指すか。歷史的に云へば佛教の教主は釋尊であつて、佛陀とは釋尊を指すことゝなる。然るに眞言宗では、その教主を大日如來とし、顯密二教を對辨するとき顯教は釋尊の説、密教は大日の説と區別する。大日と釋迦との關係、二尊は同體か異體かと云ふやうなことは何人の頭にも浮ぶ問題であるが、古來から種々異論のある所で、それを説明すると餘り專門的になつて來るから今はこれを略して、たゞ釋迦は大日の一德を司る佛であると云ふことだけを記しておく。

眞言宗は一種の凡神教であつて、萬德を具足せる根本の佛陀を大日如來と名け、大日の萬德の一分を司る無數の佛・


頁一一
菩薩・金剛等が大日を圍んで、常恒に説法してゐる。卽ち主尊たる大日と伴尊たる諸尊とが互に各自の覺つてゐる法門をたへず説法してゐる、これを自受法樂の説法と名ける。又大日如來が機に應じ時に從つて分身影現する尊も尠くない。此等無數の尊は亂雜な多神教的存在ではなくて、大日如來を以て有機的に統括された一群である。上に五智は大日如來の智慧であると云うたが、その中で五智の總體である所の法界體性智は大日如來の三昧智であり、大圓鏡智は東方阿閦如來の智德、平等性智は南方寶生如來の智、妙觀察智は西方阿彌陀如來の智、成所作智は北方不空成就如來卽ち釋迦如來の智である。このやうに大日の一分の德を以て一佛身とするのが吾宗の特色である。眞言密教は現象卽實在論で、現象界の一切の萬有に卽して直に法性の眞實性を認め、法があれば人がある、人法は一體であると説く故に、無數の佛身を建立するのである。そして此等無數の佛身を組織的に類聚したものを曼荼羅と名ける。

曼荼羅とは一切の萬德を具へ物の中心となると云ふ意味で、普通は輪圓具足と翻譯してゐる。されば曼荼羅は諸法の體性本源たるものに名くべき語であるが、それが轉じて數多の佛菩薩等を一定の樣式に圖繪したものをも曼荼羅と名くるやうになつた。したがつて曼荼羅には種々の種類があるが、その最も根本的のものであり、最も大切なものは金剛界・胎藏界の兩部曼荼羅である。此二種の曼荼羅は佛邊から見ると衆生邊から見るとの相違であつて全然別箇の獨立したものと云ふわけではない。元來眞言密教は、自心の本源功德を如實に悟るを以て成佛の要諦とする──此事は後に説明する──のであつて、吾々の一心に本來萬德を具足してゐる、これを理德と名ける。この法爾自然に具足してゐる所の理德を表象する曼荼羅が胎藏曼荼羅で、その理を照見する無量の智德を表象するのが金剛界曼荼羅である。卽ち佛邊から如來の智德を示すのが金剛界で、此曼荼羅を智曼荼羅・果曼荼羅又は修生曼荼羅などゝ名け、衆生邊から


頁一二
理德を表はした胎藏界を因曼荼羅・理曼荼羅又は本有曼荼羅と名ける。そして曼荼羅の中央に位する根本の尊は言ふまでもなく大日如來である。兩部曼荼羅のことは詳しく説明すれば別に一講座を要するほどであるから今は名稱を示すにとゞめる。吾々が曼荼羅諸尊の中の何れでも自身に緣のある尊を擇んで、其尊の三密を修行すれば其尊の内證法門を覺ることが出來て、其尊と同體となる。これを成佛と名けるのである。曼荼羅の中の何れの一尊でも其内證を覺り得るときは直に又大日如來の德に契ふことゝなるのである。そして自分に緣のある佛を定めるに灌頂壇に入るを要する、このことは後章で更に説明する考である。

大日如來と云へば或は太陽崇拝から轉化したものと考へる人があるかも知れぬ。しかし眞言宗では太陽は天部の一尊たる日天と見るので直に太陽を大日如來とするのではない。大日經疏一に大日如來と名くる理由を説明して、此如來は除暗遍明の德と能成衆務の德と光無生滅の德とを持つてゐるが此三德は恰も太陽が暗を照し動植物を育て不斷の光明を有してゐる點と一分相似た所があるから喩を以て大日と名ける、而も如來の德は無限絶待であり、太陽の德は有限であるからその區別を明にするために大の一字を加へる、と釋してゐる。除暗遍明とは大智慧の功德を表す語で、智慧によつて煩惱の暗を除きその光明遍く一切のものゝ本性を照す義である。能成衆務とは化他大悲の德を示す語で、衆生の善根を開いて殊勝なる種々の化他の事業を成しとげる義である。光無生滅とは自體常住の德で、此の大慈大智の德が永遠に不滅であることを明すのである。

旣に佛とは何ぞやと云ふ第一の問題について説明した。次に第二の問題たる成佛の方法について叙べる。金剛手菩薩が如來はどうして大智を得給うたかと問うた時、教主大日如來は「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟と


頁一三
す」と答へられたことが大日經住心品に説いてある。これは喩を以て云へば植物の種子を大地に播けば根を下し芽をふいて枝葉が繁り花が咲き遂に結實するやうなもので、菩提心は種子であり成佛の原因である。大悲は根莖枝葉の如く成佛に至るまでの修行の道程である、方便は正しく結實した所で成佛の上の作用を示す語である。從つて此句は普通因根究竟の三句と云ひ、弘法大師は此三句に一切の教義を含み一切の法門を攝すとまで説かれた重要な句である。さて成佛の第一階段たる因の句はどんな意味かと云へば、これは佛果を得て大自覺者となるには第一に菩提心を發すべしと云ふ意である。菩提とは覺と譯する梵語で佛果を指す、而も此菩提は遠く他に求むるには及ばない、大日經に「菩提とは實の如く自心を知るなり」と説いて、自心中に有する佛性を如實に知ることが佛果を得る所以である、つまり菩提心とは自心に本來具ふる所の佛德を開顯し佛果を追求せんとする心であると譯してある。菩提心について菩提心論には勝義・行願・三摩地の三種に分つて釋してゐるが、三摩地菩提心は菩提心の本體をさし、勝義と行願とは菩提心の作用を示したもので、一切智々を求めんとする自利の心と衆生を普く濟度する化他の心とである。次に根の句とは成佛の第二階段たる修行の句で、大悲萬行とも云ふ、卽ち三密行や六度行などである。前章の最初に述べたやうに卽身成佛の直接の修行方法としては身口意三密の行を修すべきであるが、顯教の菩薩の修する六度行も兼ね修して成佛の助緣とするのである。大悲を根とすると云へば化他の行に限る如く思はれる。卽ち大慈大悲の心に住して普く佛事を為し、これを衆生に廻向して一切の苦を拔き無量の樂を與へることを根の句とする如く見へる。しかし經や疏の説明によれば大悲の二字に三密妙行等の萬行を攝してゐるので單に大悲の行のみに限る意ではない。三密行は實踐的修行の樞要であつてこれを無視して成佛を遂げることは出來ぬ。


頁一四
三密行とは自分の身口意の三業を淨化して、本尊の三密と冥合せしむることであるが、自在無碍の德を有する本尊の三密は無量無際限であるからこれを自ら體驗することは困難である。又日常の身口意の三業を淨化して常に正であり善であり美であらしめることは、普通の人としては樂々と出來ることでなない。そこで經や儀軌には吾々が三業の淨化をはかる模範として諸尊の三密の中から選び出して一定の印契・眞言・觀念を示してある。言葉を換へていへば吾々が自分に緣のある本尊の印・眞言・觀念を眞言密教の阿闍梨(一)から傳受して、自ら手に印を結び口に眞言を誦じ心に本尊の心德を觀想して如實に修行すれば、次第に自己の三業を淨化し、本尊の三密と冥會するに至り、此修行を繰返し行ふ中には、吾等の日常の行為思想が自然に本尊の三密と一致するに至り、我と本尊と互に沒入する妙境を體驗することが出來る。印契は本尊の身體であり、眞言は本尊の言語であり、觀念は本尊の心德の表現であるから、勝れた機根ならば必ず前述の如き境地に達し得る。しかし下根劣慧の者ならば此境地に達することは容易でない、印を結び眞言を唱ふることは出來ても、心に妄念妄想が群起して本尊の觀念と一致し得ぬ場合が多い。かゝる人はたとひ現生の成佛を望み得なくとも一密二密の修行も尚ほ成佛の因緣を造るものと思って精進すべきである。

註(一)阿闍梨とは軌範師と譯する、人の師となり得る者の意で、本宗では傳法灌頂を受けて阿闍梨位の印可を受けた人を阿闍梨と名ける。このことは尚ほ灌頂の章を參照していたゞきたい。

以上三句の中の因と根との二句を説明したが、要するに菩提心を發すことゝ大悲萬行を修することは成佛の因と緣であつて、此二の功德によつて始めて大自覺の佛位に上り得るのである。三句の中の第三究竟の句は此佛果を説明した語で、方便とは衆生を濟度し利益する方便である。佛の位は安閑として無為無作でゐることではなく、常に自在に


頁一五
衆生を化導し救濟することを得る位である。卽ち方便を究竟とすることが佛果の極所であり、行者の終局目的である。

第六 卽身成佛說(二)

成佛の方法について大略述べ終つたから、第三に卽身成佛説の理論的根據を叙述する。弘法大師は卽身成佛義に六大・四曼・三密の三大圓融の義を説いて卽身成佛の理論的根據とせられた。六大とは地水火風空識の六大で、これに各性德・業用・形色等を有してゐるが、要するに識大は精神原理、地水火風空は物質原理である、此の物心二面の原理は互に融通して一體となり恰も紙の表裏の如き關係にある。六大は諸法緣起の本源でこれを體大と名ける。大日經には阿字を以て諸法の本源體性であると説いてあるが、弘法大師は顯教に説く所の眞如無相の空理を諸法の本源とする義と混亂し易いから、此阿字を用いて六大とせられたのである。六大は相互に圓融無碍するが、それと同時に甲の六大と乙の六大とも無碍融通する。吾等が一心に本來佛性を具へてゐると云ふことは換言すれば佛陀も六大から成立ち、吾等の六大から成立つてゐると云ふ意である。

四曼とは大曼荼羅・三昧耶曼荼羅・法曼荼羅・羯磨曼荼羅である。これは六大體大の上に有する相大であつて現象の方面を表はす、卽ち一切の現象を四方面から觀察して分類したものである。從つて此四曼は全然別な存在ではなくて互に離れず融通してゐる。曼荼羅は前にも述べた如く物の中心の義であり萬德を具足してゐる義であるから體大に名くべき名稱であるが、相大とても萬德を具足する點は體大と同じことであり、寧ろその有樣は相大が一層明白に示し


頁一六
てゐる故に相大を曼荼羅と名けたのである。四曼は萬有の實相を示すものであるから、有情も非情(無生物)も共に包括してゐる。從つて大曼荼羅とは總て色彩を以て表はされるものを云ひ、三昧耶曼荼羅とは萬有の形狀を指し、法曼荼羅とは萬有の音聲名稱意義等を云ひ、羯磨曼荼羅とは萬有の作業を指すのである。若し佛菩薩の上で四曼の相を説くならば、相好具足の尊形や、五大の色卽ち黄白赤黑青の五色を用いて描いた大圖像などを大曼荼羅と云ひ、諸尊の持ちたまへる蓮華・輪寶などの器物或は手に結びたまへる印契などを三昧耶曼荼羅と云ふ、此の所持物や印契は總て其尊の自覺の内容やその本誓願等を象徵する故に三昧耶と名けたのである。次に法曼荼羅は諸尊の種子眞言や經文など總て言語文章及びその義理などを云ひ、羯磨曼荼羅は諸尊の作業を云ふ、羯磨は作業の意を示す梵語である。從つて又その作業を明に驗す所の彫刻・鑄像・塑像なども此曼荼羅に屬する。

體大・相大に對してその業用卽ちはたらきの方面を用大と云ふ。物に體相二大があるならば用大を伴ふことは當然である、そして此用大を眞言宗では身口意の三密と名ける、一切の作用は此三種の範圍を出ない。萬有の物質的有形の作用は身密であり、一切の音聲は語密であり、一切の意匠的靈的作用は意密である。若し佛菩薩等について云へば、その身體の動作と言語と心意作用とが三密である。此三種は甚だ靈妙な作用で六大法性の上に現はるゝ作用であるから三密と名けるのである。

以上六大・四曼・三密の要旨を略説した、これだけの説明では尚ほ了解し難い點も多々あることゝ察するが、此三大説は眞言宗教理の眼目であつて種々なる問題を含んでゐるが、今これを詳述することは紙數の制限上困難である、故に殘念ながらこれ位にしておく。弘法大師が此三大説を以て卽身成佛の理論的根據とせられたのは、三大が互に圓融


頁一七
無碍し、又佛陀の三大と吾々の三大とも融通無碍して、吾々が佛陀の三密の作用を規範として修行するときは加持感應して佛陀と行者とが一體となり、度々修練の功を積む時は遂に佛陀の作用をそのまゝ日常の行為となすに至り得るからである。

第七 灌頂

旣に教義の大綱や修行の方法などを述べたが、此眞言密教の法を學ぶには先づ順序として灌頂壇に入つて法を受けなければならぬ。若し阿闍梨について灌頂を受けず、濫に法を修すれば却て罪を受くとて、經軌に深くこれを誡めてある。灌頂を受ける者は教授師の指示によつて覆面をしたまゝ金胎兩部曼荼羅を祀つてある所の道場に入り、壇の上に敷いてある曼荼羅へ華を投げて自分に緣のある尊を知り、その尊の印眞言などを阿闍梨から授かり、種々の儀式を行ふ。その時に阿闍梨は如來の五智を表す所の五つの瓶の水を一々に受者の頂に灌いで、受者自ら五智を得て如來の位にのぼる義を示すのである。灌頂といふ名稱はこれが為めである。

灌頂には結緣と受明と傳法との三種がある。傳法灌頂は眞言の法統を繼ぎ、世の師範となる阿闍梨の位に上るために修する最も重大な儀式である。從つて此灌頂は機根を簡んで授くるので眞言の僧侶のみに行ふ。次に受明灌頂とは持明・學法・許可などの異名があつて、行者に緣のある一尊の法を學修さす為めに修する灌頂で、出家在家何れでも信心深き人ならば入壇を許すのである。次に結緣灌頂は眞言の法に緣を結ばしむるための灌頂で、いかなる人にも入壇を許す。印を結び眞言を唱ふることすら習ひ得ぬ程の愚者でも、入壇して曼荼羅を禮拝すればその功德によつて罪


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障を消滅する故に、機根を擇ばず何人にも結緣のため入壇せしむるのである

第八 眞言密教の祈禱

眞言宗は一面から見れば祈禱宗である。普通の人は病氣平癒や物質的慾望の滿足などを神佛に祈るのが祈禱であると考へてゐる。しかしそは見當違である。勿論かやうな願望の成就を祈ることも祈禱には相違ないが、吾宗は佛果を得るための祈禱を第一とする。祈禱には世間的の現世祈禱と出世間の悉地卽ち佛道を成就するための祈禱と二つあるが、世間的の祈禱は信仰培養の助緣として行ふもので、終局の目的は出世間的祈禱にある。故に吾々が一座の法を修して、本尊に祈願するときは必ず悉地の成就を祈り、滅罪と生善とを祈り、修法の功德を普く法界に平等に利益せしめよと禱るのである。尤も吾宗は卽事而眞と云ひ、當相卽道と説いて、世俗の當相が出世間であり、現象の世界が直に法性界の實在であると説くのであるから、その邊から云へば世間的祈禱が直に出世間の祈禱であつて、兩者に優劣はないのであるが、多くの人々はとかくその眞理趣を忘れて單なる世間の慾望滿足のみを主眼とするに至るから、能く祈禱の眞意を心得て誤解せぬやうに注意せねばならぬ。

吾宗に祈禱の原理として説く所は三カ加持の義である。三カとは自己の功德力と如來の加被力と法界力とである。吾々が本尊に誠をこらして祈をさゝげる時、若し本尊に大慈悲の加被カがないならば、吾等の願望か受入れないであらう。如來は大慈悲の心を以て衆生を攝化する、此如來力と祈る吾等の佛性功德力とが加持感應するとき初めて祈禱は成就せられる。加持とは加は如來の大悲加被力であり、持は吾等が如來の加被力を受けてこれを任持するを云ふ。


頁一九
しかも此の如來力と自己の功德力との感應道交する所以は法界力によるのである。法界力とは法性の力である、如來も吾等も共に六大法界の體で互に無碍するが故に加持感應するのである。

第九 國家觀と道德觀

佛陀の大悲心を己の心とし利他の行を己の行とし、佛陀の慈悲の德を如實に實行することは佛道修行者の大切な務である。而も此大悲利他の行をするには國家の安寧を計り國民の幸福を増進することが最も具體的な方法である。それ故に密教は鎮護國家に重きを置く。密教の修法の中には個人の災厄を除き幸福を増進せんがために修する法が澤山説いてあるが、それと共に仁王經法・大元帥明王法の如く直接國家を守護し國運の隆昌を祈る為めの修法があり、仁王經や守護國界主陀羅尼經の如く國家守護のために説かれた經典もある。從つて代々の祖師先德は何れも鎮護國家のために修法をしてゐる。支那にあつては金剛智・不空・一行・惠果等の諸大阿闍梨は宮中に壇を構へてしばしば修法を為し、我國にても弘法大師を初とし、多く高僧大德が代々鎮護國家のため修法をしてゐる。弘法大師は高雄山に壇を莊つて國家のために修法し、神泉苑に請雨法を修して萬民の飢渇を救ひ、晩年には宮中に眞言院を建てゝ玉體安穩鎮護國家のために正月八日から一週間御修法を行ひ、宮中後七日御修法と稱して年々恒例として修することの官符を得たまうた。其他國民教育のために綜藝種智院と云ふ學校を設け、或は道路を修造し、池を修築し、山野を開拓するなど、國利民福を計るために努カせられた事業は勘くない。これは皆密教の國家觀の實現であつて、眞言宗が卽事而眞の教であることを現實に示したものである。」


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次に密教の道德觀について一言する。世間道德の眼目として説く所の四恩・十善・五戒等は通佛教の意によれば人の人たる道であつて必しも佛道修行のための道と云ふわけではない。然るに眞言密教は卽事而眞の教であるから、此世間の道德を無視して別に出世間の修行を説くのではない。大日經には十善戒が直に秘密三昧耶戒であると説いてあるほどで、十善の戒を守ることが直に三密の修行となるのである。總て善を行ひ惡を捨つることは其人の精神狀態によつて非常に價値の相違を生ずる。世間の道德も眞言の教によつてこれを行ふならば直に佛道の修行となり、治生產業藝術等の事も皆佛道の外に出づるものでない。此人生は決して無價値な厭ふべき世界ではなくて、吾々が意を淨め行を正して三業の淨化を計るならば此世界が直に淨土に異ないのである。



新義眞言宗
第二回
智山派宗務長
平澤照尊


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第二節 教學の開展及概況

平安朝時代に勃興した眞言密教は、上 皇室の尊信を受くること極めて厚く、隨つて上流社會を中心として傳播し所謂貴族佛教として其勢力を擅まゝにせるの觀があつた、されば此時代に於ける眞言教徒は專ら加持祈禱等の修法的方面卽ち事相の練達に重きを置き、やゝ教相義學の研究を忽緒に附せるの傾向ありしは、蓋し止むを得ざる趨勢であつたらう。

我が新義眞言宗の開祖覺鑁上人は、斯かる時代の末期に生れて眞言秘密乘の法器となられたのであるから、また自ら古來の傳統的宗風に甘んずることが出來なかつた、乃ち其學業漸く熟するに及んで高野山上に傳法大會を創始し、大に事教二相の興隆を圖り、一面諸法流の奧義を究めて事相の精髓を探り、他面教義の蘊奧を叩いて教相の祕趣を索め所謂教相の華事相の實兩々相須つて眞言祕密教の面目を發揮せんと企てられたのである、爾來教相の研究漸く高野山上に擡頭し、金剛蜂寺方及大傳法院方より相競ふて多くの學匠を輩出するに至つた、卽ち金剛峰寺方よりは法性、道範、明範等の英哲を出し、大傳法院方よりは眞譽、教尋、信慧等の巨匠を首として兼海、融源、俊晴、會慶、觀心、忠俊等の諸法將を出すに至つて、大傳法院方は優に金剛峰寺方を凌駕するの勢を示したのである、斯くて蘭菊美を競ひつゝ歲月を閲すること一百餘年、賴瑜和尚の出づるに及むで新義派の義學は大成せられたのであつた。

後年賴瑜和尚が傳法密嚴兩院の基跡を根來に移したことは前段旣に述べた所であるが、其の主因の一は寺方と院方とは到底その學風に於て相容れざるものがあつたからであると思はれる。


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抑も新義の法門なる加持身説法とは、大日如來の當體なる本地身に於て説法ありや否やとの教主論に對して、根嶺の一派は本地身の位は無説法にして加持身の位に於て初めて説法あけとの義を首唱せるを云ふのである、されば從來の本地身説法を固執せる高野山の學風とは全く相容れず、茲に端なくも新義古義の別を生じ、一は之を本地身説法又は本地説と云ひ、一は之を加持身説法又は加持説と稱し、爾來新古の兩派互に義敱を鳴らして今日に迨んでゐるのである。

さて賴瑜和尚に依て創設せられたる新義の學説は瑜公歿後聖憲和尚出でゝ之を繼承し大に潤色して更に一層完壁ならしめたので、古來瑜公憲公と並び稱せられて末學崇敬の的となつてゐる、上述の如く覺鑁上人が高野山上に大傳法會を開始されてよりは、眞言教學の勃興は高野根來の兩山のみに止まらず、京都の東寺に於ても盛んに講究せらるゝに至り、所謂教相義學の發達時代を現出したのであつた、卽ち高野山にては法性、道範以來ますます發達して終に宥快、長覺兩師の如き著名なる學匠を出し、東寺にては所謂東寺の三寶と稱せらるゝ賴寶、果寶、賢寶等の法將相次いで出で、就中高野の宥快東寺の果寶根嶺の賴瑜の三師最も秀でたりしを以て、世に之を眞言教相の三巨匠と稱し末代まで其名を耀かしつゝあるのである。

斯くて吉野時代の初期に當つては、高野、東寺、根來の三山三方に鼎立して各々義學を盛んならしめ、眞言教相の聲價を高からしめつゝあつたが、室町時代以後は漸く衰微して前述の巨匠に比肩し得べき學匠を見ず、頗る沈滯して居つたやうである、其後織田氏を經て豊臣氏時代に移らむとする頃、根來十輪院に道瑜和尚あり學德一世に高く終に推されて根來山學頭の職に登つた、然るに根來學徒には客衆又は客方と稱して諸國より來往する者と、常住衆と呼ん


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で常に在山する者とありて相對立しつゝありたる為、常住衆は道瑜和尚が客方より推されて學頭となつたのま憮からず思ひ、更に妙音院の賴譽和尚を舉げて學頭職に就かしめた、茲に於て一山に兩學頭を置くの奇觀を呈し、十輸院は客衆の學侶を率ゐ、妙音院は常住衆の學徒を督して兩派隔執を結ぶに至つたのである。

されば其後やうやく一學頭に復歸したのであつたが、天正の頃智積院日秀の下に玄宥和尚あり、妙音院賴玄の下に專譽和尚あり、二個の俊傑時を同じうして出で聲望倶に高く相伯仲の間に在つたので、天正十二年妙音院賴玄學頭を辭し專譽和尚其後を襲ふて學頭たるに及び、客衆は玄宥和尚を仰いで同じく學頭たらしめたため、茲に再び兩學頭を見るに至り一山全く兩分せられ、端なくも智豊兩山對立の端緒を開くに至つたのである。

此事のありたる翌十三年は所謂天正の兵燹であつて、根來山は滅亡し學徒は離散したる為め、專譽和尚は大和長谷寺に據りて法幢を樹て、玄宥和尚は京都に智積院を復興して教線を張るに至つたことは、前段旣に縷述の通りである。

顧みれば鎌倉時代(文治二年──元弘三年)以後、室町時代(延元二年──天正元年)安土桃山時代(天正元年──慶長八年)の前後を通じて德川幕府の初世に至る迄は、全く是れ兵亂の世にして上下交も交も武事に勵しみ文事は自ら閑却されて、實に驚くべき文教の衰廢を見るに至つたのである、されば德川幕府は其政策として一面には大に佛教の振興を圖り專ら保護を加へしと同時に、他面には嚴密なる制度を設けて僧徒の埓外に逸出するを防止したのであつた、卽ち德川幕府が慶長及元和年間に於て諸寺に下したる法度の數は實に三十餘度の多きに及び、如何に其の嚴重なりしかを察知するに餘りあるものがあるのである、要するに寺院法度の主眼とする所は、戰國時代以來諸寺の僧徒中には往々自己の本分を忘れて干戈を弄し甚だ殺伐の風ありしを以て、大に之を矯正すると倶に學問修業の途を策勵せ


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んとせられたのである。

一例を舉ぐれば慶長十八年四月十日、智積院に下したる法度中には

一、為學問住山之所化 不滿二十年者、不可執法幢事

一、所化衆不用能化之命、非法有之者、可追放寺中事

とあり、其他元和元年の眞言宗諸法度等には頗る峻烈なものがあつたのである、斯くの如くにして德川幕府はしばしば諸法度を下して諸寺の僧徒を鞭韃督勵せられたので、智豊兩山に於ても教相義學の講究漸次に旺盛となり、幾多の學匠踵を接して輩出するに至つた。

されば德川時代に於て最も囑目せられたるは我が新義眞言宗にして、智豊兩山は互に鎬を削りて宗學の奧を探り幽を闢き、更に廣く顯教の二教に亘りて研鑽講究の鉾を磨いて居つたのである、此間に在りて古義事相の本山と稱する仁和寺、大覺寺、三寶院、勸修寺等の諸門跡寺院は、いづれも舊來の官位門地を擁して權勢を張り、又た能く古來の法流を傳承し來つてはゐたが、教相方面の攻究は一向に行はれたることなく、古義派に在りては只僅かに高野東寺の兩山に於てのみ些さか其餘喘を保つて居つたに過ぎないやうである、軈て智豊兩出興學の情勢を觀るに、智山は第四世元壽より第五世隆長第六世宥貞を經て第七世泊如運敞和尚の時に至り、盛名一世に冠たるの概あり、豊山は第八世快壽より二代を經て第十一世亮汰僧正の代に及びて學風大に振ひ、其後智山には信盛、宥鑁、豊山には尊如、卓玄等の諸豪相次いで出で、智豊兩山の教學は正に元祿を中心として發達し、倶に學山の名を擅まゝにするに至つたのである。

顧れば元祿の時代は實に德川幕府の黄金時代と謂ふべく、學問工藝より音樂技術に至るまで殆んど其の頂點に達し


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教界もまた社會の風向に促がされて競ふて多くの學匠を出し、延いて幾多の著作を後世に傳へ以て末學の規範となつたのであらう、中に就て智山の運敞、豊山の亮汰、高野の賴慶、湯島の淨嚴、その他隱元、潮音、鳳潭、普寂等の巨匠最も世に著はれ、今ま猶ほ諸宗學徒の崇敬を博してゐるのである。

降つて安永天明の頃には、眞言宗は新古倶に倶舎唯識等卽ち性相學の研究漸く盛んになり、殊に文化文政の頃より智豊兩山に於て主として性相學を講究し幾んど其學風を一變するに至つた、卽ち豊山には法住、慈光、快道、戒定等の碩學輩出し、智山よりは動潮、淨空、海應、信海、龍謙等の學匠出でゝ當時の學界を風靡し、由來智豊兩山は宗乘學以外三一兩乘の餘乘學を兼修するの學風を生じたのである。

斯くて一たび性相學の新天地を開拓するや、高野、南都、叡山、禪、眞宗、淨土、日蓮等諸宗派の學徒笈を負ふて雲集し、其盛時に在りては智豊兩山孰れも數千の學徒を收容し、遂に所謂學山として其盛名を關の東西に轟かすに至つたのであつた。

新義教學の開展及概況は大略前述の通りである、往時學山として天下に睥睨した智豊兩山の現狀、いま將た如何の狀にあるであらう、筆者は喟然として長大息を禁じ得ないのである。



淨土宗
第二回
大正大學教授
石井教道


頁一五
第二項 淨土祖師論

(甲)淨土祖師と教權圈內の祖師

成立宗教の創稱者である中心人格を教祖といふ上からいふと、釋尊も祖師の一人ではあるが、佛教内では多く釋尊を除き、經典に依つて信仰を確立し、その體驗に本づいて經意を明暢にし、且つその教へを社會に宣揚するに努めた人を祖師といふてをるのである。さうした祖師を、廣い佛教僧團の中から何人を選むで淨土宗祖師とするかといふに、宗祖(1)は、曇鸞、道綽、善導、懷感、少康の五師を選定して「淨土五祖」と稱せられた。凝然(2)は印度に三祖、支那に九祖、日本に六祖を選むで淨土十八祖とされたのである。これは廣い意味の淨土教祖師としては可いかも知れぬが、局限された淨土宗祖師としてはさらに精鍊さるべき餘地がある。其後ち聖冏(3)は、傳承形式のちがいに依つて、六祖相承、八祖相承の二種の系脈を建てられたのである。更に下つて德川時代に至り、聖冏、聖聰をも入れて、三國淨土宗祖師を十六祖(4)或は十三祖(5)、又は十祖(6)と數へ、或は寂慧(7)以下の七人を數へて眞宗七祖とする説等がある。それ等は何れも聖冏の六祖、八祖の説に本づき、聖冏等を入れる上に多少の取捨をしたものである。所謂る聖冏の八祖といふのは、

馬鳴、龍樹、天親、菩提流支、曇鸞、道綽、善導、元祖

である。元祖以下の諸祖を、且らく彼の十六祖説に依つて連ねてみると

聖光、良忠、寂慧、定慧、蓮勝、了實、聖冏、聖聰の八祖である。

然し教權圏内の祖師となると、更に選まれるのである。宗祖(8)は、淨土宗義を修理するには、曇鸞、道綽、善導の三


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師の見解をよく心得ねばならぬと云はれたやうに傳へてをる。而して良忠(9)は、師の聖光から、觀經疏、法事賛、觀全法門、禮賛、般舟賛、論語、安樂集、選擇集、往生要集、十二門戒儀を一々に讀み傳へ畢んぬ、と云はれ、恰も教權圏内の書として取扱はれたやうである。其後ち聖冏教學興るに及び、恰も宗學の權威は、獨り聖冏教學にあるやうな時代も現はれたのである。然し德川中紀已後近世に至り、復古運動漸く起り、二祖三代の見解を以て教權圏内のものとなすに至り、聖冏教學の採否については、學者の見解に依つて意見を異にするやうになつて現代に及んできたのである。更に亦、現代の新運動の態度については別に論ぜねばならぬが、大體に於て、宗學上教權圏内の祖師として一般に認容されてをるのは、二祖三代と考へて置けば間違ひはないのである。所謂二祖三代といふのは、之(10)に二説ある。

第一
二祖=善導、元祖
三代=元祖、聖光、良忠

第二
二祖=同上
三代=聖光、良忠、寂慧

素とこの三代といふ術語は、良忠の名づけられたものであつて、第一説の相承に名づけたものである。第二説は、恐らくこれ良忠門下が六流と分れ、其中、白旗寂慧の説を正統とする所から、白旗流の元祖である寂慧を加へて、三代説をなしたものであらう。

(1)選擇集
(2)源流章
(3)淨土眞宗付法傳、眞蹀第三


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(4)淨土十六祖聞傳
(5)淨統略賛
(6)淨土十祖圖傳
(7)眞宗七祖傳
(8)見淨土二藏頌義卷第一
(9)選擇決疑鈔第五
(10)淨業信法訣第一

(乙)教權圈內の祖師傳歷と其著書

一、善導大師

師は隋の大業九年、安徽省泗洲に生誕された。幼少にして出家し、極樂淨土の畫圖を見て夙に心を淨土に寄せられたのである。長じて觀無量壽經を見るに及むで益々淨土を欣慕され、遂に西河の道綽禪師の門に投じて淨土の法門をきはめられたのである。

さきに曇鸞や道綽に依つて淨土宗義は明示されてをるのではあるが、更に深くそれを組織的にするのには今一段の研究を要したのである。しかのみならず、當時あだかも唐朝文化の精華をなした時代であつて、交通の自由なるにつれて四方より文物輻湊してきたのみならず、宗教界に於ても、祆教、景教、摩尼教などの新宗輸入されて相當の勢力を得てゐたのであり、それに支那固有の道教も頓に頭を擡げてゐたのである。特に佛教界に於ても、支那佛教の爛期とでもいふべき時代であつて、有名な玄奘は在天十八年の新歸朝者として天下を風靡したのである。この新譯佛教


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興つてからの佛教研究法は非常に綿密になつたほど重大な影響を及ぼしてをる。さうした内外兩面の要求に應じて現はれたのが善導であつた。かくして師は前祖の説を承繼しつゝ獨創の見解を以てこゝに淨土宗義の大成を企てられたのである。それのみならず、師の人格がいかに高潔であつたかは、瑞應傳記者が、佛法東行してより未だ禪師の如き、盛德なし、との讃辭を呈してをることに依つて概見し得るであらう。然るに師は、新修往生傳に依ると、永隆二年三月二十四日に西化されたのである。師の傳を記すもの頗る多いが、續高僧傳第二十七、懷惲の碑文、瑞應刪傳等最も信ずるに足るものである。

師の淨土宗義を表はすもの、著書として傳ふる所ろ凡そ十二部あるが、その中眞撰と見られるものは五部九巻である。今其大綱を知る便宜上後世(1)の見解をも參照して左に圖示するであらう。

五部九卷
觀經疏四卷
玄義分 大綱論
序分義
定善義
散善義
注釋論
教理編
法事讃二卷 讀誦正行
觀念法門一卷 觀察正行
往生禮賛一卷 禮拜正行
般舟賛一卷 稱名正行
賛嘆供養正行
實踐編


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法然は房號、源空は其諱である。俗姓は漆間氏、岡山縣南條郡稻岡の產、長承二年四月七日に生誕されたのである。齡ひ僅か九歲のとき、父の非業の最後をとげ給ふときの遺誡に依りて出家し、ついで十三歲のとき比叡山に登りて西塔源光の門に入り、さらに皇圓の室に學ばれたのである。かくして多年天台の教觀をきはめられたのであるが、法爾法然に宗教的天才であつた上へ、人生極限の悲哀を秘めて眞實解脱の道を求めて登られた上人には、當時の教界が、文字の遊戲や、概念運用の巧拙に幔幢を張るのでなければ、紫緋僧階に浮身をやつす制度の宗教には堪えられなかつたのである。況して當時は、源平の爭ひに世はつかれ、朝の榮華はタべの風に散り易い人生に直面させられ、ひたすら眞實の宗教を求めてやまなかつたのである。こゝに鑑みられた上人は十八歲にして西塔黑谷に隱栖し、叡空に師事しつゝ深く經藏に入りて大藏を閲されたのみならず、或は京洛南都の地に出でゝ廣く求法されたのであつた。爾來二十有五年、孜々として倦み給はなかつた上人は、終に萬人平等に解脱することのできる眞の宗教に直面されたのである。それから後ちは、山を下りて京洛の巷に出で、民衆教化のため席の溫まるひまはなかつたのである。其間、舊宗教の壓迫など幾多の困難はあつたが、他力救濟の信念いよいよ固く、翕然歸向した民衆の心の裡に建てられた淨土宗は何うしても破壞することは出來なかつたのである。かくして化導三十有七年に及むだが、建曆二年正月二十五日、稱名念佛のうちに安らかに往生されたのである。師の傳を記すもの頗る多いが、畏くも三帝の親しく筆を染めさせ給ふた勅修法然上人傳四十八卷は、權威あるものゝ一つである。

宗祖の教義は載せて法然上人全集一部に收錄されてをるが、特に選擇本願念佛集は、最も大切なものであるから、


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左に其の章目を列示して研究の便に資するであらう。

第一章 佛教々理上に於ける淨土門の地位を明す
第二章 淨土實踐行文集
大經撮要編
第三章 本願念佛文集
第四章 大經行法皆歸念佛文集
第五章 念佛利益文集
第六章 念佛不滅文集
觀經撮要編
第七章 念佛行者攝護文集
第八章 淨土行者安心文集
第九章 淨土行者作業文集
第十章 諸佛讃嘆念佛文集
第十一章 念佛獨勝文集
第十二章 釋尊本懷文集
阿彌陀經撮要編
第十三章 念佛有多善文集
第十四章 諸佛證誠文集
第十五章 諸佛護念文集
第十六章 念佛相傳文集


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この圖に依つて概觀し得るやうに、本集一部十六章は、三經の主張要旨は、偏へに選擇本願念佛にありと見做し、その中の要文と、その要文に對する善導の見解とを照應せしめ、聊か自己の見解を加へられたものである。故に一部組織の形式は、十六章各々三段に分たれ、第一に章目を出し(篇目といふ)、第二に經疏の文を掲げ(引文といふ)、第三に私見を加へる(私釋といふ)といふ順序によつて出來上つてをる。一部十六章廣いけれども、之を略していふと、一部の終りに

夫欲速離生死二種勝法中且閣聖道門、選入淨土門欲入淨土門正雜二行中且拋諸雜行選應歸正行欲修於正行正助二業中猶傍於助業選應專正定正定之業者卽是稱佛名稱名必得生依佛本願故

といふ八十一字に收まり、更に要約していふと、一部の初めに、

南無阿彌陀佛 徃生之業念佛為先

とある十四字に歸するといふことになつてをる。

三、聖光上人

諱を辨長亦は辨阿と云ひ、聖光は別名である。所住の地に依つて鎮西上人とよびならはして居る。俗姓藤原氏、筑前香月莊の產、應保二年五月六日に生誕す。七歲にして妙法の門に投じ、十四歲のとき觀音寺に於て剃染受戒された。其の後ち、唯心、常寂について天台學を修め、更に遙か比叡山に登り、東塔南谷觀叡法橋の室に入られたのが恰も二十二歲であつた。證眞法印にも師事されたが、再び歸鄉して油山の學頭となつて講席を張つたが、建久四年、舎弟三明の絶息して死んだやうになつたのを親しく見てからといふものは、深く人生の無常を感じたのである。其の後ち遇


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●所用あつて京都に上られたとき、兼て證眞法印から、他力易行の法を勸めてをられた法然上人の高德なるを聞き及むでゐたのを思ひ出し、一日法然上人の門を叩かれたのである。そのとき上人と二三問答をしてをるうち、宛ら其の人格に感じて忽ち弟子の禮をとり、心を淨業に歸せられるやうになつたのである。上人正に三十六歲、聖光は三十六歲であつた。隨從前後八ケ年、淨土の奧義を心底にをさめられたのである。その後ち安貞二年の冬、當時浮土家中異説邪義を稱へて法然上人の教へを誤り傳へるもの漸く多きを加へるやうになつたのを慨き、肥後の徃生院に於て四十八日の別時を修し、宗祖より傳承した法門を六重(2)二十二件の項目にまとめ、一々其の内容を分明にして異義なきやうにされたのである。その成果が授手印一巻となつて表はれてをるのである。かくして淨土の法門を宣揚されたが、嘉禎四年二月二十九日、病革るにをよび、高聲念佛數遍、光明遍照の文を誦し、安祥として徃生されたのである。春秋七十七、師の傳は聖光上人傳一巻に詳細である。

師の教學を傳へるもの凡そ九部ある。一に授手印、二徹選擇集二巻、西宗要六巻、念佛名義集三巻、淨土名目問答三巻、念佛三心要集一巻、臨終用心鈔一巻、識如淨土論一巻、徃生修行門(散佚)である。

四、良忠上人

良忠は諱、字を然阿と云ひ、つねに記主とよびならはしてをる。俗姓は藤原氏、島根縣三偶庄ノ產、正治元年七月二十七日に生誕された。十一歲のとき、三智法師の徃生要集の講筵につらなり、密かに心を淨土の教へに寄せられたのである。十六歲のとき出家受戒し、專ら法華經を誦したが、たまたま大聖竹林寺の記をみるに及び、法照禪師が文珠の指南に依つて徃生淨土を期せられたのに感銘されたことがある。然し、學は深く廣く修められた。卽ち圓信、信


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進について天台倶舎を學び、密藏、源朝はついて眞言の灌頂をうけ、榮朝、道元はついて禪を諮決し、俊芿について律をきはむる外、南都に遊むで三論法相華嚴の學を習得された。三十四歲のとき、石洲多陀寺に於て念佛すること一兩年に及むだが、遇々生佛法師が來り、念佛の法門については、法然上人の高弟であつて、現に鎮西に住する聖光について聞かるゝが可いと云はれたので、遂に意を決して筑後の菩導寺に至り、淨土の法門を傳承されたのである。時に師正に三十八歲であつた。師が聖光の傳承を體得されたことは、聖光が常に、然阿は辨阿が若くなつたものであると稱嘆されたことに依つて概見することができる。師は生涯をあげて著書に、講筵に、また化導につとめられたが、弘安十年六月十六日より病にかゝり、七月六日に西化されたのである。春秋八十九歲。師の傳は載せて然阿上人傳一巻に詳しい。

凡を各宗ともに其の宗學の完成は、三代にして就ることが常例のやうである。我が淨土宗學も、記主に至つて徵に入り細を穿つて其の完璧を全ふしたものゝ如である。師は、曇鸞以後の各祖の著書に對し、悉く註解を加へ、總して五十餘帖に及むだ。これみな要何なるものゝ夢告に本づく要請に依つて書いたといふので、それ等を悉く報夢鈔と稱してをる。而もその何れもが大切でないものはないが、特に聖冏(3)の云へる如に、傳通記十五巻、選擇傳弘決疑鈔五巻は、師の全力をそゝいで作られたものであるから、其の二部を根本資料として師の教學を伺ふべきである。

五、良曉上人。聖冏上人

良曉は諱、字を寂慧と云ひ、又惠光ともいふ。石州の產、建長三年に生る。十八歲に叡山に登り、仙曉法印に師事す。翌年受戒し、天台教觀の奧義をきはめ、亦、金胎兩部の灌頂をうけられたが、其後ち淨土の法を宣揚せる良忠を


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慕ひ、鎌倉に行いて弟子の禮をとり、淨土の奧義を悉く傳承した。師つねに相州白旗鄕に住して他力法門を弘通したから、師のことを自旗と云ひ、其流れをくむ一派を白旗流と稱して居る。嘉曆三年三月一日、七十八歲にして西化された。師の著書も亦少くないが、特に傳通記見聞十五巻(遲澤鈔ともいふ)、述聞鈔一巻等は師の思想を伺ふ上に大切なものである。

聖冏は諱、西蓮社了譽といふ。常州久慈郡の產、曆應四年正月二十五日に生る。八歲にして了實の門に投じた。その後ち蓮勝、定慧について淨土の奧義を窮めたのみならず、廣く内外の學を修め、一として通ぜぬものはなかつた。然し其中心は淨土學であつて、祖師の傳承を守るのみならず、時代に應じて淨土法門を普及することに努め、且つ宗學の表現法を一變するほどの革命的教學を樹立された。かくて廣く宗學、制度の兩面に亙つて宗風の宣揚につとめられたが、應永二十七年九月二十七日合掌稱名のうちに西化された。春秋正に八十であつた。師の著はす所の書頗る多いが、中に於て二藏二教頌義三十巻は、師の教學を伺ふ上に最も大切なものである。

(1)徃生禮賛私記上、法事賛私記上等
(2)六重二十二件といふのは、淨土宗の安心、起行等といふ教への項目を大科六章、細分二十二項として示したものである。その一々は、本論にでるから、今一々の説明を加へぬであらう。
(3)淨土述聞口決鈔下


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第三節 佛教分類法と淨土宗の地位

第一項 佛教分類法の種類

尨大な佛教々理を分類し整理し、以て自宗教義の最高價値を主張する所以の形式を、古來より「教相判釋」と云ひ、略して教相、判教などゝいふてをる。故に其整理方法は宗派に依つて異るのである。今淨土宗に於ては、伺ういふ整理法に依つて、淨土宗義の最高權威を主張するのかとい に、抑々淨土宗の教判なるものは、其組織は古く龍樹の創案になるものであるが、正しくそれを教判として使用したのは曇鸞が創めである。卽ち二道判と名づけられるものがそれである。然るに、道綽は別の分類名稱を用ひ、善導また異つた形式に依られたのである。それを三師教相といふてをる。然らばそれ等は全然一致しないものかといふに、且らく聖冏(1)の説に依ると、それは立場の相違であり、分類標準の異なりに過ぎないのであつて、其意味は連絡したものであるといふのである。何ういふ標準の相違かといふと、

立教標準

聲聞藏
菩薩藏
漸教
頓教
善導所立

難行道
易行道
曇鸞所立

聖道門
淨土門
道綽所立


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といふのである。然し宗祖は、一宗開立に際しては、正しく道綽の二門教判に依られたのである。なぜ他の分類法に依らずに偏へに、道綽の所立に依られたのであらうかといふに、良忠(2)は、聖道淨土といふ名稱が、最もよく其教へ本然の意味を顯はすに適してをるからであると理由づけられたのである。その後ち聖冏(3)教學に至つては、反つて善導所用の二藏二教の判教を用ひて一宗の教判とされた。素より根本的に違つたものでないから、いづれに依つても差支はないやうなものゝ、宗學の大きな流れは、やはり宗祖に依つてなされたる二門の教判に依ることになつてをる。

最後に一言加へてをきたいのは、淨土宗教判の特色である。本とこの教判は、自宗教義の最高價値を主張するものであるが、その最高價値を極める標準に二樣の意味がある。一には、教理の淺深を論じて以てその最高教理たることを主張するのであり、二には、其教へが尊いといふことは、それが時代に相應しく、然も多くの生靈を實際に救濟し得るかどうかといふことで決定するのである。卽ち一は理論的であり、一は實際的である。而して諸宗教判の態度は、多く前者の立場に據つてをるのであるが、少くとも宗祖(4)の教判は、正しく後者の立場にあるのである。但し聖冏の態度は寧ろ前者にある。

第二項 聖道聞より淨土門へ

こゝに聖道といふ概念の内容は何うかといふに、宗祖(5)はこの醜汚に滿てる現實の世界に於て、證りの修行をなして佛陀にたらうといふ教への總稱であるとされた。故にこの中には、淨土門を除く諸宗諸派ことごとく攝められてをるわけである。次に淨土といふのは、他方大慈悲の透徹せる眞實の世界に往生して、解脱の目的を全ふしやうといふの


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である。詳しく分類すると、この淨土門が二大別されるのであつて、一には十方淨土門、二に西方極樂淨土門となるのである。今は正しく西方淨土門をもつて我が宗の地位とするのである。

かくの如き二門は、いづれも解脱の要路であるのに、なぜ聖道門の行き方をとらずに、淨土門に依られたのであるかといふに、それは宗祖が、自から味はれた苦しき宗教的經驗の結果が、宛ら曇鸞や道綽に依つて理由づけられた聖道より淨土へのそれにしつくりと合したゝめである。卽ち宗祖が、九歲に出家してから、四十三歲まで自力聖道の道にいそしまれたのであるが、何うしても證りの道を如實に體驗することができなかつた。たとひ一人りできても、大乘佛教の根本的た態度である萬人平等に解説する道が發見されなかつたのである。それは罪深き凡夫人である上へ、環境はむしろ罪惡へ導かうとしてをるのである。然るにもかゝはらずそれに逆行して眞理へ向ふといふには自分の力が餘りに弱く、しかも命が短かすぎるからである。さうした苦悶のどんぞこに他力大悲の本願の彌陀に直面されたのであつた。それが恰も道綽(6)の示された二つの理由に相應したのである。卽ち一には時間的理由であつて、教へは必ず時代に適應したものでなければならぬ。而して現在は已に末法濁惡の時代であるから、釋尊在世の如に、佛の大なる偉力を藉つて證りを開くわけに行かぬのである。二には空間的理由とでも云ふべきものであつて、聖道の教へは高く眞理の寶山を出で、證りは廣く宇宙の理を窮めてはをるが、登る己れの行足は餘りに弱く、廣くきわむるには餘りに智力に懸隔りがありすぎる。かくして聖道より淨土への道を選まれたのであつた。曇鸞(7)もまた五つの理由を舉げて、難行聖道から易行淨土へいそしむわけを説明された。宗祖はそれ等祖師の宗教的經驗を舉示して後ち、上古の賢哲なほもつて此の如し、末代の愚魯むしろ之に遵はざらむや、と確信のほどを示されたのであつた。


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(1)二藏二教頌義第一
(2)選擇傳弘決疑鈔卷第一
(3)二藏二教頌義第一
(4)法然上人傳記一期物語に云く、淨土宗を立るは是れ全く勝他に非ざる也云云
(5)選擇本願念佛集
(6)安樂集卷上
(7)徃生論註上

第三章 淨土宗教會制度と其沿革

淨土宗教義とともに、淨土宗を形成する他の一面の外面的形式をこゝに教會制度と名づけたのである。この中に論ぜらるべき問題は頗る多岐に亙ものであるが、便宜上かりに之れを二種に分類してみたいと思ふ。卽ち一には教義の直接的表現形式をなすものであつて、崇拝對象の佛像、法式、殿堂莊嚴等である。之を且らく内的制度と名づけて置く。二には寺院、財產、教團の制規、布教、宗政機關等を總括するのであつて、上に對して之をかりに外的制度と名づけて置く。素よりさうした總てのものを網羅して教會制度と名づけることが、果して妥當であるか何うかは問題もあらうが、今こゝには便宜上さうしたものゝ總稱として用ゆることを許されたい。

かゝる制度がいつ何うして成立して現在にまで及んできたかといふことの研究は、可なり困難な事業であるのみならず、こゝに多くの紙數を持たぬから、極めて概括的な瞥見を與へるより仕方ないのを豫じめ斷つて置かねばなら


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ぬ。さうして亦、内的制度といふものについて遠くその淵源を探れば、可なり古くにまで遡つて論ぜねばならぬこと●思はれるが、今は宗祖の開宗を基點として述べる積りである。

我が淨土宗制度史を通じてみるに、大體、前期、中期、後期の三期に分けてみることが出來ると思ふ。初めに前期といふのは、承安五年の元祖開宗から、聖冏が、一宗僧侶たるべき資格規定である傳法形式に依り、初めて弟子の聖聰に奧義を授けられた明德四年まで、凡そ二百餘年間をいふのであつて、之を其内容からしばらく自由制度期と名づけてをく。次に中期といふのは、明德四年から、司法を倶ふた淨土宗法度の發布された元和元年まで、凡そ二百餘年間をいふのであつて、かりに此の期を制度準備期と稱してをく。後に後期といふのは、元和元年の法度發布から現在に至るまでを總括したものであつて、前に對してしばらく之を制度確立期と名づけてをく。

第一自由制度期。 僧階の上下や權勢の爭奪など教會制度に固執して宗教の本義から違つてゐた宗教界を嫌厭し總ての虛飾や形式化してしまふた制度からまぬかれ、赤裸々な罪惡の人間となり、萬人等しく宗教の第一義諦に直參し得る新宗教を提唱したのが法然上人である。(1)曾て弟子の法蓮房が、古來の先德には、みな遺跡がある。然るに師法然にはお寺とて一つもない、上人のなき後には何處を以て遺跡と致しませうかと尋ねたとき上人は、念佛の聲する處は何處でもみな自分の遺跡であるから、一廟にきめる必要はない、と答へられたと傳へてをる。この記事に何處まで史的價値があるかは問題もあらうが、上人一期の行化を案へてみると、上人の教會制度に對する考へをよく表はしてをるものと云へる。これは實に淨土宗の特色であつて、彼の傳教大師が、山家學生式を著はして天台宗僧侶たるの規定を定めたり、或は、大乘僧は大乘戒壇に於て登壇受戒せねばならぬと主張されたり、又、法然當時入唐歸朝して禪


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む高揚した榮西が、禪苑清規十條を定め、禪の修養道場としては、必ず女人等を入れぬ寺の必要を第一に設けたなどに比較して、非常に徑庭のあるのをみるのである。法然上人としては、淨土宗といふ特別に銘をうつた寺の必要がなかつた、制度上どこの宗派に屬してゐやうと、又、それが在家であらうと、何處でもよい、たゞ念佛して如來の懷の裡に眞實に生きやうとする心さへ確立してをればよいといふのであつた。故に、新宗教に對する舊宗教の壓迫事情も、法然に對する南都北嶺の壓迫は、傳教に對する南都の態度や、榮西の新宗教に對する叡山のそれとは大分に事情が違ふのである。上人は、宗教の本義に直參せしむるに急であつて、どちらかと云へば、超倫理超制度の態度があつたから本當にそれがのみこめなかつた一部の弟子達は、誤つて道德を無視し制度そ重んぜぬものもあつて、其累がつひに上人にまで及むできたのである。あるときは七ケ條起請文を作つて弟子達を誡められたが、それも永久的制度のものではない。上人も常に吉水の房に居られたのであつて、所謂る寺といふほどのものではない。又、遺產分配をされたこともあるが、別に一宗の財產としてゞはなかつた。又、法式の如きも、彼の宗貞が、開限供養を上人に願ふたとき、唯千遍念佛を稱へて、あとは不斷念佛を行せられたと傳へてをる。この思想は、後世稱念上人が、道場法式の一つに規定して、道場では唯稱名のみ行して餘の行ひを禁じた所にも現はれてきてをる。傳(2)に依ると、念佛の間たる文讃をいろへ誦ずるやうになつたのは、空阿彌陀佛から創まると傳へてをる。其他の點を綜合してみると、上人は、制度といふことには極めて自由であつたことが解る。

然し弟子以後に至りては、攝門(3)の云へる如に、源智の吉水再興と云ひ、念佛中心の道場もだんだんと出來るやうになつた。然し彼の寺傳寺誌の傳へる如く、筑後の善導寺とか、鎌倉の光明寺等が、所謂 淨土宗寺院として建立され


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たのか、又は外面的には天台宗僧侶としての其人格の下に建立されたのか、或は後世に名づけた寺名かは、更に研究の餘地があると思ふ。而して法式上に變化をみるのは、元弘元年に疫厲禳災の為め百萬遍念佛を修するやうになり、又、祐崇が勅に依りて十夜法要を淨土宗の恒式とするやうになつたことである。聖冏(4)の説に依ると、嘉禎三年に、聖光より良忠へ傳法授式し、璽書相傳の形式もあつたやうに記してをるが、果して後世の如き形式を指すのか、ある種のものを後からかく形式づけたのか更に調べる餘地がある。何れにしても、記主門下六流と稱し、關東に三流、關西に三流と分れたといふ如きをもつて考へると、相當教團の勢力も加はつて來た如くであるが、大體に於て、元祖開宗の根本精神に基き、教會制度は自由であつて、之を制度を重んずる宗派からみると全く虎關(5)が寓宗であるといふた程度のものであつた如くである。寓宗といふと輕蔑した言葉の如くである。事實、制度に囚はれた虎關はかく信じて書いた事でもあらうが、寧ろそれは、元祖の宗教は、單なる在家佛教でもなく、又、偏した寺院佛教でもなく、唯宗教の本義に直參するのを宗の生命とした自由制度の宗派であることを反證するものであるといふことができやう。

第二制度準備期。 タトヒ初めは制度の宗教を開立する考へはなくとも、一主義の下に集る人々が増すに從ひ、僧團内部の結束を固める必要もあり、又、他の主義を持つてをる團體からの壓迫に對する必要もあり、同時にまた社會制度の發達に要請され、いつまでも自由制度のまゝでは置かなくなつて、其僧團を支配するある制度を必要として來るやうになるのは自然の勢ひである。彼の聖光が、四十八日の別時を勤め、僧團の結束を計つたのも矢張りその必要があつたからである。ましてだんだん同一念佛宗の中に種々の派が生じて來るし、外には、夢想の如きあつて淨土宗は小乘であるなどゝ眨し、虎關も又罵つて附庸宗と稱したのみならず、當時一般に、系統を尊び、制度を重んずる社


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會にあつては、何うしてもある種の制度を設けて僧團の結合を計らねばならぬやうになつたのである。さうした雰圍氣に醞釀して現はれたのが、聖冏の一宗僧侶資格として定めた兩脉傳法の内的制度の確立である。其制度に依つて弟子聖聰に五重宗脉を傳へられたのが明德四年である。これには白旗制式狀とか、五重指南目錄など一定の形式が極められてある。又、外的制度としても、一宗全體を司配するものはないが、個々の間だに制定されたものは少くない如である。例へば、應永十四年六月廿九日に制定された知恩院と當麻寺との契約七ケ條の如き、少し下るが文龜三年卯月六日付知恩院廿一代棟蓮社周譽の名に依つて發布された知恩院宋代制誡記錄之事四ケ條の如きその一つである。又、寺院財產についてみるに、長享二年には、多年青蓮院の附屬となつてをつた山林敷地を知恩院に還附し、周譽に令旨を賜ふて大師の舊蹟再興を獎勵されるやうになつた(華頂要略記)。又祐崇は、靜岡寶臺院を初め淨土宗寺院二十餘ケ寺を建てた。大永二年には存牛に紫衣を賜ひ、知恩院の獨立を宣言するやうになり、之に依つて天台宗と可なりはげしい爭ひが生じたやうである、然しこの時は已に勢力あつて、山門の嗷訴も聽されなかつたのである。大永二年には、存牛に勅して毎年正月に一七日を期し、「御忌」を修せしめ給うやうになつた。このとき以來、知恩院は一宗の總本山として、資格づけられて來たやうである。又魯耕に依つて偶然の如くではあるが、淨土宗的袈裟も出來るやうになつた(幖幟圖說下)。この期には寺院も可なり多く建立されたのであつて、良然は關西に數十ケ寺を建て、行明は九州に二十餘ケ寺を建てゝをる(奠香錄)又感譽は檀林清規三十三條を定め、寺を建つること數十ケ寺に及むでをる)緣山志第九)特に德川家康と淨土宗との關係が出來るやうになつて頓に制度は確立するやうになつた。卽ち天正十八年に家康と増上寺の存應と寺檀の約をなし、寺領一千五百石を寄附したのである。慶長二年に滿譽は、關東檀林規約五ケ


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條を定め、家康副書に依つて發布されてをる。かくして遂に制度は準備されて來たのであるが、尚ほ一宗を全國的に統一する制度と、その制度を行使するために必要な司法權が確立してをらぬのである。

第三制度確立期、德川幕府成つて天下漸く統一さるゝやうになりては諸種百般の制度も頓に確立されるやうになつた。幕府は亦、自ら關與して佛教各宗派の制度をも確立せしめたのである。我が淨土宗もそれに準じ、漸く成らむとしてをつた制度を完成し之に違背するものは幕府の名に依つて罪科に處せられるといふ司法權を倶ふた制度が布かれるやうになつたのが所謂元和元年の「淨土宗法度」、亦は「元和條目」とも、亦、「三十五筒條法度」とも稱するものである。この三十五箇條の原案は増上寺觀智と、知恩院滿譽との協議になるものであつて、觀智が、元和元年六月十四日に、廓山了的を從へて上洛し、滿譽と協定してそれを幕府に抽出し、七月二十四日に認可され、其認可書を増上寺と知恩院とに下附して實行せしめたものである。之に依つて一宗僧侶としての資格、仕職分限等が規定された。さうして淨土宗教勢上重大な事件の生じたのは、元和元年に、淨土宗にも宮門跡を立てることな許可されたことである。この規定は、正しく元和五年に、後陽成帝第八皇子直輔親王が知恩院門跡となり給ふことに依つて實現したのである。之に依つて天台眞言などの宗派と同樣社會的地位を得るやうになつたのである。然し其制度條項も、時代と倶に其一部は變革されたのである。例へば、寛文五年には九ケ條の掟てと下知狀五ケ條を發布し、延寶三年には三ケ條、貞享二年には定書五ケ條と下知狀十一ケ條、貞享三年には寺社奉行加判増上寺發布の定書七ケ條等を初め、享保七年に知恩院より末山に達示した法度九ケ條、同享保十二年の定書五ケ條、覺書七ケ條等みな必要に應じて制規が布かれたのである。さうしてそれ等統治機關は正しく増上寺にあつたのである。一宗僧侶資格を與ふる傳法相承も増上寺に於て行は


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れたのである。其中央統治機關を助けるものが檀林であつた。このとき淨土宗の寺院は頓に増し、十四萬二十ケ寺にもなり、各宗を凌いたのである。其寺院制度も、知恩院を總本山として其下に百山、黑谷、淨華院之本山として置き、その下に中本寺小本寺がある。自然、總本山直接の末寺と間接の末寺とあつて、それを直末、孫末、曾孫末の名に依つて区別を立てた。其外一宗の學校であつた檀林にも檀林規定あつて、制度としては頗る完備したのである。然るに明治維新とともに其制度にも非常な變革を見るやうになつた。一時は無秩序狀態にもなつたが、知恩院門跡を立てゝ一宗事務所となし、知恩院の學天を總裁として東漸寺豊舟を院家宗務取締りに任じ、稍一宗の統制をみたが十分でなかつた。其後ち、明治十一年に内務大臣は福田行誠を知恩院住職となし、根本宗制五ケ條を認可し、檀林總代や各本山の執事を増上寺に集め、社寺局の吏員も出張し、宗制諮問會を開いて宗制宗規を作成せしめ、四ケ本山の住職をも選舉せしめた。かくして四月十七日に新宗制宗規が認可され、福田師を管長とし、宗務所を増上寺に設け、十八日に全國に新制度を發布したのである。之に依つて今日一宗統制制度の根柢ができたわけである。爾來、宗會あつて種々に變改されて今日の制度になつて來てをるのである。

(1)勅修御傳第三十七
(2)同上第四十八
(3)緣山志巻一
(4)授手印徹心鈔奧書
(5)元亨釋書第二十七



曹洞宗
第二回
駒澤大學教授
岡田宜法


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第三章 日本曹洞禪の開立

日本に禪の傳來したのは遠く奈良朝以前にあるのであつて、道元禪師以前に於ける禪の傳來者としては、凡そ八人を數ふることが出來る。卽ち道昭、道璿、最澄、義空、圓仁、覺阿、能忍、榮西これである。然し此等の人々は、其主とする所は法相とか戒律とか天台とか眞言とかにあるので、禪はその附屬物に過ぎざる有樣である。たゞ榮西の如きは、後代に於て日本臨濟宗の建仁寺派の開祖と云はるゝ關係上、日本禪宗の開創者と目されぬわけも無いが、榮西は一方に五家七宗中の一派たる黄龍派の系統に屬する虛菴懷敝の禪を傳ふると共に、他方には專ら密教を研究し、密教に於ける蓮華流の教系を受けて、遂に葉上流の一派を開きし人であるから、其唱ふる所の禪も亦禪密混交のものたることは云ふ迄も無い。於此か吾人は、道元禪師以前を以て教(一般佛教)と禪との混交時代若くは正禪傳來の準備期と名け、道元禪師を以て正禪傳來の起源と見るとゝもに、曹洞禪傳來の嚆矢と稱する者である。されば道元禪師は日本曹洞禪の開祖であるから、其詳傳を掲ぐべきであるが、今は教理を概論することが急であるから其略傳に止め置かうと思ふ。

道元禪師は希玄と號し、俗姓は源氏、村上天皇九世の裔久我内大臣右近衛大將東宮大傅通親公の第三子、御母は攝政關白大政大臣藤原基房公の女にわたらせられ、土御門天皇正治二年正日二日を以て京都に御降誕遊ばされたが、不幸にして三歲の時、御父君通親公薨去せられ、八歲の時、御母君を喪ひ給ふた。禪師は幼より頗る聰明にあらせられ、四歲にんて李嶠(唐代の詩人)の百詠を讀み、七歲にして毛詩左傳を讀み給ふと云はるゝから、人生問題に對する


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鋭き思想は逸早くも當時旣に相當な發達を遂げさせられし如く拝察せらるゝ。されば母公の靈前に捧げられた香烟の縷々として昇りては消ゆる光景に、甚く人世の無常を觀じ、終に出家修道の大志を懷くに至り、九歲にして世親菩薩の倶舎論を初め、其他經律論三藏の研究に向はせられたが、此頃より御母兄前攝政關白藤原師家公は、將來我が嗣子として關白の顯職を繼がしめんものと寵愛一方ならず、禪師十三歲にならせ給ふ時、元服せしめとする師家公の内意を洞見せる禪師は、終に意を決して建曆二年の春(御年十三)深更人なきを窺ひ、密に都を逃れて御母兄の良觀法眼を比叡山に訪ね頻りに出家を求むるより、法眼は且つ騒き且つ諫むるも更に肯はざれば、感涙に咽びつゝ止むなく横川首楞嚴院の般若千光房に登らしめ、翌建保元年四月九日、天台の座主公圓僧正に就て剃髪得度し、翌日比叡山の延曆寺戒壇院に於て菩薩戒を受けさせられ、これより大乘小乘の廣汎なる佛教教理の研究に熱中せられ、大藏經を閲讀せらるゝに因み、忽然として一大疑團に逢着せられたのである。其疑團とは『本來本法性天然自性身』と云ふ人間論の上に於ける根本問題である。禪師正に御年十五歲であつた。

其の語の大意は「吾々人間は、この心この儘が佛や神と同一性質であり、この身この儘が天然自然に立派な聖賢と同じである」と云ふ事である。然るに禪師はこの語に對して大なる疑惑を懷かざるを得なかつた。卽ち禪師は『吾等の身心其儘が聖賢と同一本質であるとすれば、三世の諸佛やあらゆる聖賢は何故に發心修行し、修養努カせられしや』と疑ふたのである。於此か禪師はこれを當時の代表的學匠であつた三井寺の公胤僧正に質したが『此義輙く答ふることは出來ない。建仁寺の榮西禪師に問ふがよからう』とあつて解決を與へられなかつた。榮西は入唐の新歸朝者であり教界の新人として聞え高き人であつたから、直ちに往て榮西に學んだのであつたが、榮西は翌年七月示寂せられま


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したので、其弟子明全和尚に從つて禪學の論理的研究と實踐的修行とに精進せられ、當時一切藏經を二度迄も通覧したと傳へらるゝから、如何に熱心なるかゞ察せらるゝ。天才的大思想家たるに加へて一大努力家たる道元禪師には、最早や日本に師事すべき人物を見出し得ざる所より、禪師は當時代の世界的文明國たる宋に渡りて正法の第一人者を求めんとして、後堀河天皇の貞應二年二月廿日、明全と共に京都を發し、三月下浣に筑前博多の津より出帆し、前左衛門督入道道正、加藤四郎左衛門景正等を伴ひ、大宋の寗宗皇帝嘉定十六年四月初浣に明州の港に着し、當時支那の代表的名刹である天童山、育王山、徑山等を歷訪したが、好個の正師あるなく、乃至支那四百餘州廣しと雖も學ぶべき一人の禪師なきを慨き手を空うして歸朝せんとするや、この時天童山に勅命を奉じて住持せる長翁如淨禪師あつて、智德一世を壓すと聞き、直ちに往て見ゆると、心々忽ち冥合し、これより如淨に隨侍して日夜を分たず修行せられた結果、終に身心脱落(煩惱迷惑の解脱)し大悟徹底遊ばされ、こゝに如淨禪師の大法を嗣續して、釋迦牟尼如來より五十一代の祖師とならせられ、其相傳の信として、芙蓉道楷禪師より傳承せる袈裟並に歷代祖師が相續せる系圖の記錄たる嗣書と、洞山禪師の著述たる『寶鏡三昧』『五位顯訣』及び如淨禪師自賛の肖像を授かり、尚ほ將來日本に於ける傳道上の根本方針の教示を賜はつて、多年の宿望を遂げ結ふた禪師は、在宋前後五年、安貞元年に歸朝せられたのである。御年正に廿八歲。

歸朝せらるゝや直ちに京都の建仁寺に寓居せられて『普勸坐禪儀』一篇を撰述せられた。これ實に日本曹洞宗の立教開宗第一聲と見るべきであつて、而も從來の禪門に未だ甞て見ることを得ざる完備せる坐禪儀であり、更に文學的に見るも空前にして絶後の大著述としての内容を有するものである。建仁寺にあること凡そ四年、寛元年間深草の安


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養院に住し、次で其地の奮跡たる極樂寺を興し、天福元年に興聖寺を建立し給ひて禪院と為し、其夏禪門の古規に則りて結制安居(修行法會の名稱)せられたるは、本邦に禪院あるの嚆矢であり、禪的修行法の行はれた權輿である。當時四條帝より『興聖寶林禪寺』の勅額を賜はりしは、日本に於ける禪院公許の起源である。越て嘉禎二年開堂の式を行はせられ、禪の極地が一經一論に拘束せらるゝことなく、廣く天地に徧滿する旨の説法ありしは此時であつて、これまた禪師が根本立脚地を示すものである。彼の天台宗の學匠たりし孤雲懷弉(曹洞宗の第二祖)の如き、淨土宗の良忠の如き、臨濟宗の法燈國師の如き、其他來つて道を問ひ、弟子の禮を取りしは當時のことである。興聖寺の化道凡そ十年間、一宗の教綱全く成り、學道用心集、辨道話、典座教訓、衆寮清規、知事清規、及び正法眼藏の大半、幷に後に編纂された永平廣錄中の垂訓は、殆んどこの間に提撕された者である。然るに波多野出雲安藤原の義重は(大織冠鎌足公の遠孫田原藤太秀鄉十九代の孫)道元禪師の學德に歸依すること厚く、為めに越前吉田郡の知行所内にある一古寺を再興して寄附し奉らんとの申出により、其地閑靜にして而も如淨禪師が越に生れたる同名の懷しさとによつて、寛元元年七月に深草を出立せられて越前の松岡の溪の奧なる吉峰に着せられ、それより禪師峯に移り、更に義重が傘松の邊に伽藍を創立し、落成をまちてこれに移り、寛元二年七月開堂の法式を行ひ傘松蜂大佛寺と名けられ、同四年六月に永平寺と改稱し、寶治二年に吉祥山と更め以て今日に至つたのである。

禪師の道聲は四方に宣傳せられて、終に關東の鎌倉に達し、鎌倉の執權最明寺時賴入道の請に應じ幕府に説法教化すること八ケ月、時賴が寺を建て(後に建長寺と名く)て留むるも固辭して寶治二年三月永平寺に歸り、後ち時賴が寺領二千石の寄進をも謝絶し、建長元年後嵯峨院は勅使を以て紫衣を賜るやこれ又拝辭せしも許し給はぬ所から、禪師


頁一五
は『永平雖谷淺。勅命重重重。却被猿鶴笑。紫衣一老翁』なる一偈を賦して勅答し奉り、生涯その紫衣を召させなんだと云ふことである。

然るに建長四年の夏頃より微疾を感ぜさせ給ふにより、釋尊が入槃(臨終)に垂んとする最後の教誨たる遺教經に基きて八大人覺(僧俗の修業標準八ケ條)を述べさせられ、翌五年七月永平寺を二祖の孤雲懷弉に讓り、八月五日に京都高辻西洞院の俗弟子なる覺念の家に入らせらるゝや、このこと早くも天聽に達し、太上天皇は侍醫を以て禪師を見舞はしめたと傳へられて居る。或日禪師は死期の迫り來るを感知し、室内を經行しつゝ、法華經の文なる『若於園中。若於樹下。若於僧房。若於白衣舎。乃至。當知是處卽是道場。乃至。諸佛於此轉於法輪。諸佛於此而般槃云々』の句を口吟し且つこれを柱に書き給ふて、この白衣舎に槃(逝去)せんとの意を表示せられたのである。されば同年八月廿八日夜半に一偈を書し『五十四年。照第一天。打箇跳。觸破大千。咦。渾身無着處。活陷黄泉』と宣ふて掩然として示寂せられたのである。御年正に五十四歲。嘉永五年には孝明天皇より、佛性傳東國師の諡號を賜はり、明治十二年には明治大帝より、承陽大師の諡號及び勅額を賜はるに至りしは、實に禪師の偉大さを察知すべきである。御遺著には『普勸坐禪儀一巻』『正法眼藏九十五巻』『永平大清規二巻』『永平廣錄十卷』『正法眼藏隨聞記六巻』『學道用心集一巻』ありて、日本曹洞禪教理の中心を為して居る。殊に正法眼藏の如きは世界的の大著で、從つて其内容に至りては哲學、宗教、倫理、文學、藝術其他種々なる問題が教へられ、而も其文體に至つては一種獨特のものであるから、極て難解の點多く、猶ほ其表現せらるゝものは悉く禪師の體驗より流露せるものであるから、眞實に正法眼藏の堂奧に徹するには、矢張り禪的修養によつて實践的に參究せねば不可能である。正法眼藏が禪學專攻學者


頁一六
にすら齒のたゝぬ難物とせらるゝは此が為であらうと思はれる。其他の遺書として『傘松道詠集一卷』『寶慶記一巻』がある。一般には眞疑相半ばするものと云はれて居るが、この兩書は大部分信じてよいと思ふ。更に『假名法語一巻』『法華假字鈔一巻』『五位鈔一卷』『拈評三百則一巻』等ありと云ほるゝが、眞偽果して如何なるものにや。禪師の法を嗣ぎし者に懷弉禪師を始として、詮慧、法明、僧海、寂光等がある。懷弉は上述の如く日本曹洞宗の第二祖として道元禪師の後を承けて永平寺に住持せし人、詮慧は道元禪師の語錄や眼藏の編輯に努力せしのみか、眼藏研究家の絶好資料たる『正法眼藏御聽書十卷』を筆述した人で、其門人に知名な經豪が出で『正法眼藏抄三十巻』を著はして居る。後代これを「御抄』と稱し、眼藏註釋の魁と見られ、この抄は懷弉禪師編纂の正法眼藏七十五帖の註釋であるが、主として其師詮慧の御聽書に基けるものであるから、眼藏研究上第一の資料である。

孤雲懷弉禪師の法嗣に徹通義介、寂圓、義演、義準等が出て居るが、徹通禪師は日本曹洞宗の第三祖と呼ばれ、其法子に瑩山紹瑾禪師と、寒巖義尹、及び宗圓、懷暉の四人がある。寒巖禪師は後鳥羽帝の皇子とか、順德帝の皇子とも云はるゝ人で、其嗣法に就ても或者は孤雲懷弉に嗣ぐと云ひ、或者は徹通義介に嗣ぐと云ふやうに異論があるが、其は兎も角として、茲に注意すべきは瑩山禪師である。

瑩山紹瑾禪師は、道元禪師を日本曹洞宗の高祖と仰ぐに相對して、太祖と仰ぎ奉る方で、卽ち現在の曹洞宗に於ける兩大本山の一たる總持寺の開祖である所から、この兩禪師を幷べ稱する時には常に兩祖と呼んで居るほど日本曹洞宗の重大位地を占むるものである。

瑩山禪師の俗姓は藤原氏で、越前國多彌の鄕に文永五年十月八日を以て生れ、其母君、子なきを歎き給ふ餘り多彌


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の觀世音に祈り、毎日觀世音を禮拝すること三百三十三度、普門品を誦すること三十三遍、其功德虛しからずして一子を得たとあるから、禪師三歲の頃より常に南無々々と唱ひつゝ佛を禮拝せられ、五歲にして母君と共に普門品を誦んじ、六歲の時、觀音の尊像を仰視せられて、『此菩薩は如何なる功德あつて人々の恭敬を受け給ふや』『此菩薩も人にてありしか』と云ふ疑惑を起し、此時よりして出家求道の念を萌し給ふと傳へられて居る。されば建治元年御年八歲の春父母に請ふて永平寺に登り、三祖徹通義介和尚に投じて弟子となり、前後十年の間其教養を受け、弘安八年御年十八歲の時、徹通和尚の許を辭して廣く天下に學ばんと欲し、當時大宋よりの新歸朝者として聞え高き寂圓和尚を越前大野の寶慶寺に叩き、次で京都に慧曉に見え、更に叡山に天台の學を修め、翌年七月叡山を下りて紀州由良の法燈國師に參ずる等、遍く諸方の善智識を尋ねて、遂に正應元年永平寺に歸り、翌年加賀の大乘に於て法華經を讀ませ給ふに、父母所生眼、悉見三千界の文字を見るに及んで大に省悟せられしも、尚ほ進んで一切藏經を讀破せられ、永仁二年徹通和尚が大乘寺の上堂に平常心是道なる語を耳にせらるゝや、茲に從來の精神内容が層一層基礎を強固にすることが出來て愈々一大安心立命の境域に達したのである。時正に二十有八歲。於此か和尚の室に入りて道元禪師より三代相傳し來れる袈裟を授かり、日本曹洞宗の第四祖とならせ給ふたのである。其翌年阿波の海部の郡司某は其地に城滿寺を創建して禪師を請するにより、彼地に赴き、前後四年教化大に揚り、正安元年大乘寺に歸らせられ、兩三年間徹通和尚を補佐しつゝ、和尚に代りて説法提唱怠り給ふことなく、其大著である『傳光錄二卷』の如きは當時であると傳へらるゝ。傳光錄は通計五十三節に分れ、世尊より孤雲懷弉禪師に至る正法相傳の狀態を叙述せるものであるから、各祖師の略傳、性格、師弟の關係を知るに便なるは云ふ迄もなく、正法相傳の光景が提唱せられて居るから、


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其間に教理の大要も知られ、此に對して禪師の批判が與へられてあるから、禪師の教風も自ら其間は横り居ることが窺はれる。乾元元年禪師御年三十五歲の時大乘寺の後を繼ぎ此より凡そ八年の間に成れるものが『坐禪用心記一巻』『三根坐禪説一篇』『信心銘拈提一巻』であると云はれて居る。而して明峯素哲や、峨山韶磧や、無涯智洪等の龍象が宗旨を改めて入門せしも亦當時であつた。大乘寺に住すること凡そ十年慶長元年に席を上足である明峯に讓りて同國淨住寺の請に赴き、明る正和元年、能登の大名に滋野信直あり、豫て禪師の德風に歸依せられしより、能登國酒井の山紫水明の地を禪師に寄附せられた。禪師は風塵到らずして修道の適地なるより甚く喜ばせられ、直に庵を結びて其處に住ませ給ふことゝなつた。然るに翌年、大乘寺の開基富樫左衛門尉藤原家尚の嫡男藤原家方は、酒井の庵を改めて伽藍を建立したれば、更に其翌年に開堂演法せられて洞谷山永光寺と名けられ、群り來る求法者中、壺菴至簡、珍山源照など宗を改め投ずる者も尠くはなかつた。酒井に在ること前後三年、正和三年には能登國羽喰の郡司得田某なる者、光孝寺を建てゝ禪師を請せしかば、此より禪師は淨住寺、永光寺、光孝幸の三刹に兼住し、更に大乘寺にも教風を張ると云ふ献身的教化に努カせられたのである。この間凡そ七八年。

當時能登國鳳至郡櫛比庄に諸嶽寺と云ふ行基菩薩開基の律院があつた。其住持定賢律師は禪師の道譽に感ずるの餘り、元享元年四月、觀世音菩薩の御告なりと稱して、遂に其寺を禪師に讓り、是年六日八日に眞言律院を改めて曹洞修禪の道場となし、開堂して諸嶽山總持寺と名け、大に禪風な舉揚したれば、この事忽ち天聽に達し、後醍醐天皇より教理に關して十ケ條の勅問が下された、これを十種勅問と呼んで居る。禪師は直ちに明快なる御奏對書を奉るや、天皇の叡慮斜ならず、再び勅使を遣はして紫衣と勅額を賜はり官寺に列せられ、翌年綸旨を賜ふて總持寺を日本曹洞


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出世の道場とせられたのである。この御綸旨は色々な意味に於て、曹洞宗史上留意すべきものであるから、特に全文を掲げることにする。

能州諸嶽山總持寺者。直續曹溪之正脉。專振洞上之玄風。特依為日域無雙之禪苑。補任曹洞出世之道場。宜相幷南禪第一之上剎。着紫衣法服。奉祈寶祚延長者。天氣如此。仍執達如件。

斯くて總持寺は日域無雙の禪苑として、日本曹洞禪の根本道場とも云ふべき永平寺と共に本山たるの資格を有することゝなり、禪師の教化も益々盛んになり行くことゝなつたのであるが、翌年(元享三年)二月淨住寺を無涯智洪に讓り、光孝寺を壺菴至簡に授け、其翌年(正中元年)八月總持寺を峨山紹磧に繼がしめて永光寺へ退かせ給ひしは、禪師の健康によるものと拝察せらるゝ。果せる哉正中二年の春頃より病の兆あるにより、其年七月俄かに諸方に散在せる弟子等を集め、永光寺をも明峯素哲に與へて、同八月十四日道元禪師の如く八大人覺を講説せられ、十五日の夜半大衆を方丈に集め暫時御説法の後、『自耕自種閑田地。幾度賣來買去新。無限靈苗繁茂處。法堂上見揷鍬人。』との一偈を書き終り恬然として入寂せられ給ふたのである。時正に五十有八歲。其後三十年を經て後村上天皇は禪師の風格を追崇遊ばされ、正平九年に佛慈禪師と諡號し、四百餘年の後、安永元年には、後桃園天皇より弘德圓明國師の追諡あり、明治四十二年には、明治大帝より常濟大師の御諡號が下されてあるに見るも、如何に其偉大なる人師であつたかと云ふことが知られる。禪師の門下に上述の如く、明峯、峨山、無涯、壺庵を始めとして孤峯覺明あり、珍山源照等ある中に於て、明峯も亦一代の宗師で門下三十六人を出し、明峯派なる一系統を為すことゝなり、峨山も亦明峯に劣らざる人で二十八人の門弟を領じ、後代に峨山派を為す因を開き、壺庵も亦多くの弟子を養ふて一世の師表たる人、


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兎も角も此等の人々より日本曹洞の禪風は汪洋として天下に漲るに至つた關係上、道元禪師を高祖と仰ぎ奉るに對して、瑩山禪師を太祖と崇め奉り、釋迦牟尼佛を中心として一佛兩祖が日常禮拝の對象となつて居るが故に、日本曹洞禪の開立を叙する場合は、この兩祖を一車兩綸の如く見なくてはならぬ。然し嚴密に考ふる時は、高祖大師道元禪師は日本曹洞禪傳來の元祖であるから、曹洞宗と云ふ成立宗派の上から宗祖と云ふ意味で『高祖』と呼び奉り、太祖大師瑩山禪師は、後代の曹洞宗と云ふ一教團を大成せしめたる祖師なるが故に『太祖』と呼び奉ることゝ信ずるものである。

曹洞宗教理概論(第一回)正誤表
頁數 行數 何字目 誤 正
三 一四 一一 而 面
四 五 八 晢 哲
六 八 四八 會 念
六 一五 一四 究 極
九 一〇 二二 語 伍



眞宗
第二回
龍谷大學教授
梅原眞隆


頁七
第二講 所依經典

淨土教はその源流の時代から淨土の三部經すなはち無量壽經(大經)、觀無量壽經(觀經)、阿彌陀經(小經)を所依の經典として奉持してきた、淨土眞宗はそれをそのまゝ傳統してゐる、けれども、三部經のうち大經を中心となすことはその特徵として注意すべき點である。善導によつて啓かれた純正淨土教の系統に屬する流派はすべて觀經を中心としてゐることに比べて異彩を放つところである。

親鸞は教卷のはじめに「大無量壽經、眞實の教、淨土眞宗」と標示し、その大經については次の如くのべてゐる。それ眞實の教を顯はさばすなはち大無量壽經これなり。この經の大意は、彌陀誓を超發してひろく法藏を開きて凡小をあはれんで選んで功德の寶を施すことをいたす、釋迦世に出興して道教を光闡して群萠をすくひ惠むに眞實の利を以てせんとおぼしてなり、こゝをもて如來の本願を説くを經の宗致とす、すなはち佛の名號をもて經の體とするなり。

大經の宗要は本願であり、大經の體質は名號であるといふのが、この大經觀の要點である。いふこゝろは本願の名號、卽ち南無阿彌陀佛こそ地上において宗教的眞實の全現せる唯一の聖化である、大經はこの宗教的眞實を詮表するがゆゑに眞實の教であるといふのである。ところが大經の文面をしらべてみると稱名念佛によつて救はれるといふことが鮮明には窺ふことは容易でない、深くこれを洞觀されたのは淨土教家の觀察であつた、とりわけてそれを顯露にせられたのは善導である。凡そ、惡逆の凡夫が命終のときにのぞんで十聲の稱名をなしたことによつて救はれるとい


頁八
ふ觀經の下々品の説相は、念佛往生の著しいものである。ところが、この念佛に強い救ひの力の存するは何故であらうか、臨終といふ緊張しきつた凡夫の心理に支へられてゐる所為であるともかんがへられるが、善導はさらに進んで本願に誓約された念佛であるからといふことに氣づいたのである、卽ち本願の乃至十念は十聲の稱名念佛であることを觀てとられたのである、そとで稱名は本願に順ずるから往生の正定業となることを宣明した法然は、これをうけて本願は稱名を往生の因法として選擇したものであることを論成した、親鸞は善導と法然の觀察をうけて更らにこれを擴充したのであつた、卽ち、念佛は本願のうへに誓はれた行法であり、如來に選擇せられた生因であるといふことを更らに擴充して、大經全體の本質であると論證せられたのである。

更らにこれを事緣によつて證明すれば一層あざやかに認められるかとおもふ、親鸞は法然の殊遇をうけて、その撰述を見寫し、眞影を圖畫するの恩許を蒙つた、これは誰も知る如く傳法相承の型式である、而して、その眞影の銘文として法然のしるされたのは「南無阿彌陀佛、往生之業念佛為本」といふ選擇集の標示である名號の教法と善導の往生禮讃にある本願の鑽仰とである、卽ち「若我成佛、十方衆生、稱我名號、下至十聲、若不生者、不取正覺、彼佛今現、在成佛、當知本誓、重願不虛、衆生稱念、必得往生」といふ文である、この文は前半は彌陀の本願であり、後半は釋迦の説法である、これは本願とその成就文の上で彌陀と釋迦との二尊の一致するところは名號であることを示されたものであるが、親鸞はこれを大經全體のうへにおいて彌陀と釋迦との二尊が一致して開顯せる眞實の法たるを示されたのである、上に引抄した親鸞の大經觀の大意釋がそれである。

これを要するに、大經の本質は宗教的眞實の最高究竟の法、すなはち名號であることを示されたので、これは觀經


頁九
によつて機緣のひらけた淨土教の源流を大經にもとめられたのであつて、これまでの觀經中心の見方と敢て背反するものではないのである。

かくのごとく大經を眞實教と選定するとき、これまでの淨土教家が正依として尊重してきた觀經をいかに取扱ふのであるか。親鸞の觀經觀の精要を示すものは顯彰隱密といふ新しい釋例である。化身土巻にいはく

釋家(善導)の意に依つて、無量壽佛觀經を按ずれば、顯彰隱密の義あり。顯といふはすなはち定散諸善を顯はし三輩三心をひらく、しかるに二善三福は報土の眞因にあらず、諸機の三心は自利各別にして利他の一心にあらず、如來異の方便、忻慕淨土の善根なり、これ此經の意なり、卽ちこれ顯の義なり。彰といふは如來の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す、達多闍世の惡逆によつて釋迦微笑の素懷を彰す、韋提別選の正意によつて、彌陀大悲の本願を開闡す、これすなはち此經の隱彰の義なり(中略)大經觀經、顯の義によれば異なり、彰の義によれば一なり。

この顯彰隱密の釋義は詮ずるところ隱顯の兩面觀に歸する。顯とは顯露に定散の諸行をとけることを指摘し、その定散の諸行をとける文がそのまゝ幽微に本願の名號をあらはすことを隱彰とのべたもの、而して密とは密意の義で、上の引抄文にはその釋明はないけれども、一文に隱顯の兩義を開説せる佛意は、われを調誘して攝化したまふ善巧の説意のふかきことをのべられたのである、つまり、觀經には兩面があるとみて、定散の諸行を顯説せらるゝ當面に卽して、全體に本願の名號を見出されたのである。從つて隱彰の面からすれば觀經の全體が悉く本願の名號卽ち眞實の法をとくもので大經と一致し、顯説の方面からすれば觀經の全體が定散の諸行卽ち權假の法門を説くものであつて、大經と差別さるべきであるといふのである。


頁一〇
凡そ觀經は大經の如く純一ではない、複雜である、故にその本質を見究めるにはすぐれた批判を要する。卽ち、觀經の説相をみると思慮凝心の定善と廢惡修善の散善とを分別してある、しかし之れだけでなくて終の下三品には念佛をといてある、そこで一經の主質は定散の諸行か本願の念佛かといふことが問題となる、表面からみれば觀佛の規範をしめし諸行の往生をといたことが主要のやうにもある、しかし善導は大經の本願からかへりて、「定散兩門の益をとくといへども、佛の本願に望むれば、意、衆生をして一向に專ら彌陀佛名を稱せしむるにあり」と道破し、本質は定散の説法に存せずして本願の念佛に歸するとのべられた。法然はこれをうけて、二者を並べ説く所以をかんがへて廢立のためであるとしたのである、「本願念佛の行は双巻經中委しくすでに之を説くが故に重ねて説かざるのみ、又定散を説いて、念佛の餘善に超過することをあらはさんがためなり、若し定散なければ何ぞ念佛の特秀を顯はさんや(中略)今、定散は廢のためにしてとき、念佛は立のためにとく」とのべられた、觀經の本質は念佛に存するとせば、定散をとける所以を考へなくてはならぬ、これ念佛の價値を示さんためである、故に定散は廢するためにといたのである、定散を廢することによつて念佛の特秀を立せんためであるといふのである、この釋は定散の法行のために念佛の地位を危ふすることなく、却つてそれと比較せしめて念佛の價値をたかめるものも觀察されたのである。さて、親鸞の隱顯釋は法然の廢立釋と共に善導の見方をあざやかにしたものであるが、しかし自ら左右がある、經末に据して談せるは廢立釋であつて、之れを全巻に擴充したのが隱顯釋である、また、廢立釋は定散の諸行を廢することによつて本釋の名號を獨立せしめたけれども、隱顯釋は定散の諸行をそのまゝに介在しつゝ本願の名號を鑽仰したのである。かくて親鸞は、名號を諸行と對立せしめてその特秀を示すよりも、名號は諸行を超えて之れを統括することを示され


頁一一
た、そこで權假卽ち諸行より眞實卽ち名號に歸する異の方便として新らしい意味をあらはしてきた、觀經に定散あるも、それは念佛の地位を危ふするものでなく、却つて、その名號の優越性と究竟態とを示す趣ふかい善巧の妙手腕として意味つけられたのである。但、その眞意にふれず、定散は名號への權假の方便なることを知らないものは經をあやまるものであるから、その顯説にとゞまるかぎり眞實でない趣を示し、大經も分裂するかぎりにおいて觀經を方便經となされたのである、これ觀經の價値を眨したのでなくて、寧ろ觀經の眞實性を開闡する批判であつた。

更らに小經はいかに觀察すべきか、親鸞は化身土巻に「觀經に准知するに、此經も亦顯彰隱密の義あるべし」とのべられた、觀經と同格に取扱はれたのである。小經の終因段には少善根福德の因緣では往生はできない、一心不亂に名號を執持するものが往生するとのべてある、善導も法然も、觀經と等しく劣れる雜善を廢して勝れた念佛をとくものとせられた。すゝんで親鸞はこゝにも隱顯釋を示されたのである。

顯といふは經家は一切諸行の少善を嫌貶して善本德本の眞門を開示し、自利の一心を勵まして難思の往生をすゝむ(中略)これはこれ此經の顯の義を示すなり、これ乃ち眞門中の方便なり(中略)彰といふは眞實難信の法を彰す、これ乃ち不可思議の願海を光闡して無碍の大信心海に歸せしめんと欲す、良に勸すでに恒沙の勸なれば信また恒沙の信なり(中略)これはこれ隱彰の義をひらくなり。

これによると、小經は諸行を貶斥して念佛をといてある、しかも、その念佛の説き方は自力の抹執を帶びてある、これが顯説の相であるが、しかしその顯説の自力念佛はそのまゝ他力念佛を隱彰してゐる、かくて名號の相對的勝易から絶對的卓越に歸するのである。念佛に自力と他力とを分判されたのは鮮明である。そこで顯説では大經と差別さ


頁一二
れるが、隱彰では大經と一致して等しく名號をその本質となすのである。

これを要するに、名號は大經の主質であるだけでなくて、觀經小經の隱彰として内在せる主質であるといふことになる、、本願に誓約された念佛は大經に擴充され、三經に擴充された、この三經觀は更らにすゝんで、名號は一切の法と一切の佛とに普遍する宗教的眞實として擴充するのである、何となれば觀經の定散は一代の教法を結晶せるもので、それが念佛へ通ずべき權假の門となつてゐるのであるから、觀經は一切の法を名號に從屬せしむるものである、また小經には恒沙の諸佛が念佛ど護念證誠することを示されてあるから、小經は一切の佛を名號に歸結せしむるものである。かくて名號は絶對不二の眞實として遍在することが宣示せられるわけである。

然り而して、三經は大經を中心として統綜せらるゝかぎり、名號を主質とする眞實の教であるが、しかも、一面には大經と差別せらるべき顯説を有してゐる、この顯説について親鸞は三經を眞假に分別し、大經・觀經・小經を序次のごとく第十八願・第十九願・第二十願に配分せられた、これ隱顯を見わけられた卓見によるものである、かゝる眞假の觀察は一面において眞實と方便との分判をなして、いよいよ眞實を光闡するだけでなく、他面においては方便より眞實へ轉入せしむる善巧の妙趣を窺ふものである。若し前者ともつて眞實の靜的觀察とすれば、後者は眞實の動的觀察と稱すべきである。

總じて三經に依り、別して大經に依るは畢竟ずるに、南無阿彌陀佛の名號を全一の宗教的眞實となすものである。



眞宗大谷派
第二回
大谷大學教授
橋川正


頁一三
第三章 創業から守成

本願寺が分立したについて、差し當つての問題は御眞影卽ち宗祖親鸞の影像をどうするかといふことであつた。教如(光壽)が所謂堀河の裏の御所に居た頃には、宗祖の畫像が安置してあつたが、愈々烏丸に移るに及んで、教如は德川家康に請うて上野國厩橋妙安寺の宗祖の木像を迎へることにした。この像は宗祖晩年の自作といはれるもので、下總國猿島の成然に付與されたのである。妙安寺は成然の舊蹟地であるから、開基以來奉仕して當時に至つたのである。厩橋とは今の前橋市で、同市の立川町に妙安寺が現存する。慶長七年三月九日、本多正信から妙安寺へ宛てゝ左の如き書狀が届いた。

本願寺御取立ニ付、貴寺安置有之候親鸞聖人自作御影、門跡御所望之處、可被差進由、内府殿御喜悅被思召候彌ゝ早速可被進之旨、今度以御使被仰遣候、依之御紋幕被遣、自今御紋被下之候、勝手可被相用候、仍執達如件 本多佐渡守正信(在判)
慶長七年三月九日
(表書)上野國厩橋妙安寺御坊

卽ち木像を家康に上り、家康から改めて本願寺に寄附する形式を執つたが、八月十三日附で厩橋城主酒井河内守重忠に宛てた教如の書狀にも、「妙安寺安置之開山木像、我等所望ニ付、貴下ニ茂御取持給意存候」とあつて、その運動の痕を窺ふことが出來るが、この書狀は恐らく慶長六年のものであらう。重忠は妙安寺に「今度自内府樣木像之御


頁一四
影樣御所樣え可被差上之旨、貴寺へ御使者被下、御紋付之御幕幷大判金被致頂戴、其上貴寺へ御紋御免之由、具被申上候通及言上候處、御所樣一段御滿悦之御事二候」(五月二十七日附書狀)と告げ、その破格の待遇たることを通達した。この木像移座の裏面にも種々の經緯が伏在してゐるやうで、准如(光昭)の暗中飛躍も行はれたと思はれる。本願寺の坊官下官按察使賴龍の書狀(八月三日附)によると、江戸の善福寺を使者として去比准如所望の意を通じたが、承引あるまじき旨の返答であつたと聞いて安心したとあるのがその證據である。兎に角相當の迂餘曲折を經て、慶長八年正月三日に像は入洛し、これを堀河の北舎に迎へることが出來た。よつて二月二十四日に供養會を行ひ、六月八日にいよいよ烏丸に遷座することになり、下間賴龍、同賴良、粟津村昌等の坊官をはじめ、多數の家臣はこれに從つて來た。

教如は妙安寺に對して忠節を抽んづること淺からず、偏へに興隆の至りとて、緋金八藤紋五條袈裟と精好の素絹を下附した。この五條袈裟は今もなほ緋の色鮮かに妙安寺に傳へられてゐる、のみならず教如は左の如き書狀を送つた。

祖師聖人、其寺開基え為形見授與之木像御影、今度我等依望、被抽懇志守申令上洛條、神妙之至、偏興隆佛法難有候、因於其寺義、永不可有踈略者也
慶長八年三月七日 本願寺釋教如(花押)
上州群馬郡厩橋妙安寺釋成空大僧都

この書狀は行書の大文字で書かれ、いかめしい形式を具へてゐるが、それだけ重大な意味を有することがわかる。然し創業の一段落はこれで終り、烏丸の本願寺にも魂が出來た。


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因みに家康はこの眞影木像に采田を寄せ、永く寺領とせしめようとしたが、教如はこれを固辭して受けなかつた。蓋し教如の意は、旣に敷地の寄附に預り、眞影を賜はつたことだけでも、その好意感謝するに餘りあるから、更にその上に寺領を受けることは辭退すべきであるといふのである。且つ後世の子孫が寺領によつて生活の保證を得、教導の本分を忘れることを恐れたのであつて、本寺の維持經營は偏へに門末の懇志に待たむとしたのである。將來の發展はついて憂ふる所はあつたに違ひないが、内心深く期する強い信力のしからしめる所といはねばならぬ。

なほ教如が眞影の模作を一躯造つたことをいひ添へでおきたい。繪像木像由緒(眞宗全書所收、伏見西方寺空惠の著なるべし)によると、眞影入洛の當時、「此靈像ヤケ給ヘカシ、ホロビ給ヘカシ」などゝのゝしる者があつた。卽ち教如の反對黨、いはゞ非烏丸派の聲が可なり盛んであつたので、萬一のことを思ふて模作を作り、開眼供養して寶藏安置した。瞻仰の御影と呼ぶのがこれである。

京都に於ける本願寺の分立が、全國に大きな渦巻をおこしたことはいふ迄もない。喧々囂々たる論駁は潮の如き勢ひで漲つたが、大體に於て京都以東の東海、東山、北陸の諸道の門末は概ね教如に屬し、就中美濃、尾張、三河、越前、加賀、越中、越後等が永く大谷派の優勢な地方となつた。地方の門末動搖について各地に傳説を留めてゐるが、史實としては如何なる程度まで認めるべきであるか明かでない。詳細は將來の研究に待たねばならぬ。

慶長八年八月には本願寺の本堂が成り、翌九年八月に教如は大僧正に任ぜられたといふ。かくて同十六年、宗祖の三百五十回忌法要を勤修し、教如は同十九年十月五日、五十七歲を以て波瀾多き一生を終つた。信淨院と號する。在住前後十六年、十三日七條河原で荼毘の式を行うた。教如には十三子あつたが、その中尊如、光祐の兩男は早世した


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ので、男子はたゞ第十二子の長丸(光從)のみである。これが卽ち後の宣如であるが、襲職までには多少の曲折がある。

教如は長丸を以て後繼者と定め、遷化に臨んでこれを家臣等に依囑したが、元來長丸の生母の身分が卑しいために教如の後室はこれを容易に許さず、その長女の花山院忠長(左近衛權少將、定煕の男、淨屋と號す)に嫁したものゝ男兒を迎へて、これを本寺の傳燈者たらしめようとし、家臣の七里、藤井、宇野等は皆これに賛同した。然るに下間粟津等は、教如の遺囑を守つて、長丸を立てようとしたから、こゝに兩者の對抗軋轢を生じた。そこで下間等は、事が大分面倒になつたから、諸國の院家、一家衆や京都の末寺を集めてこれを諮つたが、皆教如の意を體して、女系の外孫を迎へる非を主張した。けれどもそれでは後室の意志を曲げることになるから、むしろ幕府に具申してその指揮を待つに如かずといふことに決した。このことについて最も力を盡したのは京都の德正寺祐誓で、現に洛陽末寺の連署狀等が同寺(富小路通四條下る)に傳へられてゐる。幕府はもとより、長丸が後繼者たるべきことを指令したから長光が本願寺第十三世の傳燈を嗣ぐことになつた。これが光從(宣如)で、特に年十二歲であつた。下間等は專ら光從の擁護に力めたが、これに抗した宇野主水は終に自殺してしまつた。主水は宇野主水記卽ち貝塚留錫日記(史籍集覧所收)の筆者である。

宣如は慶長九年二月二十二日を以て生れ、愚溪と號した。關白九條兼孝の猶子となつて、十九年十月五日卽ち教如遷化の日に得度を受けたことになつてゐる。

元和二年九月十三日、直ちに法眼に叙し、大僧都に任ぜられた。同三年江戸に赴いたが、その歸途鎌倉に遊んで根


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本祖像の在ることを知り、その歸座の取計ひを將軍秀忠に請うた。この影像はもと大谷の本廟に安置されたものであるが、延慶年中に唯善が大谷押領の非望を企て、青蓮院に於て覺如と對決の結果、敗訴したので、鎌倉に沒落した。その際唯善は自棄的な行為をなし、祖像を奉じて大谷を去つたのである。その後還附するといふ風説があつたので、覺如は高田の專空等と共に尾張まで出迎のために下向しだが、經にそのことがなかつたので、空しく歸洛して、新たに一躯を作つて影堂に安置した。西本願寺に傳はる祖像が卽ちこれである。然るに宣如の時に至つて根本祖像の所在が判つたので、前記の如く秀忠に請うた。そこで秀忠は直ちに使を遣してこれを迎へ、三年四月本寺に寄附することになつた。もと鎌倉の常葉が谷にあつたから、これを常葉の御影と呼ぶが、現に本願寺所在の地を常葉町といふのもこの祖像に因んだ名である。この根本祖像は寶藏に安置して傳へられてゐる。

宣如は五年七月十一日法印に叙し、八月十七日に權僧正に進み、寛永四年八月十四日には僧正に轉じ、十二月十日遂に大僧正に任ぜられた。同十六年、將軍家光は上人の請に應じて、東洞院以東、六條七條間の地を加増して、寺域を擴張せしめることになつた。東西一百九十四間、南北二百九十七間である。この邊の土地は左大臣源融の河原院の遺蹟で當時は全く荒廢して田園となり、行客の往來も稀であつたから、所司代板倉重宗に請うて東洞院を車道となしこれを伏見に通ずることにした(竹田街道)。爾來交通も漸く頻繁となり、住宅を構へるものも出來たので、區劃を定め町制を布き、溝を穿つて便益を計つた。かくして寺内町の成立を見たが、現存する寺内五日講の消息は寛永十年仲秋廿一月に上人の出だす所であるから、寛永に入つてからほゞ形式の緒についてゐたことが察せられる。寺内町といふのは、本願寺を中心とする寺院都市で、山科の八町、大坂の六町(後には十町)を繼承するものである。然し戰國


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時代のそれと、元和偃武以後のそれとは社會の形勢が變り、都市の意義が變化してゐるから、もとより一概にこれを見ることは出來ぬが、山科、大坂等の寺内町の繼承たることに至つては關聯してゐる。而してその町人の中には山科大坂以來の子孫もあつたに違ひない。その面積は慶長附屬の古屋敷三十三町に、寛永附屬の新屋敷二十六町を加へて全體で五十九町となつた。これだけが本願寺の境内であつた譯であるが、頗る廣大なものであつたといはねばならぬ

その新屋敷の中で方百間の地を選び、秀吉の伏見城の遺構を移し、石川丈山をして林泉の風致を修せしめ、上人自ら隱退の處とした。これが涉成園卽ち枳殻邸である。俗に百間屋敷とも、東殿(東園)ともいふ。東殿とは本寺の東にあるからで、山科本願寺に於ける南殿と同じ性質を有する。

慶安二年三月、家光は近江國長濱の地を寄せて別院となさしめた。上人乃ちこれを大通寺と名づけ、三男從高(宣澄)をしてこゝに住せしめた。承應元年、影堂の改築を始めたが、規模甚だ宏壯であつて、將軍家綱は富士山の巨材若干を寄せてその工事を扶けた。工事は六月二十八日に起されて、明曆二年六月十三日に上棟の式を行ひ、萬治元年三月に落成した。工事に從ふこと前後七年である。舊堂宇は長濱の大通寺に移された、現に同別院の本堂がこれである。

これよりさき上人は、承應二年九月に職を法嗣光瑛(琢如)に讓り、涉成園に隱居して東泰院と號したが、萬治元年七月二十五日に入寂した。大男五女があつたが、長男の從晶は早世したので、二男の光瑛が法嗣に定まつたのである。教如によつて創められた東本願寺は、宣如に至つてその基礎を鞏固にした。宣如は守成の時代に最も適する性格の人であつた。德川氏に比べて見ても、教如は家康と同じ時代の人で何れも創業に當つたが、宣如は三代將軍家光と


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出世を同じくし、家光が德川幕府に於て占める位置を、宣如は東本願寺で占めたのである。創業と守成との間に優劣はない。いくら創業にその人を得ても守成の人が出なければ、折角の事業が龍頭蛇尾に終るか、乃至は水泡に歸してしまふ。この點から見て宣如は出るべき時に出て、その使命稟性を盡したといはねばならぬ。



阿含經
第二回
大谷大學教授
赤沼智善


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第三章 苦行



釋尊が成道前に、修せられた苦行に就いては、阿含尼柯耶に數種の記述がある。苦行の場所は、摩掲陀國優留毘羅村の森の中に、奇麗な川が流れて、美しい白沙の汀のある邊であることに諸傳一致してゐる。蓋しこの場所はさうした心地の好い場所であつた許りでなく、村が近くにあつて托鉢に便利な地點であつたからである。

經典の記す所に依れば、釋尊はいろいろの苦行をなされたことになつてゐるが、中尼柯耶三六マハーサツチヤカ經(一)ではそれを次のように分けて見てゐる。

第一は心を以て心を制し押へ附けることであつた。心の制御と曰つても、それは無理な身體の苦しみを忍ぶといふ種類のもので、曰はゞ、苦行全體を總括する意味のものであつた。齒を喰ひしばり、舌を上顎に押し附けて力むことであつた。

第二は無息の行で、口と鼻を塞いで出る息を止めることであつた。これが數段に分れて、段を上る毎に深刻さを加へて行く。内氣が出場を塞がれて、轟々と音を立てゝ耳を突く、鋭い劔の先きで額を突かれる感じがする。强靭な革紐の鞭で頭を鞭たれるような感じがする。鋭い屠牛用の刄で腹を裂かれるような思ひがする。身體中に燒くが如き炎熱が起る。

第三は斷食であつた。豆や碗豆の汁をホンの一口取る。又は一粒の米、一粒の隱元豆、一粒の胡麻で一日の身を支


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へる。血は枯け、肉は落ち、皮は皺み、丁度萎れた草、枯れた蔓のようになつた。肋骨は顯はれ、眼はくぼみ、毛根が腐つて、さわれば、ばらばらと落ちるようになつた。皆食物の足らない為めであつた。

中尼柯耶八五ボーデラーヂヤクマーラ經(二)も、これと同じい世尊の苦行を載せてゐる。更に中尼柯耶十二マハーシーハナダ經(三)に依れば、これ最上の苦行と、最上の難行と、最上の厭離と、最上の隱遁となし、最上の苦行には次の如き種々の苦行を舉げてゐる。

裸體であつた。世間の習慣しきたりを破つた。食後も手を洗はないで舐つて置いた。

托鉢の時、こちらへと曰はれ、待つて下さいと云はれた食物は受けなかつた。わざわざ自分へとめがけて持つて來られた食物は取らなかつた。自分のために作られた食物は受けなかつた。招待は受けない。鍋釜などから直接に食物はとらなかつた。閾居の内に立つてゐる人から食物は受けなかつた。棒や杵を隔てゝ食物は受けなかつた。二人が食してゐる時、その食物は受けなかつた。懷妊してゐる女、乳を呑ませてゐる女から食物は受けなかつた。男と遇うてゐる女から食物は受けなかつた、自分のために特に集められた食物は受けなかつた、犬がゐる家、蠅が群がつてゐる家から食物は受けなかつた。魚、肉、種々の酒は取らなかつた、たゞ一家へ行いて一口の食を得るに止めたゞ二家に行いて二口の食を得るに止め、乃至、たゞ七家に行いて七口の食を得るに止めた。たゞ一椀の食を乞ひ、或は二椀の食を乞ひ、乃至七椀の食を乞ふに止めた。一日に一食を取り二日に一食を取り、乃至七日に一食を取り、かくして半月づゝ、定まれる間隔を置いて食事する方法を取つた。

これは後に云ふが如く、實は異教者の苦行法の一種であるが、食事を得るに就いての嚴しい制限を主としたもので


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ある。後の部分は間隔的な斷食法である。經典はつゞいて云ふ。

鍋菜、穢稻、ニーグラの種子、獸の味のない茫皮の部分、ハタといふ水草、糠、おも湯、種油の糟、草、牛糞、木根果實、自然に落ちた果實をのみ食とし。

衣物は、大麻の荒布、大麻に交ぜ物をした荒布、屍より取つたエラカと云ふ草にて作つた衣物、糞掃衣、テイリータカ樹皮の衣、黑い羚羊の皮衣、黑い羚羊の足付きの儘の剝皮の衣、吉祥草の衣、樹皮の繊維で織つた衣、茫板の纎維で織つた衣、毛髪を織つた衣、獸尾の毛の衣、梟の羽の衣を用ひた。

又鬚や髪を拔く行をなし、座を斥けて常に立ち、常に蹲まり刺の床に臥し、板の上、大地の上に臥し、何時も同じい片側をつけて臥し、身に油を塗つて塵埃を浴び、いかなる座でも與へられたものを受け、牛糞牛尿灰泥を食べ、決して冷水を飲まず、日中三回水浴することをなした。

以上は所謂最上の苦行と呼ばれるものである。最上の難行とは、數年の塵垢が、剝げてばらばら落つる程に身體にたまつたのを取らうともせず、忍んでゐられたことである。

次の最上の嫌厭とは、あちらこちらを步くときに、正念に住して、水の一滴にも同情を持ち、水溜を踏んで、水中の小虫をも害ふことを恐れられたことである。

最上の隱遁と云ふは、森の中で住んでゐて、牛飼、羊飼、草刈、樵夫等の近づくことを恐れて、これらの人々の姿を見るときは、森から森へ、藪から藪へ、洞窟がら洞窟へ、山から山へと逃げて行き、牛飼が牛を小屋に殘して去つた後へ、瓶を持つて犢の糞尿を求めて歸り、冬の寒い時は木蔭さへ覆ふ所のない場所に、夏のい時は、苦しい森


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林に住し、「夏の日に燒かれ、冬の寒さに凍え、恐ろしい森に、衣なく火もなく」坐する生活をせられたことを云ふのである。

中尼柯耶十二マハーシーハナダ經の記載するところの釋尊の苦行は實に前にも云ふように當時の邪命外道 (Ājīvaka) の苦行であつて、邪命外道は、その徒が可成り多く釋尊との接觸に來たことから見ても(四)、相當有力な一派であり、釋尊當時の六師外道中、マツカリ・ゴーサーラ、プラーナ・カツサパ、パクダ・カツチヤーヤナの三人はみな是の邪命外道の系統に屬する舊派であつたであらうと曰はれる程であるから(五)、この邪命外道の苦行は廣く行はれ、又從つて一般人にも廣く知られて居つたものに相違ない。



それで、これらの苦行を字義通りに釋尊の行はれた苦行とすることの出來ないのは云ふ迄もないが、これらの苦行を纏めて見ると、

食物に關し、食物を受けるに就き、制限を置いてそれを得るに苦しむこと、惡食をなすこと、斷食をなすこと。
衣服に關し、勤めて疎末な、肌ざわりの惡いのを用ひること、裸體で居ること。
住居に關し、森林、洞窟、墓場等を簡び、又人間の社會を遠ざかつて、苦しむこと。
一般に身體に關し、呼吸を止めるとか、むづかしい姿勢をとるとか、身體を傷つけて故意に痛苦を受けるとかすること。

に分類することが出來る。釋尊の苦行は普通勤苦六年と云はれて居るが、實際は滿六年の歲月を數へることは出來な


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い、もとより釋尊傳は今日到底正確なことが知らるゝ筈がなく、二十九歲出家、三十五歲成道が正しいとしても、それが二十九歲の何月の出家か、三十五歲の何月の成道かは到底知ることの出來るものでない。この月日に就いては到底知ることの出來るものでない。この月日に就いては印度の古傳がみな區々であつて、いづれを是としいづれを非とするといふことが出來ない性質のものであるから、月日を定めることが出來ないとすると、先づざつとこの出家と成道迄の間を六年として置かねばならぬが、この間には迦維羅城から王舎成迄の旅行があり、師匠への訪問があり、その師匠の下にての修行があるから、相當の月日を扣除しなければならない筈である。旅行の月日は僅かとしても、二人の師匠の許で、その師匠の教ゆるものを總て學び得て、且つそれを體得するといふ所迄來るには可成りの月日を要したと見ねばならぬ。それであるから普通に六年の苦行と傳へては居るけれども、實際はそれ程でなかつたのかも知れないのである。然しそれにしても、六年若しくは六年に近い歲月の間のことであるから、若しこの間を全部苦行の實行に費やされたとすると、いろいろな苦行を修められたと考へねばならぬ筈であり、上に舉ぐるような種類の苦行、卽ち邪命外道の方で行ふものも、耆那教の方で修めるものも、又その他、ほかの教派の傳へる苦行も行はれたものと見るべきであると思ふ。



一體この苦行 (Tapas) といふものはどういふものかと云ふに、字義はであつて、氣から物を生ずるといふ意味で、ものゝ生成するもとの力に名けたものであるが(六)、それが轉じて熱氣に依つて罪を燒き滅ぼす意味となり、宗教的行持となつたものである。さうしてこののような意味を持つた苦行 (Tapas) と、ものゝ生成する動因としての


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(Tapas) とが同視せられて、生物主としての神の行為とも解せられるとうになり(七)、漸次印度の宗教界に缺く可からざる主要なものとなつたのである。奧義書でも、カタ奧義書、ムンダカ奧義書、プラシユナ奧義書、シユベータシユヷタラ奧義書、マイトリ奧義書(八)など、みなこの苦行が神を見、神に接し、解脱を得る一つの行持であるとなすに至つたものである。釋尊の時代には分けて先きに云ふが如く、六師外道の内四外道はみな苦行主義であつたから、印度正統派でも、非正統派でも、只快樂主義の順世外道を除いては、みな苦行をその宗教の重要な要素としてゐたものであることが解る。釋尊がその解脱への道程に於て、可成り長い年月をこの苦行の實驗に費やされたのも又無理からぬことと曰はねばならぬ。

苦行が印度の宗教に於て、宗教的行持である原始的意味は、に依つて罪を燒き滅ぼすといふことであつたが、この考は罪を至極朴素的に物質のように見たからであることは申す迄もない。先きに引用した經典中の、日中三度水浴するといふことのもとの意味も、罪を同じく物質のように見て、水で洗ひ落すといふにあつたのである。然し印度でも釋尊の時代になると、大分發達變化してゐるから、苦行の意味も變化して餘程複雜になつて來てゐるのである。それはどんな具合になつたかと云ふと、

先づ第一には、肉と戰ふといふ意味を持つてゐる。肉と戰ふといふことは、後で云ふその思想的背景から見直すと字義通り肉卽ちこの身體といふことになるが、然しその内的の意味から云ふと、肉欲と戰ふといふ一面も必ず含まれてゐるのである。この意味に於ては、苦行はその形に於てゞはなく、その精神に於ては肯定されるものでなければならぬ。


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第二には耐え忍ぶ、卽ち忍辱の意味を持つてゐる。人が何をなしてもそれを耐える。この場合、精神的な讒謗非難に對する忍受も含まれてゐるが、身體に下る一切のしもとを忍ぶといふことを主として意味するのである。中尼柯耶十二マハーシーハナダ經(一〇)の「塚の間、屍や骨の上に野の宿を取ると牧養者の子供がやつて來て、唾や小便を引つかけ泥を投げつけ、耳の中に棒切れを押し込む。然もこれに對して少しも敵意を起さない」といふのがこれであり、又耆那の方で、「他人が身體に油を塗り、又は棒で打つても喜ばず怒らず」(一一)といふのがそれである。他人の侵害を耐え忍ぶことは確かに一つの苦行であることを失はない。

第三にはその苦行の背景として、憐愍の情から起る不害主義を有することである。先に引用した經典の記載の中でも、最上の嫌厭といふのがそれであつて、水の一滴にも同情を持ち、水溜を踏んで、水中の小虫をも害はないようにするといふのがそれである。今嫌厭と譯したのは jeguechi の譯であるが茲では只避けるといふ程の意味であらう。耆那教でも邪命外道でも、その哲學的背景はアニミステイツクであるから、凡てのものに靈魂あるものと考へ、その靈魂に對しての憐愍から不害主義を取り、冷水をさへ飲まないといふ行持をなすのである。この極端な不害主義は勢、非常な困難な苦行とならねばならぬ。

第四には以上一二三を實行するための意志の鍛練である。肉及び肉欲と戰ふためには非常な意志力を要する、他人の侵害を忍受し、且つ不害主義の實行をなすにも異常な意志を持たねばならぬことは云ふ迄もない、かうした意志の鍛練が、宗教的得達にとつて無くてならないものであることも亦云ふを要せないことである。意志の鍛練といふことは、心を完全に自分の支配下に置く、心を内外の誘惑に委せないといふ意味であるから、又「意志の降伏」と云うて


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もよろしいのである。意志の降伏はいかなる宗教に於ても、その得達の必須條件であるから、この苦行の妊んでゐる克己自制は見逃してはならない苦行の光明的一面である。第四に苦行は依然として、その原始的意味の罪の物質的見方を離れて居らない。耆那教に於ては業は罰であるが、古い業は苦行に依つて滅ぼし、新らしい業は作らないようにして涅槃に至ると考へられ、この苦行にて古い業卽ち罪を靈魂から分離するようにしたものである。

第五には、苦は樂の種子、樂は苦の種子と曰はれる通俗的な考へから、今苦しんで後に樂しむといふ功利的刺戟に依るものである。前に云つた中尼柯耶八五ボーデラーヂヤクマーラ經に、「王子よ、私も未だ正覺を得ず、菩薩であつた時に、樂みに依つて樂しみを得ることは出來ない。苦しみに依つて樂しみを得ねばならぬと考へた」といふのはこの意味である(一二)。

第六には苦行を修める思想的背景として、物心二元論を有するに至つたことである。この考に靈と肉とを別々に二元的に見るものであつて、我々が苦を持ち、現に苦を感ずるのはこの肉體があるからである。精神は純淨無垢なものであるが、これが肉體に圍繞せられ、包圍せられ、束縛されてゐるために、本性を晦まされ、自由を失ひ、苦しみとなるのである。丁度鳥が鳥籠に入れられて居るようなものである。鳥籠をたゝきこわして仕舞へば、鳥は自由になるのである。それであるから、肉體を苦しめ踏みにぢれば、それ丈け肉體の束縛は弱くなり、それ丈け精神は自由になるのである。(一三)この場合束縛といふは全然外的なものであつて、この束縛を脱する道は苦行より外にないのである。身體の痩せ衰へ、肉が落ち血が涸れ切れば、それ丈け束縛は弱まつたと見られるのである。(一四)

釋尊時代の印度の宗教の苦行には、以上の六種の意味がこもつてゐるのである。それでこの六種の意味を持つ複雜


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な苦行は、第一は唯物論的思想的背景を持ち、第二にその結果、苦行の完全な成果、卽ちその宗教の目的は現世に遂げられず、未來を期待しなければならぬものであることを知らねばならぬ。この未來生槃論のために、自殺に肯定せられることゝなるのである。現に耆那教の經典は、常に屢ゝこの自殺を勸めてゐるのである。(一五)



今我が釋尊は、阿羅々迦蘭、鬱陀迦羅摩子の禪定の教を體驗し終つて、旦もそれが槃でなく、槃の道でないとさとり、自らこの苦行につかれたのである。釋尊の修められた苦行の意義は何であつたであらうか。私はやはり前に述べた六種の意義を、總て好む苦行であつたとせねばならぬと思ふ。前にも云ふやうに苦行は當時の一般的宗教的行持であつたのであるし、今は師匠を求むることを止めて、自らこの苦行につかれることになつた釋尊の意底にくゞつて考へて見ると、釋尊には實踐實行、さうしてその體驗といふことが唯一の目標であつたに相違ないのである。六年の苦行といふことは、それがいかに眞劔であり、生命がけであつたかといふことを示してゐるのである。優留毘羅の林には旣に、憍陳如等の五人の苦行者がゐた。釋尊は彼等と共に、その苦行を初められたのである。その眞劔にして生命がけの意氣に初めから、五人の苦行者を心服せしめ、この人こそ槃に達する人だと畏敬せしめ、給侍せしむるに至つたのである。この五人の修道者が苦行者であつたことは明かであり、又正統派の教派のものでなく、禪定主義者でもなかつたことは云へるであらうが、然しその他の何の教派に屬したものかは知ることが出來ない。從つてこの方面からして、この六年間の苦行がいかなる種類のものであつたかは知ることが出來ないが、前にいふ理由に依りて、前所々の經典記載の種々の苦行であつたであらうと想像することは許されるであらうと思ふ。然し眞劍な血肉を涸ら


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した六年の歲月は無効に過ぎた。さとりの彼岸は猶遠い。五人の苦行者の心服と期待とが猶繼續してゐる内に、釋尊の心中に、この苦行の無効であることが知られて來たのである。釋尊のこの報ひられざる絶望の情は今茲に語るを要しない。忠實な、生に忠實な人は、如何なる犠牲を忍んでも、捨てざるを得ざるものは棄てゝ行く。釋尊は遂にこの勤苦六年の苦行の道を離れられたのである。

然し、苦行の無効とは、今迄やつて來た所の總てが何の役にも立たなかつたといふ意味であらうか。若し當時の苦行が上述の六つの意味を妊むとすれば、その苦行の無効と拋棄とは、その總ての意味の否定であらうか。恐らくさうではあるまいと私は信ずる。何事でも總て何等かの意味に於て、我々に役立つものである。印度の古譚にもあるように全く毒にならない藥もなければ、全く藥にならない毒もないものである。さうすると無効とされ、棄てられた苦行も、全然無効であり、全然拋棄されたのではなからう。或る限定された意味に於ての無効と拋棄であつたに違ひないのである。

先きに云ふように、苦行は肉との戰ひである。これを精神化すれば欲との戰ひである。苦行を功利的に修めるものはこの欲との戰ひを間歇的にして、「或る時期には美味な堅食軟食を取り、美味な飲み物を呑み、身體を太らせ肥やすのである、卽ち前に棄てたものを後で積んで、肥えたり痩せたりしてゐるのである(一六)」が、釋尊の場合に於ては欲との眞劔な戰ひと、さうしてその修練とを否定することは出來ない。又第二の意味の忍辱とその修練を否定することも出來ない。第三の苦行の背景としての憐愍慈愛の情とその培養を否定することも出來ない。それに克巳自制といふ意志の鍛練降伏をどうして否定することが出來よう。六年の苦行は確にかくして、釋尊に、偉大な寄與をなしたことは爭


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はれない事實であらう。然らば何を無効とし何を棄てられたのであらうか。それは第一には罪に對する物質的な見方である。第二には苦に依つて樂を買はうといふ間違つた功利的打算である。第三には物心二元論に立つて、肉體を牢獄と考へる唯物論的な思想である。第四には從つて苦行のその愚かな殘酷な形式である。釋尊はこの四つを無効として棄てられたのである。



釋尊は先きには、二人の師匠の教ゆる禪定の宗教を棄てられた。今は又六年の歲月を要した苦行の實修を棄てられた。次には釋尊はいかなる道をとらうとせられるのであらうか。前出の中尼柯耶三六經に於て、尼乾子の徒サツチヤカは、釋尊に云ふてゐる。「身體の修習をして、心の修習をしない者には、心は身體の支配下にあり、心の修習のみをして、身體の修習をしない者には、身體は心の支配下にあり、共に精神の錯亂を起す。世尊の弟子等は心の修習のみに專らであつて、身體の修習を忘れてゐるものではないか」と。釋尊のこの問難に對する答は、「無聞の凡夫に、樂受が生ずる場合、彼はその樂受を受けて、樂に戀着し、樂受が滅して苦受が起ると、それに依つて悲しみ歎き苦しみ惱み悶える。身體の不修習のために樂受を受けて心を囚えられ、心の不修習のために苦受を受けて、心を囚えられる」と云ふのである。禪定の宗教の誤謬は、その手段であるべきものを、目的とする所にあつた。苦行の宗教の誤謬は、唯物論的思想を背景としての、徒らな肉體の蹂躪であつた。さればこの二つの宗教を離れて、今釋尊の取られねばならぬ道は自ら明かになつたと曰はねばならぬ。それは、唯物論的の見を離れ、知見を正しくし、肉體の蹂躪に依つて心の自由があるのではなく、心の自由は心の欲の束縛からの解脱であることを突きとめて、この解脱を手段としての


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禪定に得ようとすることであらねばならぬ。優留毘羅の林の中から出でゝ、伽耶の菩提樹下金剛座への道は正しくこの道であつたのである。前所引中尼柯耶マハーサツチヤカ經典には、次の三つの喩とその合法とが出てゐる。

「阿耆吠舎那よ、濕れてにちやにちやして水の中に浸してある木に、燧道具を取り出して、火をつけ、燃え上らさうとして出來るであらうか。

何耆吠舎那よ、水からは上げたが、まだにちやにちやと濕れてゐる木に、燧道具から火が燃え移らうか。

阿耆吠舎那よ、水から上げて、乾かして善く枯れた木には火は燃え移つて、炎と燃え上るであらう。

今(第一第二の喩のように)、一身の愛欲を除かず、愛欲の友となり、愛欲に燃え、これを除かず鎮めないでゐていかに劇しい苦受を受けても、智見を得、正覺を得ることは出來ない。(第三の喩のように)、一身の愛欲を除き、愛欲の燃燒を心から除き靜め得たならば、劇しい苦受を受けても受けないでも、智見を得、正覺を得ることが出來るのである。」(一七)

經典は、この比喩と合法を、苦行前の釋尊の心持とするようであるけれども、それは實は苦行後の、菩提樹下への道を行き給ふ釋尊の心持とすべきであらう。


(一)漢に同本を缺くが、増一阿含二十三巻八(昃二・一四)參照
(二)漢に同本を缺く。菩提王子のことは五分律一〇(張一・六四)
(三)漢にこの相當文を缺く。
(四)初轉法輪の前のウバカ、長尼柯耶八長阿含二五の裸形禁志經の迦葉、長尼柯耶二五長阿含八散陀那經のニケローダの如きみ


頁三五
なこの邪命外道である。
(五)宇井博士印度哲學研究第二・四〇九頁
(六)梨倶吠陀一〇・一二九・三
(七)シヤタバタ梵書一一・一六・一
(八) Humes The itirteen Principal upanishads を見よ。
(九) Āoāranga I. 6. 2. 2
Āoāranga II. 8. 1-5
(一〇)増一阿含二十三巻 昃二・一四、若我至塚間取彼死人衣而覆形體、爾時若案吒村人來取木支著我耳中或著鼻中或有唾者或有溺者或以土分土其身上、然我爾時不起意向彼人民
(一一) Āoāranga II. 13. 1-23
(一二)異教のものが頻婆娑羅王の今日の王者の榮華は昔の苦行に依るものであると考へてゐたことが經典に載せてある。
(一三) Āoāranga I. 7. 4.1 I. 7. 5 1 etc. 繋縛からの自由を望む者には苦行のみ適す」。
Āoāranga I. 6. 3. 2 濟度者等は痩せた肢體を持ち、肉と血と乏し」。
(一四)印度哲學研究第二・二一五頁等
(一五) Āoāranga I. 7. 4. 2. I 7. 6. 3. I. 7. 8. -- etc.
(一六)中尼柯耶三六 mahāsaeeaka Sulta
(一七)取意抄經



華嚴經
第二回
大谷大學教授
金子大榮


頁一三
第一講 寂滅道場

一、成道の佛陀

寂滅道場とは釋迦成道の場所である。傳に依れば釋迦は尼連禪河の邊なる畢婆羅樹の下に安坐して、生死の如實の因緣を瞑想し、遂に正覺を得られたといふことである。依りてその坐所を記念して金剛寶座といひ、その畢婆羅樹を菩提樹といふ。然るに今や『華嚴經』は「佛とは何であるか」を現はさんとするものである。それは當然釋迦の自證に於いて求められねばならぬ。これに依りてこの經では、寂滅道場に於ける佛陀といふことが全部を貫ぬく基本的なものとなつてゐる。第一部の經はこの意味に於いて、悉く寂滅道場會であるといつてよい。併し第二會已下はそれぞれの道場が開けてゐるかも古來第一會のみを寂滅道場會と呼んで來たのである。隨つて第一會こそは、全『華嚴經』の基本となるものであることも注意されねばならぬ。

これに依りて第一會は、先づ菩提樹下に於ける佛陀の成道の光景を叙述することから始まる。「佛、摩竭提國の寂滅道場にありて始めて正覺を成」ぜらるゝや、「その地は金剛にして嚴淨を具足し、衆寶雜華をもて莊飾となし、……佛の神力の故に、この場地をして廣博嚴淨ならしめ、光明普ねく照らし、」「その菩提樹は高顯殊特にして、……樹光普ねく十方世界を照らし……佛の神力の故に、常に一切衆妙の音を出して如來の無量の功德を讃揚し」「師子の座は猶ほ大海の如く、衆妙寶華もて嚴飾となし流光雲の如く」であつた。かくして「地」と「樹」と「座」とは佛の成道に依り


頁一四
てその莊嚴を現出したのであるが、同時に佛はまたこれらの嚴淨なる地と樹と座とを背景とし所依として正覺を成ぜられたのである。

「如來はこの寶師子座に處して、一切の法に於いて最正覺を成じ給へり。三世法の平等なるを了するの智身と、普ねく一切世間に入るの身(とを成じ)。妙音あまねく一切世界に窮盡すべからざること猶ほ虛空の如し。平等の法相に智慧の行處すること猶ほ虛空の如し。等心もて一切衆生に隨順したまふ。その身徧ねく一切の道場に坐して、悉く一切衆生の所行を知る……」

こゝに早くも「佛」の如何なるものなるかゞ現はれてゐる。華嚴經家の著眼せる佛は大智慧佛である。一切の法に於いて正覺を成ずるものである。それ故にその身は一切世間に入り、その聲は十方世界に響くのである。それは卽ち一切世間を内感し、自覺の眞理の普徧を確信することを意味するものである。それ故に今寂滅道場にありて正覺するは、同時に一切の道場に坐して正覺するのである。われわれは常に華嚴經の文字の壯大雄渾なるに驚く、併し眞に覺證するものゝ感得内容を現はすものとしては、極めて自然の叙述であることは、特に領會せねばならぬことである。

この佛の正覺に於いて、「微塵の數にも等しき(無數の)大菩薩が現はれた。それは普賢菩薩、普德智光菩薩等であつて、「皆なこれ盧舎那佛(光明徧照と譯せらる、大釋迦を意味す)宿世の善友なり、一切、功德の大海を成就し……慧眼清淨にして三世を等觀し、諸の三味に於いて明淨を具足し……如來の一切の功德法海その身に充滿し、……悉く一切普賢の願海を得」たる聖衆である。これらの菩薩は言はゞ佛陀の自内證に於ける眷屬ともいふべきものである。菩薩はいふまでもなく佛道を行修するものである。それは未來の佛である。併し未來とは内面的には永遠界を意味す


頁一五
るものであるから、未來の佛はこの見地に於いては、却つてその永遠界から現はるゝものといふべきである。それ故に永遠界を照らす佛自證の光に於いては、菩薩はまさにその内眷屬である。佛陀の正覺を憶念して現はるゝものは菩薩であるが、その菩薩こそは佛陀の正覺からは「宿世の善友」である。故に菩薩は如來一切の功德法海を其身に充滿せしめて、しかも限りなく普賢の願海に順はんとするものである。

然るに經典にはこの菩薩の外にさらに金剛力士、道場神等の三十三衆を列舉してある。而してそれらの衆はそれぞれの「名」と「德」とがある。煩はしいやうであるが斯經としては看過すべからざることであるから列記しよう。

一、大菩薩
二、金剛力士 已でに大誓願を發して諸佛を侍衛す……。
三、道場神 皆友先佛に於いて願行を造立せり。
四、龍神 常に如來の為に法堂を莊嚴す。
五、地神 過去佛所に於いて普ねく願行を修す。
六、樹神 皆な悉く大喜普照を成就す。
七、藥神 皆な悉く大悲普照を成就す
八、諸穀神 大喜を成就す。
九、諸河神 常に能く精勤して衆生を利益す。
一〇、諸海神 佛無量功德の海を以つて自ら充滿す。


頁一六
一一、諸火神 悉く衆生の為に闇冥を照除す。
一二、諸風神 皆なよく衆生を和合して分散せざらしむ。
一三、虛空神 心皆な無垢にして堅固、淨妙なり。
一四、主方神 皆な能く善く一切衆生を照らす。
一五、主夜神 助道の法に於いて深重に愛樂す。
一六、主晝神 皆な悉く正法の莊嚴を信樂す。
一七、阿修羅神 悉くよく憍慢と放逸を降伏す。
一八、迦留羅王 方便を成就して廣く衆生を潤ほす。
一九、緊那羅王 普く衆生に於いて精勤に勸發してよく法を樂はしむ。
二〇、摩睺羅伽王 普ねく衆生の為に諸の疑網を除く。
二一、鳩槃荼王 皆な悉く無礙の法門を修習す。
二二、鬼神王 普ねくよく一切衆生を勤護す。
二三、月身天子 勤めて智慧を以つて普ねく衆生の無上寶心を發す。
二四、日天子 皆な悉く清淨の善根を成就して常に一切衆生を饒益せんと欲す。
二五、三十三天王 悉く皆な清淨の善業を具足して、よく衆生をして淨妙處に生ぜしむ。
二六、夜摩天王 皆な悉く勤修して歡喜を出生し知足を信樂す。


頁一七
二七、兜率天王 皆な悉く念佛三昧を成就す。
二八、化樂天王 皆な悉く寂靜法門を成就し衆生を調伏す。
二九、他化自在天王 普く皆な自在の正法を勤修す。
三〇、大梵 悉く大慈を具へ衆生を度脱し惱を照除して清凉柔輭ならしむ。
三一、光音天子 喜光寂靜の法門に安住す。
三二、徧淨天 常に衆生を念じて廣樂に安住せしむ。
三三、果實天子 皆な悉く善く寂靜意門に住す。
三四、淨居天 已に無相平等の法界を修せり。

而してこれらの衆の一一にはまたそれぞれの名があること、例へば諸河神に普流神、勝洄澓神、洪流聲神、養水性神等あり、諸火神に熾然光藏神、炎雲光明神等ある類である。われわれはこれらの「名」と「德」とを見るとき、佛陀の正覺は一切の有情無情を靈化し、それらをして悉く法界を莊嚴せしむるものたらしめしことを知らしめらるゝのである。卽ちそれは「世間淨眼品」といふ名の示す如く、佛の正覺は一切の有情非情に於ける淨眼を開いたのである。一切は佛陀に依りて淨眼を得たのである。佛陀が一切の淨眼となつたのである。三十四衆、それぞれの德がそのまゝ佛の正覺に依りて與へられたものである。それ故にそれぞれの德はまたそのまゝ佛正覺の德といふことが出來よう。而してこの事はやがてこの三十四衆の讃歌となりて現はるゝのである。


頁一八
二、讃佛の歌

佛の正覺は三十四衆を出現せしめた。然るにその三十四衆はさらに佛の正覺を讃嘆することに依りて、佛成道の意義と光景とを明かにせんとするのである。かくして三十四衆は遂次に淨居天(大自在天)より菩薩衆へと、それぞれの衆を代表して讃佛の頌を為すのである。(晉經では三十四衆の中、讃佛するものは十八衆である。併し唐經では四十衆ありて、しかも四十衆皆な讃佛の頌がある)それらの讃歌こそは『探玄記』(賢首著、晋經の註釋)のいふ如く、「佛を歎ぜんと欲して己の法門を頌す」るものである。而してその所以はこの衆そのものが元來佛の自證の中より出現せるものであるからである。しかもそれはやがて己の法門を頌することがそのまゝ佛德を頌することである。月や日や河や海やの神々が、その己に現はれたる法を頌することの外に佛德を讃ふるの道がない。この見地よりして十八衆の法門とその讃佛歌とを對照することは、以つて經文の妙に接する所以であらねばならぬ。併しその雄大なる讃歌の妙は、到底叙述し得べくもない。強いてこれを記さんとせば、唯だ本文を列舉するの法あるのみである。大自在天の偈にいふ、

無盡平等妙法界 悉皆充滿如來身
無取無起永寂滅 為一切歸故出世
、、、、、、、 、、、、、、、
如來功德難思議 衆生見者煩惱滅


頁一九
得見不動自在尊 能生無量悅樂心
衆生大海癡蔽心 為現寂靜微妙法
能然無上智慧燈 是則方便眞淨眼
、、、、、、、 、、、、、、、
佛於無邊諸劫海 常求正覺悟衆生
無量方便化一切 清淨廣稱如是見

『新譯佛教聖典』(佛教協會發行)の序歌及び第一編第二章第一節の六に現はるゝ讃歌は、正しく斯經の十八衆のそれを合糅して譯せるのであるから、その一部を鈔錄する。

なべて世の樂のうち、 きよき寂けさに、しくぞなき。
穢れなき法は、佛の室、 さながらに見るは、佛の眼。

すべてわれらの國々は、」 佛の一毛の中に、入りて足らず。
まこと佛の御戀は、 大空のごと廣やかなり。

われらの憍ぶる心は、山の如きも、」 御佛は、智慧と方便の力にて、碎きたもう。
限りなき時を重ねて、行を修め、」 愚かなるわれらの、闇を除く。


頁二〇
佛の智慧こそ清らかなれ。

かくして十八衆は次から次へと讃佛し、最後に普賢が一切の菩薩を代表しての頌歌が終れる時、さらに佛の師子の座より海慧超越、無量師子吼など名づくる塵數の菩薩が出現して如來を供養しつゝ、また讃佛の歌を頌するのである。さればこれらの讃歌の交響に天地も震動したことである。この偉大なる佛正覺の光景を背景として、何事が現れんとするのであらうか。『華嚴經』の説法は、まさにこゝに始まらんとするのである。(已上世間淨眼品)

三、世界海

佛の正覺は生きとし生けるものゝ淨眼を開くとともに、世界萬有を莊嚴する。卽ち佛の正覺は單なる事實の世界を轉じて、その自證の法界たらしむるのである。自然を美しくするものは、そこに現はるゝ人格の光である。佛陀現はれて斯の世界は莊嚴せられ、その莊嚴せられたる世界はそのまゝ佛自證の法界を象徵する。これを斯經では「蓮華藏莊嚴世界」といふ。されば佛の正覺を讃ふる諸衆の頌歌が終るや、先づ顯はされねばならぬものは、この蓮華藏莊嚴世界の光景である。

然るに經はこの蓮華藏莊嚴世界を顯はす前に、世界海一般に就いて説く。その經説は讃歌を頌せる諸衆が「佛地」と「菩薩行」との眞を知らんとする念に應じ、佛陀は光明を放ちてさらに十方世界より菩薩を來會せしめ、而して正しく説法の主として普賢菩薩を現出せるに始まる。普賢は已に如來の光中に出現し、「一切如來淨藏三昧」に入り、諸佛の加被を得て、(一)一切諸世界海(二)一切衆生海(三)法界業海(四)一切衆生欲樂諸根海(五)一切三世諸佛海を觀察し、


頁二一
則ち三昧より出でゝ世界海事を説くのである。その世界海事は、(一)説 (二)起具因緣 (三)住 (四)形 (五)体 (六)莊嚴 (七)清淨 (八)如來出世 (九)劫 (一〇)壞方便の十種あることであるが、今はその(二)起具因緣と(四)形とを舉げて、その一般を例することゝしよう。

起具因緣とは世界海、この宇宙にある世界の海、それの生起する具さなる因緣は何であるかといふことである。世界成立の因緣、誠にそれこそはわれわれが世界に就いて第一に知らんと欲するものである。併しその因緣は實は無數であつて、二三のものを以つて限定すべきものではない。經は特にその注意すべきものを列學するのである。

(一)如來神力故
(ニ)法應如是故
(三)衆生行業故
(四)一切菩薩應得無上道故
(五)普賢菩薩善根故
(六)菩薩嚴淨佛土願行解脱自在故
(七)如來無上善根依果故
(八)普賢菩薩自在願力故

一切の世界はこれらの種々の因緣に依りて成立するのである。われわれはそれを種々の因緣によりて種々の世界ありと解すると共に、種々の因緣が相依りて一の世界を形成すると頌解してよいであらう。この八因緣に於いて(三)の衆


頁二二
生の行業に依るといふことは、佛教一般の説として周知せられてゐることである。衆生の行業が世界を感受し、その感受に於いて世界を成立せしむるのである。然るに(四)の「一切菩薩まさに無上道を得べきが故に」世界が成立するといふことは、世界そのものを修行の道場と觀るものであつて、それは理想主義的な世界觀を代表するものである。世界はわれわれが佛道を求めねばならぬように出來てをり。また佛道を求むべき因緣を以つて成立してゐる。それは何といふ意味深いことであらう。(六)も同樣に解すべく、(五)と(八)とはさらにそれを普賢の名に依りて現はせるものであらう。然るに一方では衆生の行業に依るといひ、一方では菩薩の理想に依るといふことは、人間生活の兩面を現はしたもので、本とより互に矛盾するものではない。行業の反省と理想の願求とは自覺の兩面である。それ故にそれをさらに統一すれば(一)と(七)との如く「如來の神力の故に」ともいはるべきであらうか。しかもそれをさらに追求すれば、(二)の如く「法まさに是の如くなるべきが故に」といふの外ないであらう。

世界海の形に就いては、或は(一)方、或は(二)圓、(三)非方圓、(四(如水洄洑、(五)如華形、(六)種々衆生形と説いてある。これらの形は經自ら説く如く、一切諸業海種々別異故に依るものであり、諸佛國土、起由心業無量種形而以莊嚴するものであるは言を俟たぬ。性格が世界を形づくる。方といひ圓といひ、衆生の行業の外にはない。これに依りて「水の洄洑するが如きもの」といひ、「華形のもの」と動的な世界形を顯し、遂に種々衆生形と明説せるもの、以つて華嚴經家の識見を見ることが出來る。かくして世界の體を説き、莊嚴を説き、如來出世等を説いて世界海一般の説は終はるのである。


頁二三
四、蓮華藏莊嚴世界

已でに世界海一般の觀察は終つた。今やわれわれの關心する蓮華藏莊嚴世界の如何なるものかを知るべきである。普賢はこゝに語を改めていふ、「諸佛子、この蓮華藏世界海は、これ盧舎那佛もと菩薩の行を修し給ひし時、阿僧祇の世界微塵數劫に嚴淨せるところ、一一の劫に於いて世界微塵に等しき如來を供養し、一一ノ佛所に世界海微塵數の願行を淨修し給へり」と。されば吾等はこの世界の至るところに於いて、佛陀修行の面影を見、如來の大悲の願の音聲を聞かねばならぬ。果して然らばその世界は何所にあるのであらうか。

普賢は已に「此蓮華藏莊嚴世界」といふ。それは釋迦成道のこの世界の外に求むべきものでない。これに依りてこの世界を説く經文は、特に莊嚴と雄大とを極めてはをるが、その素地となつてゐるものは、須彌山説である。卽ち先づ風輪に依りて支持せらるゝ大地を説き、次ぎに金關圍山を説き、次ぎに香水海を説く。その世界構成の狀態は、全く佛教一般に説く、われわれの住むこの世界である。併し住むものゝ心境よりいへば、われわれの住む世界は衆穢の國土であつて、蓮華藏莊嚴世界ではない。蓮華藏界は佛の正覺に莊嚴されたるものである。普賢の眼を以つて見られたる世界である。それ故にそれはたゞ淨眼に映じ淨耳に聞ゆる世界である。されば經典がこの世界を説く歌頌は、實に光明と音樂との交流である。試みにその絶唱の一例を記して見よう。

諸佛世尊願音聲 於彼寶岸常得聞
一切如來過去行 皆悉徧聞十方國


頁二四
一切香河諸旋流 一切菩薩功德雲
漸々盈滿諸法界 見一切刹無不至

唐經に依れば、この蓮華藏世界海の中には、無量の世界ありて、それらの世界は皆な菩薩の「願の音聲」を體としてゐるのである。これ卽ち世界至るところに世尊の願の音聲を聞くを得る所以である。

されば何故に佛陀の本願に依りて莊嚴されたる世界を蓮華藏界といふのであらうか。思ふに「蓮華」は佛教に於いて特に佛の座とするものである。泥中にありてその濁に染まぬ蓮華が穢惡の世界にありて汚れぬ「法界眞如」を象徵するものであつて、その「法界眞如」が卽ち佛智の座である。「藏」とはそれに攝められそれより生ずることを意味するのであるから、蓮華藏莊嚴世界とは、佛の正覺の智慧の座(所依)である「法界眞如」に攝められ、同時にその佛の正覺の智慧にて莊嚴せられたる世界といふことであらう。それ故にこの世界は、正しく佛自證の内容をなすものであり、また佛の本願によりて感得せられたるものである。隨つて世界の莊嚴を説くことは、そのまゝ佛自證の法界を現はすものであらねばならぬ。

五、普莊嚴童子

然に蓮華藏莊嚴世界を説き終りて經文は一轉して過去久遠の一物語を掲出してゐる。乃往久遠微塵數劫の古、勝妙音と名づくる世界に、一切功德本勝須彌山雲と名づくる佛が出世せられた。その時に愛見善慧といふ國王ありて、功德勝、普莊嚴童子等の多くの子を有つてをられたが、その中では普莊嚴童子は、かの佛の光覺によりて佛の無量自在の


頁二五
功德を見、その因緣に依りて種々の三昧を得たことである。童子はこれに依りて彼の佛德を讃嘆するに、この讃歌は世界に普ねく聞え、こゝに父王なる愛見善慧をして衆多の眷屬と共に彼の佛の所に往かしめた。その時彼の佛はこの大衆の為に現三世一切諸佛集會と名づくる經を説かれた。彼の普莊嚴童子はこの經を聞いてさらに勝れたる三昧を得、その法悦を頌することに依りて、また多くの衆生の無上道心を喚起したのである。かくしてその後、この童子は多くの如來の出世に逢ひ、見佛し聞經することに依りて、ますます深く法藏を究めたのである。

思ふにこの説話は、澄觀(唐經の註釋者)のいふ如く、前に蓮華藏世界は盧舎那佛の曠劫修因の嚴淨せるところなりと説けるに應じて、まさにその曠劫の修因を説くものであらう。元來、晋經では盧舎那品に於いて世界海一般と、蓮華藏界と、普莊嚴童子物語の三事を説けども、唐經ではそれが各々別品となつて、次の如く世界成就品、華藏世界品、毘盧舎那品となつてゐる。されば晉經の盧舎那品は、大釋迦佛の自證法界とその因位の修行とを包攝するものであり、唐經の毘盧舎那品は、特にその因位の修行のみを説くものである。隨つて普莊嚴童子の物語は、この蓮華藏界を莊嚴せる佛陀の因位を開顯するものであらねばならぬ。

併しその因位の修行として顯はされてゐるものは、たゞ見佛と聞經とである。幾度も幾度も見佛し聞經せることである。しかもその最初の見佛は一切功德本であり、聞經は現三世一切諸佛集會である。最初なるものは根本的なるものである。それ故に限りなく見佛し聞經するも、所詮はこの最初なるものを離れぬであらう。さればわれわれはこの經説に依りて、見佛と聞經とが佛自證の法界を領會する根本であることを知らねばならぬ。今の最初の佛名と經名とは特にこれを暗示するものゝ如くである。隨つて佛陀因位の修行を説くといへども、所詮はこれに依りて佛自證の法


頁二六
界を明かにするものである。故に菩薩道場の一會は、全體として佛自證の法界を說くものと見るべきものである。
(巳上、盧舎那品)

華嚴經(第一回)正誤表
頁 行 誤 正
二 七 億念 憶念
五 一 夜摩元 夜摩天
六 一〇 難世間品 離世間品
九 五 无眼无窮 无限无窮



般若理趣經
第二回
大正大學教授
加藤精神



般若理趣經(第一回)正誤表
頁 行 誤 正
一 五 盧(ろ)遮那 盧(る)遮那
二 三 契(けい)證 契(かい)證
二 五 摩訶毘虛(びろ)遮那 摩訶毘盧(びろ)遮那
二 一三 不可思法師 不可思議法師
三 一二 有部律(しつ) 有部律(りつ)
四 一〇 三昧耶(さまや) 三昧耶(さんまや)
五 一四 血脈(けつ) 血脈(けち)
五 一六 飜擇 飜譯
六 一 阿目伽(さくか) 阿目伽(こきや)
六 一 貞元錄(じよう) 貞元錄(てい)
六 一四 亮貞師(ようぜう) 亮貞師(りやうてい)
七 一二 實相般若答(とう)釋 實相般若答(たつ)釋
九 六 宗叡(しう) 宗叡(しゆ)
九 一一 實慧(じつ) 實慧(じち)
九 一一 眞紹(せう) 眞紹(ぜう)
十一 一四 合(がつ)殺 合(かつ)殺
十二 七 眞然(ねん) 眞然(ぜん)
十四 一 染汚(を) 染汚(ま)
十四 六 性德自爾(せいとくじじ) 性德自爾(しやうどくじに)


頁一九
八 此經の譯主

大興善寺三藏沙門大廣智不空奉詔譯

是れは此經の翻譯者を舉げたのである。大興善寺は長安に在る不空三藏所住の寺名、三藏は飜譯家の通稱で、經律論の三藏に通達したる翻譯者と云ふ意味である。沙門は梵語で具には室羅末拏と云ひ、譯して勤息と云ふ、善を勤め惡を息めるの義にして、出家者の通稱である。印度には佛弟子の出家ばかりでなく、外に婆羅門の出家もありて、互に相濫するの虞れがあるから、佛弟子は特に沙門釋何某と稱することになつてゐた。支那以東には佛弟子の外に別の沙門なきが故に、單に沙門と云へば佛弟子の通稱となつたのである。大廣智は不空三藏が仁王經を新譯した時、唐の代宗皇帝から其の德を稱美して賜はりたる嘉號である。不空は灌頂壇に入つて投花得佛した時、不空成就佛を得たるが故に不空金剛と稱すべきを略して單に不空と號したのである。不空三藏の傳記は貞元錄、宋高僧傳、付法傳等に詳かである。然るに有書に曰く「或は云ふ不空五天を周遊すと、其事蓋し臨終の陳情表に出づ。然も是れ卽ち示寂の日弟子等の作る所のみ。其の請新譯經入藏表の中に又五天に遊び末ざ受けざる所幷に諸經論を尋求するの語あり、謂ふ所の五天とは猶、天竺と謂ふが如し、卽ち唯師子國を指して云ふのみ。玄弉等の徧歷せし所の五天竺を指すにあらず。蓋し不空の足跡、未だ遂に印度本洲に及ばざるなり」と。然るに是れ只著者の妄斷臆説である。假りに普通の人情として之を觀るも、不空は開元六年十四歲にして闍婆國に於て金剛智三藏に師事し、十六歲にして師に從つて來唐し、成年の後未だ五天の地を踏まず、佛蹟を禮せず。開元二十九年先師塔に入られし後、詔を奉じて師子洲に入


頁二〇
り、天寶五年に歸唐したのであるから、印度に留學せられた間は五ケ年有餘である。而も其間、足跡未だ遂に印度本洲に及ばず、佛蹟を禮拝せずして、師子國より直に歸唐せられしものとは信ずることが出來ないのである。宋高僧傳等に五天周遊の語ありと雖も、委しき紀行文なきを以て著者は臆斷して印度本洲に到らずと云つたのであらう。併しながら仁王經良賁疏の末譯にして唐の遇榮の著(宋は誤)法衡鈔一には、「不空再天の時、師子國に住すること三年、師子國より西行すること十五日夜を兼ねて西岸に達し、東天竺の國界に至り、此國より西北に陸行すること三月、大菩提樹、佛成道處に至り、遍く五天を歷て後、天寶五載に至りて、西京に還歸し勅を奉じて鴻臚寺に住す」とありて、是れは不空の入寂を去ること未だ久しからざる時代の著書であるから必ず信憑すべき不空の事跡を傳へたものに相違ないと思ふのである。

九、此經の綱概

此經は金剛薩埵の自内證とて、自ら内心に證語し給ふ所の眞理趣其の儘を赤裸々に説かれたものであつて、吾人が見聞覺知する所の五慾六塵の境界を以て、直に吾人本具の淨菩提心の體性なりと開示したものである。是れに十七段ありて、初段の中に二種の曼荼羅を説く。一には能説の曼荼羅である。是れは能説の教主大日如來が中央に在して、金剛手菩薩等の八大菩薩を始め、八十倶胝の菩薩衆の為に此經を演説し給ふ所の曼荼羅である。故に又は説會の曼荼羅と云ふ。二には所説の曼荼羅である。是れは大日如來が金剛薩埵の三昧に住して、慾觸愛慢等の十七清淨句の法門を説いて十七尊の曼荼羅とするのである。之を金剛薩埵理趣會の曼荼羅と云ふ。此の經の根本總體である。


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第二段より第十段に至るまでは、大日如來と八大菩薩との各々の内證三摩地を説いたものである。之を勝義諦の曼荼羅と云ふ。

第十一段は眞俗合明の曼荼羅と云ふ。此の段に三重の曼荼羅を明してある。第一重は勝義諦の曼荼羅、第二重第三重は世俗諦の曼荼羅である。第十二段より第十五段までは外金剛部の曼荼羅卽ち專ら世俗諦の曼荼羅を明す。第十六段は五部具會の曼荼羅と稱す。是れは上來所説の眞俗二諦の曼荼羅を、互具融涉して輪圓周備せしむるが故に此の段に具會の義を明して、果德の至極を表示したのである。

第十七段は金剛薩埵五祕密の曼荼羅にして、上に明す所の果德の法門は、悉く吾人本有の淨菩提心に歸入するの義を顯はすのである。

然れば初段金剛薩埵の内證を開いて中間の十五段と為し、中間の十五段を攝して還て金剛薩埵の内證に結歸するを第十七段と為す。卽ち初後に金剛薩埵の曼荼羅を説きて、中間十五段の曼荼羅も亦金剛薩埵の内證三摩地を出でざることを示したのである。要するに凡身卽佛の深義、性德輪圓の幽旨は唯此經に在るのみである。

十、本文解釋

上來文前要義を略述し了る。是より本文に入つて解釋すべし。本文に三分あり、一に序分、ニに正宗文、三に流通分である。之に就て開題には、如是我聞より恭敬圍繞までを序分とし。而為説法より第十七章末の執金剛位までを正宗分とし、爾時一切如來より信受行までを流通分とす。又文句には如是我聞より清淨潔白までの七事を緣起分卽


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ち序分とし。説切法より以下十七章を正説分卽ち正宗分とし。經の終りの一切如來及菩薩等の四句一頌を流通分とす。以上の二説は何れも高祖の御釋であつて各々其の理があるけれども、今回は且く文句の分科に從つて置く。

如是我聞。以下は序分である。諸經の例に依れば通序(五成就)の外に別序(六種震動等)がある筈なれども、今此經には通序のみありて別序は略して文に無い。如是我聞の四字は五成就の中、第一の信成就である。諸經の初に此語を置くことは釋尊入滅の時の御遺言に依るのである。此語は傳聞等にあらざることを表はして、未來の機根をして深く信心を起さしむる言葉なるが故に信成就と云ふ。文句には此の下を七事に分つ、是れは「如是」を「第一に所聞の法體を舉ぐ」と科し。「我聞」を「第二に別して聞持の人を明す」と科し。後に歎法の句を加へて七事とするのである。

顯教は阿難が經を結集せし故に「我聞」とは阿難の自稱であるが、密教は金剛薩埵之を結集せしが故に、我とは金剛薩埵の自稱である。大日如來と金剛薩埵との關係は、大日如來は能説の教主、金剛薩埵は能聽の所化である。又大日は修生の果德を表し、薩埵は本有の因德を表したものである。而も因果は元より不二なれば、實には一體の兩面に過ぎないのである。約り佛が果位の自三昧に住して此經を説き、又因位金剛薩埵の三昧に住して此經を聽聞し結集したのである。

一時。とは五成就の中、第二の時成就である。文句には「第三に聞持和合して而も異時にあらざることを明す」と科す。能説の教主と能聽の大衆と相稱會遇して、三乘の種姓が皆聖果を得たる時を一時と云ふ。開題に「人法與時會、三密相應説故云一時」と釋し給ふ。此釋の人とは能説の大日如來、法とは所説の法門、時會とは其の時に集


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會せし所化の衆機を云ふ。能化の三密と所化の三業と相應して、所化の衆機が悉地を得たる時を一時と云ふのである。

薄伽梵成就殊勝一切如來金剛加持三摩耶智、已得一切如來灌頂寶冠為三界主、已證一切如來一切智智瑜伽自在、能作一切如來一切印平等種種事業於無盡無餘一切衆生界一切意願作業皆悉圓滿、常恒三世一切時身語意業金剛大毘盧遮那如來。(此經は漢音に讀むを本則とすれども便宜上、以下呉音を用ふ)

此の一百〇二字は長いけれども大日如來の名號で、五成就の中の第三教主成就である。文句に「第四に聞持の所從を明す」と科す。蓋し聽聞し受持する所の法門の從て來る根本は教主大日如來の外なければ、教主成就の句を釋して「聞持の所從」と言つたのである。此の百二字の中で、薄伽梵の三字は總じて如來の德號を表す。薄伽梵とは梵語にして譯して能破者と云ふ。佛は煩惱魔、天魔、五蔭魔、死魔の四種の惡魔を摧破するが故に名つけたのである。又婆羅門の聲論には薄伽梵に六義を具す。曰く熾盛、自在、端嚴、名稱、吉祥、尊貴である。是の如く種種の意義を含具し、漢土に適當なる譯語なきを以て梵語を存するのである。翻譯家は或は會意して之を世尊と譯してゐる。古き譯には衆祐とも譯せり。成就殊勝より身語意業金剛までの九十二字は別して大日如來の所具の五智を讃歎したのである。

成就殊勝一切如來金剛加持三摩耶智。とは第一に大日如來の大圓鏡智の勝德を讃歎したのである。成就とは圓滿に證得したる義、殊勝とは大日如來の五智は無上無比類たるが故に殊勝と云ふ。此の語は下の四智にも通ずるのであるが、今は初に約して三摩耶智を讃歎したのである。一切如來とは顯教では三世十方の諸佛を云ふが、密教では三世十方の諸佛を悉攝盡して五智の如來と為す。今一切如來とは五智の如來である。大圓鏡智は大日如來の東方阿閦佛の一智德に過ぎざるが如しと雖も五智に各各五智を具して無際智なるが故に、一佛に五佛の德を具す是を一切如來と云


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ふ。以下の四智皆是に准如すべきである。金剛加持三摩耶智とは、金剛は堅固不壞の義にして淨菩提心の堅固の德を云ふ。加持とは佛日の影、衆生の信水に映ずるを加と云ひ、衆生の信水能く佛日を感ずるを持と云ふ、約り感應道交する義を加持と云ふのである。三摩耶智とは三摩耶は譯して本誓と云ふ。眞言行者が金剛不壞の大菩提心を發して、上、一切智智を求め、下、法界の衆生を度せんと誓願す。之を三摩耶智と云ふ。卽ち殊勝一切如來金剛加持の十字は、大圓鏡智の勝德を歎じ、三摩耶智の一句は直に智體幷に位處を舉げたのである。大圓鏡は譬へで、自他の三密圓滿して缺くる所なく悉く此の智の上に顯現すること、獨大圓鏡の面に森羅萬象の影現するが如くなれば大圓鏡智と名づく。行者已に大菩提心を發して、三摩耶智を獲得すれば、自然に防非止惡の義あり。此の防非止惡の義邊に約して三摩耶戒と名づけ、決斷簡擇の義邊に約して三摩耶智と云ふ。智と云ふも戒と云ふも其體は元より同一である。戒律に五八十具の差別あれども、發菩提心戒が根本である。行者にして若し自心本具の佛性あることを自覺せず、上求菩提、下化衆生の大菩提心を起すことなくして、空しく百千の戒律を嚴持すと稱するも、遂に得る所はないのである。故に我密教では最初に佛性三摩耶戒を授けて、先づ修眞言行者の法器と為らしむるのである。或傳に入壇灌頂の時、最初三摩耶戒場に於て大阿闍梨が五股杵を執りて、塗香、花鬘等を加持して弟子に授づけ、金剛薩埵三摩耶の印明を結誦せしめて菩提心を發得せしむ。是れを「殊勝なる金剛加持の三摩耶智を成就す」と云ふと、云云。是れは「五祕密軌」等に弟子の身中に金剛薩埵を引入して然して後に職位を授くると云ふ文の意である。五股杵は金剛薩埵の標幟なるが故に、阿闍梨が五股杵を以て弟子を加持する時を、金剛薩埵を引入すと云ふ阿闍梨の加持に依りて弟子は自心本具の大圓鏡智を發得するのである。


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已得一切如來灌頂寶冠為三界主。とは第二に大日如來の平等性智の勝德を讃歎したのである。一切如來は前の如し。已得とは『講義』に「文に約すれば前を指し、義に約すれば本有を云ふ」とは誤りである。今の文は已成の如來たる大日の自覺聖智なるが故に已得と云ふのである。次の已證の言も亦然りである。若し一説の如く此文を以て悉く本有得に約すと云はゞ一切衆生誰か之を有せざらん。故に特に教主の勝德として讃歎するに足らないのである。『略詮』に「本有が家の本有にあらず、修生が家の本有である」と云ふは此の意味である。灌頂寶冠為三界主とは、大日如來が昔因地に在して一切義成就菩薩(悉陀太子)と稱せし時、雲集せる空中の諸佛の誓覺を蒙り、無識身三摩地より起ちて三摩耶戒壇に入り、阿闍梨の加持を得て佛性三摩耶戒を受け(以上は大圓鏡智を得たる位)後に灌頂寶冠を受けて、本具の平等性智を開顯し、三界の大導師と為られた位を云ふのである。(以上は平等性智を得たる位)灌頂の事は、華嚴經第三十九巻に法雲地の菩薩の灌頂受職の事を明せり。曰く、

佛子、轉輪聖王所生の太子の母は、是れ正后にして、身相具足するが如き、其の轉輪聖王、此太子をして白象寶妙金の座に坐せしめ、大網幔を張り、大幢幡を建て、香を燃き花を散じ、諸の音樂を奏し、四大海水を取つて金瓶の内に置くに、王此瓶を執つて太子の頂に灌ぐ、此時卽ち王の職位を受くと名づけ、灌頂刹利王の數に堕在す。卽ち能く具足して十善道を行ずれば、亦名づけて轉輪聖王と為す。菩薩の受職も亦復是の如し。諸佛の智水を以て其の頂に灑ぐが故に、名づけて受職と為す。 如來の十種力を具足するが故に、佛教に堕在す。佛子、是れを菩薩の大智職位を受くると名づくと(縮刷、天、一一七十八左)

灌頂は本、帝王の卽位式、又は戴冠式に擬したものである。今密教に修する所の灌頂も、行者已に三摩耶戒壇に入


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つて、五股杵を以て加持せられ、灌頂を受くるに堪ふる時、阿闍梨が行者を正覺壇に引入して、行者の頂に五智の瓶水を灌ぎ、五智の寶冠を戴かしむ。是に於て行者は直に法皇の職位を受けて、三界の大導師と為るのである。

然るに『理趣釋經』に灌頂を明して次に「此れを以て初因として三密四智印相應するに由て、究竟三界の法王主と成るを以て果と為す」と釋せり。之に就て『祕要抄』に問答して曰く、

問ふ灌頂とは正覺壇の軌則なり。是を以て究竟の果と為す今何そ「此れを以て初因と為す」と云ふや。答ふ灌頂に重重の位あり。大に之を論ずれば三位あり。一には地前、二には初地、三には十地究竟なり。若し十地究竟して受くる所の灌頂は、灌頂卽ち成佛の位なり。若し前の二位に約すれば灌頂を受けて後、更に修行の方便を假り、然して後に成佛す。但し機に頓漸あるが故に、薄地の凡夫なりと雖も、頓悟頓入の人に約すれば、灌頂を受くる位に卽ち三界の法王も成るなり。今は且く漸次の人に約して「之を以て初因と為す」と釋せしなり。兩部大經の説相、多くは此の軌則を明す、怪みを為すべからず。云云。

已證一切如來一切智智瑜伽自在。とは第三に大日如來の妙觀察智を讃歎したのである。已證とは本有得を云ふにあらず。今は已成の如來、毘盧遮那の勝德を歎ずるが故に已證と云つたのである。一切智智とは顯教には一智を以て一切法を知るを一切智と云ひ。密教には佛智は無量無邊なるが故に一切智智と云ふ。而して智智と重言することは智中の智と云ふ義で勝れたる智を意味するのである。今は毘盧遮那如來の自證の妙觀察智を云ふ。瑜伽自在とは、瑜伽は梵語にして此に譯して相應と云ふ。禪定と智慧と相應するが故に、諸の法門に於て通達せざることなく、妙に物機を觀察して説法斷疑、無礙自在なれば瑜伽自在と云ふ。是れは妙觀察智の妙用を歎じたのである。


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能作一切如來一切印平等種種事業於無盡無餘一切衆生界一切意願作業皆悉圓滿。とは第四に大日如來の成所作智の勝德を讃歎したのである。其中、能作以下の十五字は自行の成辨を明し、於無盡無餘以下の二十字は化他の滿足を明したのである。一切印平等とは大日如來の大曼荼羅、三摩耶曼荼羅、法曼荼羅、羯麿曼荼羅を云ふ。此四種曼荼羅に各各、決斷簡擇の義と(智)、決定不改の義(印)、とあるが故に智印と云ふ。此の四智印は法界に周遍して諸法を該攝し、皆悉く其量等しきが故に平等と云ふ。種種事業とは此の四智印に各各自利利他の功德ある中、此は自利の上の種種の事業を云ふ。於無盡無餘一切衆生界とは、衆生界は無盡であるが、此の無盡の衆生界を殘すことなく餘すことなく、悉く該羅したる總ての衆生界と云ふことである。一切意願は所化の衆生の意願である。所化の意願非一なれども悉く總攝して一切意願と云ふ。作業は能化たる佛の利他の作業である。卽ち一切衆生の意中の一切所願を滿足せしむる為の、能化の為すべき事業を一切意願の作業と云ふ。皆悉圓滿とは、上の自利の事業と化他の作業とを悉く滿足したることを云ふ。

以上の四智に就て前の三智は内德に屬し、後の成所作智は外用に屬するが故に、外用に顯はるれば凡て成所作智の力用となるのである。例せば妙觀察智、説法斷疑の智慧の如きも、之を外に向つて身口二業に現はる時は直に成所作智の作業となるのである。但し五智に各各五智を具することは前に説きたるが如くなれば偏執すべからざるものである。常恒三世一切時身語意業金剛。とは第五に法界體性智を讃歎したのである。法界とは法は一切諸法の義、界は差別の義で、無量に差別せる一切諸法の體性となる智慧を、法界體性智と云ふのである。此の智は上の四智を總括せる根本體性なるが故に、四智は別德、此智は總德である、常恒とは大日如來の法界體性智は、無始より以來、本有常


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住にして、煩惱雜染の中に在れども一德も減ぜず、菩提槃の二轉の妙果を證得しても、一德をも増せざれば常恒と云ふ。三世は過現未である。一切時は六趣に輪廻する凡夫の時も、四德の都に安住する佛果を得ても、法身の三密は常恒不變なれば、身語意業金剛と説いたのである。金剛は譬へである。是に三義あり、一には堅固不壞の義、二には寶中上の義、三には戰具中勝の義である。金剛は具には金剛杵と云ふ。金剛杵は印度上古の武器である、上古の戰爭は竹木瓦石骨片等を武器として闘つたものである。此の時代に金屬製の武器を執つて戰はゞ、對ふ所必ず敵なく、堅固にして破壞すべからざるものがあつたに違ひない。是れ金剛杵に堅固不壞の義あり、戰具中勝の義ある所以である。而して是の如き精鋭なる武器は彼等の為には最上の寶物であつたに違ひない、是れが寶中上の義ある所以である。現今法具の中に在る五股杵、三股杵、獨股杵等が上古の貴重なる武器を象つたものなることは誰も知悉する所である。今大日如來の身口意業は堅固不壞なること恰も金剛杵の如くなれば之に譬へたのである。

以上の五智は性德としては一切衆生本來之を具有せざる者なしと雖も、未だ修顯せざるが故に、長く生死の游泥に沈淪して、更に出期がないのである。之に反して此經能説の教主たる法身摩訶毘盧遮那如來は、已に此の本有性德の五智を修顯して、圓滿覺者の位を證得せられたるが故に、今や濟生利物の本誓に出でゝ、現に此の甚深般若の理趣を説法せられたのである。然るに中古の學者にして、此の五智の説段を唯本有門に約して説明し、之を以て我宗に於ける深祕の奧義と稱する者あり。是等の末釋は何れも邪流の僻説を混入したるものなれば斷じて排斥しなければならぬ。

毘盧遮那如來。とは能説の教主の別號である。毘盧遮那は梵語で、譯して光明遍照と云ひ。又は日の別名と云ふ。然るに世間の日は一邊を照して一邊を照さず、晝を照して夜を照さゞれども、如來は色身法身倶に法界に周遍して


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十方世界を悉く照耀するが故に大日と云ふ。如來は梵語にはタタギヤタと云ひ。譯して如來とも如來とも云ふ。如實の道に乘じて去て槃に入るが故に如去と云ひ、如實の道に乘じて來て衆生を化するが故に如來と云ふ。是に三身各別の解釋ありて、此説は應身の解釋なれども、法身も亦眞言密教を開演して、遠く未來機を化するが故に、此解釋を為すことを得るのである。

此大日如來に就いて、近來の學者は一般に誤解をしてゐるやうに思はる。或人は大日は宇宙を人格化したものであるとか、或は大日は宇宙の威靈であるとか、甚しきに至つてはユニテリアンの神と大日とは同一であるとか。種々の妄説を逞しうして居るけれども、是等は何れも佛教を根本的に研究せずして、只皮想的の臆説を發表したものに外ならないのである。抑も佛教は無我教であるから、人類に於ても宇宙に在りても神我の存在を許さないのである。神我とは常住、唯一、主宰の三義を具備せるものを云ふ。餘教に靈魂ありと説く、此の靈魂は常住であり、唯一であり、主宰者である。又宇宙に獨一眞神ありと云ふ。此の眞神も亦常住であり、唯一であり主宰である。而して佛教には彼の靈魂の如きものを内我と云ひ、眞神の如きものを外我と云ふ。而も此の内我外我倶に眞實に存在するものにあらず。之を實に存在すと信ずることは只愚人の迷信なりと説くのが、佛教の無我説である。釋尊がアラ、キヤラン仙人や、ウツタラ、マ子仙人の教理に滿足すること能はずして、諸仙の修道處を去られた所以は、彼等諸仙の解脱論が、凡て神我の存在を基調として組織せられたる宗教で、神我の獨存を以て究極の目的とし、之を以て生死解脱の眞道なりと、説くのであつたが、釋尊は若し神我なるものゝ存在を許さば、永久の解脱は絶對に期すべからずとて、遂に去て菩提樹下に趺坐し、深く無我の眞理を達觀して、明星出づる曉に、豁然と無師獨悟せられたのである。故に無我説は佛教


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の根本基礎である。然るに宇宙を人格化したものが大日如來であるとか、宇宙の威靈が大日如來であるとか云ふが如きは、約り宇宙に神我ありと云ふ外道の邪論に堕落したものである。然らば已成の大日如來とは何ものであるかと云はゞ、自心本具の佛性を開顯したる人を云ふのである。吾人も亦本有の毘盧遮那佛には相違ないけれども、未だ本有の佛性を開顯せざるが故に、假りに凡夫と名づけられてゐるが、若し一朝本有の佛性を修顯すれば、直に修生の毘盧遮那如來と成るのである。然らば此經能説の大日如來は誰人が本有の佛性を修顯したのであるかと云ふと、其れは一切義成就菩薩其人である。一切義成就の梵名はサラバシツタと云ふ。卽ち淨飯大王の御子、悉陀太子である。顯教では釋尊が報身盧遮那佛として説法せられたることは知つてゐても、釋尊が法身毘盧遮那佛として説法せられたことは知らないのである。密教は悉陀太子が毘盧遮那佛を契證せられて直に説法せられたことを信ずるものである。併しながら同じ密教でも台密では境本定身を立て、丈六の釋尊を本として佛身を論ずるが故に、毘盧遮那は釋尊所證の眞理なりと云ふ方面を力説し、東密一家は毘盧遮那佛を本として佛身を論ずるが故に、釋尊は毘盧遮那佛の所現であり、影像であると云ふ方面を力説するの異りがある。然れども佛身に固より二體ある譯ではない。以上教主成就了る。

在於欲界他化自在天王宮中、一切如來常所遊處吉祥稱歎大摩尼殿、種種間錯鈴鐸繒幡微風搖擊珠鬘瓔珞半滿月等而為莊嚴

此の五十二字は第四に住處成就である。文句には科して聞持の處を明すと云ふ。此中に二段あり、初より大摩尼殿までは正しく住處の體を舉げ、後に種種間錯の下は住處の莊嚴を明したのである。欲界とは倶舎論に「媱貪食貪故


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名欲界」とありて媱欲と食欲とのある世界と云ふ義である。他化自在天王宮中とは、欲界に六天ある中、第六天を他化自在天と云ふ。此天は他の劣天の變化せし樂具を奪つて自ら受用するが故に、他化自在と名づく。又は第六天の魔王とも云ふ。此經を説くに當り何故に欲界頂の他化自在天を擇んだかと云ふと、此の天は五欲殊勝にして諸天に超越せり。故に金剛薩埵の内證たる大樂大貪染の三摩地に相應するからである。一切如來とは五佛を云ふ。常所遊處とは五佛の正覺を成じて自受法樂し、又一切衆生の為に遊戲神變を現じて常恒に法輪を轉じ給ふ所である。吉祥稱歎とは『大日經疏』十二に依るに、内に衆善功德を具足して缺くることなきを吉祥と云ひ、一切の善を具するが故に大衆の為に稱美讃歎せらるゝを稱歎と云ふ。大摩尼殿とは周遍法界の故に大と云ふ、摩尼は如意寶珠の梵名である。此の宮殿は如意寶珠を以て造成せられたるが故に摩尼殿と云ふ。『釋經』には此宮殿を釋して「大日如來の福德資糧より出生せる、大妙金剛五寶(水精、瑪腦、摩尼、琥珀、瑠璃)所成の金剛寶樓閣にして、其の曼荼羅は四方に八柱ありて列れり、八位に四門ありて中央は毘盧遮那遍照如來、内證の智解脱是れなり。八位は後に當に説くべし」と云へり。此意は中央に教主大日如來の座位ありて、四方四隅の八位には眷屬たる八大菩薩の座位を置くものにして、卽ち此經能説の曼荼羅である。『存公記』に曰く、「此宮殿は實には法爾所成なり。而も法身の土に隨緣顯現の義あるが故に、福德資糧出生と云ふ。大妙金剛等とは、是れ則ち所謂、瑜祇塔なり。上に五峰あるは是れ金剛界の五智を表し、下に八柱ありて列れるは卽ち胎藏の八葉を表す。金胎兩部不二の深旨之を察せよ」と云へり。此の一段に含まれたる兩部不二の深旨は實に此經の骨目とする所である。

種種間錯の下は住處の莊嚴を明す。種種間錯とは衆色交映する義なり。鈴鐸等の莊嚴の具が相互に間雜し交映する


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を云ふのである・『教王經疏』に「三十七智の妙用交接するが故に種種間錯と云ふ」と釋あり。鈴鐸とは小なるを鈴と云ひ、大なるを鐸と云ふ。繒幡とは繒は色絹である。五色の彩帛を以て造りたる幡を繒幡と云ふ。微風搖撃とは微風鈴鐸を動かして和雅の音を出し、繒幡を撃て飄颻せしむるを云ふ。『教王經疏』に「鈴鐸は昏情を驚發す、是れ慈悲の義なり。繒幡は流動去來す、是れ智用を表示す。若し機發することあらば感應道交す、故に微風搖撃と云ふ」と釋せり。珠鬘瓔珞とは珠鬘は種種の珠玉を貫いて鬘と為したるもの、瓔珞は頸の飾である。又清凉の釋に「頸に在るを瓔と曰ひ、身に在るを珞と曰ふ、珞は以て衣に持し、瓔は以て冠に繋く」ともあれば、瓔と珞とは用ふる所異なるが如し。半滿月とは半月形の物や、滿月形の物を云ふ。皆珠玉を以て製作したる莊嚴具である。等とは鈴鐸等の外に尚、五部の諸尊の三昧耶形、其數無量なれば等と云ふ。是等の莊嚴具を以て彼の五峰八柱の寶樓閣を莊嚴するが故に、而為莊嚴と云ふ。『祕要鈔』に曰く「或傳に云ふ此經に列ぬる所の莊嚴具は五部の諸尊の三昧耶形を表す。初の鈴鐸は中央佛部の三昧耶形である。鈴も鐸も倶に塔形にして塔は大日如來の三昧耶形なるが故に。繒幡は東方金剛部の三摩耶形である。幢旗を以て發菩提心に譬ふるが故に。珠鬘瓔珞は南方寶部の三摩耶形である。南方は寶珠を以て體とするが故に。半月は西方法部の三昧耶形である、西方は金の精、金は風の精、風大は半月形なるが故に。滿月は北方羯磨部の三摩耶形である。滿月は圓形であり、北方は水の方、水大は圓形なるが故に。又息災の圓壇は北方に向つて之を修す。又北方の拳菩薩は滿月を持す。是れ表示である」。と之を要するに五智五佛の功德を以て大日如來の法界塔婆を莊嚴したる相を云ふのである。住處成願の一段了る

與八十俱胝菩薩衆俱、所謂金剛手菩薩摩訶薩、觀自在菩薩摩訶薩、虛空藏菩薩摩訶薩、金剛拳菩薩摩訶薩、文


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殊師利菩薩摩訶薩、纔發心轉法輪菩薩摩訶薩、虛空庫菩薩摩訶薩、摧一切魔菩薩摩訶薩、與如是等大菩薩衆、恭敬圍繞

以上の九十二字は五成就の中、第五に眷屬成就である。文句には科して聞持の伴を明すと云ふ。此の中に三段あり、初に數を舉げて類を標す。次に所謂の下、名を列ね。後に與如是等の下、總じて威儀を結す。八十倶胝菩薩衆とは、大日如來の四方四隅の八方各各十倶胝の菩薩衆ありて、教主大日如來を恭敬して圍繞し奉るのである。倶胝は梵語で、此に譯して億と云ふ。印度には十萬を一洛叉と云ひ、十洛叉を一度洛叉と云ひ、十度洛叉を一倶胝と云ふ。故に十倶胝は一億に當る。今の文に八十倶胝とあれば八億である。是に異説あれども今は倶舎論第十二の説に依る。所謂の下は次に列名である。其中、金剛手、觀自在、虛空藏、金剛拳の四菩薩は正方の四菩薩にして、次の如く東西南北に居す、是れは對方の次第である。次に文殊、轉法輪、虛空庫、摧一切魔の四菩薩は四隅の菩薩にして、次の如く東南、西南、西北、東北に居す。是れは順轉の次第である。

金剛手菩薩摩訶薩は、一切如來の大菩提心の德を主どる、故に我等一切衆生が菩提心を發すは皆此菩薩の加持力に依るのである。『釋經』に「此菩薩は本是れ普賢菩薩なり、毘盧遮那佛より二手の掌に親り五智の金剛杵を受け(卽ち灌頂を與へられたれば之を名づけて金剛手と為す」と云へり。此の菩薩の内證三摩地は下の第三段釋迦牟尼如來の章に明してある。

觀自在菩薩摩訶薩は一切如來の大悲の德を主どる故に我等衆生が大悲心を修養することは此の菩薩の加持力に依るのである。『釋經』に「一切如來の大悲を表す、六趣に隨緣して一切有情の生死雜染の苦惱を拔濟す」と云ふ。此菩薩


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の内證三摩地は下の第四段清淨法性如來の章に明してある。

虛空藏菩薩摩訶薩は一切如來の福智の二德を主どる。故に眞言行者が菩提の資糧たる福德智慧を修し聚むることは、此の菩薩の加持力に由るのである。此の菩薩の内證三摩地は下の第五段、一切三界主如來の章に明してある。

金剛拳菩薩摩訶薩は一切如來の三密の業用を主どるが故に、眞言行者が法身三密の教法を修して、世出世間の殊勝の悉地を獲得し、又一切衆生をして無始以來の惡業煩惱を淨除せしめ、所化の意願を悉く圓滿せしむるもの皆此の菩薩の加持力に由るのである。此菩薩の内證三摩地は下の第六段一切如來智印如來の章に明してある。

文殊師利菩薩摩訶薩は一切如來の智德を主るが故に、行者が般若の慧劍を以て、煩惱妄想の戲論を斷破し、諸法實相の眞理を照見することは皆此の菩薩の加持力に依るのである。此の菩薩の内證三摩地は、下の第七段無戲論如來の章に明してある。

纔發心轉法輪菩薩摩訶薩は一切如來の四種の曼荼羅を主るが故に、行者が四種曼荼羅に入つて、速に大菩提を成ずることを得るは、皆此菩薩の加持力に由るのである。此菩薩は祖祖相傳の口決に依りて彌勒菩薩と同體の尊と傳ふるのである。此菩薩の内證三摩地は下の第八段入大輪如來の章に明してある。

虛空庫菩薩摩訶薩は一切如來の廣大なる供養の儀式を主るが故に、行者が一念の頃に於て十方諸佛の淨土に往詣して雲の如く海の如き廣大なる供養物を捧げて諸佛菩薩に奉献し。又無緣の大悲を起して種種の法財を以て、一切衆生に供養して諸の苦厄を拔濟し、利他の功德と成就するのは、皆此の菩薩の加持力に由るのである。此の菩薩と前の虛空藏との相違は『理趣分疏』には前は財施是は法施の異りなりと云へり。然れども『釋經』の意は則ち然らず、前は體に約


頁三五
し、此は用に約するの異りと見るのである。故に『釋經』に前の虛空藏を釋して「一切如來眞如恒沙の功德、福智の資糧」と云ひ、此菩薩を釋して「一切如來の廣大なる供養の儀を表す」と云ふてある。此菩薩の内證三摩地は下の第九段廣大儀式如來の章に明してある。

摧一切魔菩薩摩訶薩は一切如來の降魔の德を主どるが故に、行者が因位の修業の時には諸の障難を排除し、又正覺を成する時には天魔等の難調伏の有情を摧伏して、佛化を受けしめ無上菩提に到らしむるものは、皆此の菩薩の加持力に依るのである。此菩薩の内證三摩地は下の第十段能調持智拳如來の章に明してある。

以上の八大菩薩は八十倶胝の菩薩衆の上首であるが、是れは金剛界の十六大菩薩中より選び出したるものにて、之を圖示すれば左の如くである。

東方阿閦佛の四親近
金剛薩埵 金剛手菩薩 第三段の釋迦牟尼如來
金剛王
金剛愛
金剛喜
南方寶生佛の四親近
金剛寶 虛空藏菩薩 第五段の一切三界主如來
金剛光
金剛幢
金剛咲
西方阿彌陀佛の四親近
金剛法 觀自在菩薩 第四度の得自性清淨法性如來
金剛利 文殊師利菩薩 第七段の一切無戲論如來
金剛因 纔發心轉法輪菩薩 第八段の入大輪如來
金剛語


頁三六
北方不空成就佛の四親近
金剛業 虛空庫菩薩 第九段の廣大儀式如來
金剛護
金剛牙 摧一切魔菩薩 第十段の能調持智拳如來
金剛拳 金剛拳 第六段の一切如來智印如來

此の八大菩薩の選出方に就いて種々の異説あれども、元來十六大菩薩は悉く大日如來の功德差別を顯はしたるものなれば、何れの尊を舉げても苦しからず。局執すべからずと云ふ『稟承錄』の説が最も穩當である。

與如是等大菩薩衆恭敬圍繞。とは總して眷屬の威儀を結ぶのである。『存公記』に曰く「與の字は為と訓ず、去聲なり」。『秘要鈔』に上文の與字に同じく「彼此相望の義と為すは非なり」と云へり。今之に從ふ。如是とは上に列ぬる所の八大菩薩幷に八十倶胝の菩薩衆を指し、等とは四攝八供養等の諸菩薩を等取したのである。大菩薩衆とは『理趣分疏』に「言ふ所の大とは略して四義あり一には數大なり、八百萬の菩薩集會して法を聽くが故に、二には德大なり、皆持等の諸の大功德を具するが故に。三には業大なり、大菩薩は妙辯才を具して説法利生するが故に。四には名大なり、金剛手等の如きは十地を滿足せる名なるが故に」と云へり。恭敬圍繞とは『法花玄賛』に「周廻するを圍と云ひ、坐匝するを繞と云ふ」と釋してある。又『理趣分疏』に「衆星の朗月に共ふが如く、群山の妙高を轉るが如く、衆梵の梵王を繞るが如く、諸天の天帝を圍むに似たり」と云つてある。『愚解抄』に曰く「宴に夫れ衆ありて主を敬せずんば誰か教主を信じ誰か説法を求めん、是の故に五成就の中には「衆成就の句を最も至要と為す」と。以上眷屬成就の一段了る。



勝鬘經
第三回
文學博士
常盤大定


頁二三
六、無邊聖諦章

世尊よ。聲聞、緣覺初觀の聖諦は、未だ無明住地を斷ぜざるを以て究竟ならず。獨り如來のみ、第一義智あり、以て一切煩惱を斷じ、初めて聖諦を覺知し、世間の為に開現し、演説し給ふ。

聖諦とは苦、集、滅、道の四諦をいふ。その中、苦集は、過去の煩惱の業力(集)によつて現在の苦果(苦)を形成して流轉輪廻してゐる事をいふのであるから、現實生命の説明原理である。滅道は、流轉の生活を解説して理想界(滅)に達せんが為に、正しき道を步まねばならぬ(道)事をいふのであるから、理想實現の原理である。聲聞、緣覺は、この四諦の道理を觀じて、四惑を斷ずるも、未だ無明住地を斷じ盡すことが出來ないから究竟したものとは云へない。未究竟なるを以て、有作智を以て有作の四諦を觀ずと稱せられる。これを經に初觀の聖諦と云ふのである。換言せば二乘は人空無漏智によりて實我の執着を破し、三界の流轉を脱する意味に於て、我生已盡等を許し得るが、法空智未だ開發せざる故に、無明住地を破し得たとはいへぬ。卽ち第一義智が現前しないのである。獨り如來のみ、人法二空を照す所の不思議第一義智によつて、眞理を觀ずる故に聖義初めてこゝに圓滿するのである。因つて未究竟二乘の聖諦智は、究竟一乘の聖諦智に歸すべきである。

然からば一乗究竟の聖諦の體如何。是れ衆生本具の如來藏なりと開顯するのが、次の如來藏章である。

七、如來藏章


頁二四
聖諦とは如來藏を説くに名く。如來藏は微細難知にして、思量の境界に非ず。二乘の所知に非ず。唯、如來のみの境界なり。

此れ聖諦の體なる如來藏は、然か然かであると聞くことや、概念的な推論や、世間一般の修業の結果に得られるものではない。知られる如來藏と知る主觀と一體なる、認識以前の絶對認識の世界卽ち佛の眞證智の世界に於てのみ顯はるゝ事をいふのである。されば、二乘は信じて知らず、菩薩は知つて未だ見ず、唯、佛のみ則ち知見了了と云はれるのである。此の難知難見の如來藏とは、煩惱に隱覆せられてゐるによつて名けたのであるが、煩惱を出たのを法身と稱す。聖諦は、此の如來藏に就いて説いたものであるから、法身と如來藏に對して疑惑せざるものは、聖締に有作、無作の二あることを信解すべしと云ひ、經には次の如く説いてある。

何をか二の聖諦となす。作と無作となり。作とは是れ有量の四諦、無作とは是れ無量の四諦なり。故に生死にも有為と無為とあり。槃にす有餘と無餘とあり。

有作の四諦とは、外界の事相卽ち現象に因つて觀ずるので、現象の世界に止まる限り、それは有量である。無作の四諦とは、自己本具の理、卽ち本體上に觀ずるもので、本體にありては、一念に多念を、一に一切を具する故に、無量である。論理的智識にては、神祕的に考へられて、認識の對象になり得ない故に、經には已に微細難知と説いてあるのである。已に述べた如く、二乘は分段生死を斷ずるが、變易生死を未だ斷じ得ない。前者は有為の生死であり、それを滅するを有餘槃と云ひ、無為生死、無餘槃は後者のそれに就いてゞある。かくて經は、佛のみ無作の四諦を證すと明してゐる。


頁二五
獨り如來のみ、無作の聖諦に於て究竟し給ふ。二乘は未だ究竟せず。無始、無作、無起、無盡、離盡、常住、自性清淨にして、一切の煩惱藏を離るゝを、初めて眞の苦滅と名くべし。

八、法身章

世尊、不思議の佛法成就せるを法身と名づく。此の法身未だ煩惱藏を離れざるを如來藏と名く。世尊、如來藏は一切の阿羅漢、辟支佛、大力の菩薩も、もと見ざるところ、もと得ざるところなり。

法身章は、如來藏と法身との一體異名なることを述べ、法身を完全に見得するは、唯佛のみと明してある。槃經智度論等に、佛及び菩薩の見ることを得るを説いてゐるのは、菩薩が一分これを見ることが出來るからなのである。

九、空義隱覆眞實章

此の如來藏法身は、常、樂、我、淨の德あるものである。然かるに、從來、佛が四不顛倒、卽ち空、苦、無常、無我等の小乘の教義のみを説いて、衆生本具の如來藏を説かざりしは、何故かといふに、それは二乘を調練して、漸次一乘道に會入せしめんが為めの善巧方便に他なかつたのであるとて、經は二種の如來藏を説いてゐる。

世尊、如來藏空智あり。空如來藏は若しは離、若しは脱なる、一切煩惱藏なり。不空如來藏は、不離、不脱なる不思議の佛法なり。二乘の空智は、四不顛例の境界に於て轉ず。是の故に如來藏空智は一切の阿羅漢、辟支佛のもと見ざるところ、もと得ざるとこなり。


頁二六
空如來藏とは、消極的に考察したのであつて、一切の虛妄分別を超絶してゐる意味である。認識論的に見れば、眞如如來藏は、主客分別以前の絶對一如の世界である。隨つて吾人の分別を離れてゐるところを空と稱する。若し又論理的に見れば夢の無體を無體と覺せざるところに虛妄が存在する。眞如如來藏は無體虛妄に相應せざる有體眞實の不思議界である。虛妄に相應せざる義を以て究を又空と云ふのである。次に不空如來藏とは、積極的に考察したものであつて、虛妄を除去することによつて顯はる、常、樂、我、淨の眞如界である。それは恒沙の性功德を具し、如來の眞智に證せられる故に、不空と云つたのである。空、不空もとより二體あることなく、一體上の二義である。此の如來藏性海を、四聖諦に於て見れば、まさしく滅諦である。何んとならば、他の三諦は有為生滅の相であるからである。此の意味を開顯したのが、次の一諦章である。

十、一諦章

世尊、四聖諦の中、三は有為の相に入る。有為の相に入るものは無常なり。無常なるものは虛妄なり。虛妄なるものは諦にあらず、常にあらず、依にあらず、第一義諦にあらず。獨り滅諦のみ、有為の相を離る。故に常なり、虛妄にあらず、諦なり、依なり、第一義諦なり。

佛教では、世界を分けて

有為──萬法──生滅──無常──現象──妄、
無為──眞如──不生滅──常住──本體──眞、


頁二七
と云ふのであつて、大乘中の實大乘、卽ち一乘では、眞如無為を如實に知らざる無明妄法の緣によつて、現象界が生起すると云ふのである。其の生起したのが、有為法である。苦、集、道、の三諦は、現象界に屬するものであつて、完全に無明妄法を斷じ盡した滅諦のみ、眞實界であると云ふのが今の意味である。然かも此の滅諦は虛無の世界ではない。煩惱を滅する故に、滅諦と云つたが、空、不空如來藏に於て明した如く、無限に豊富な内容がある。然かもそれは如來の内容であつて、凡夫二乘の内容で無い。經に之を明していふ、

世尊、是の滅諦は、凡夫の心識の所緣に過ぎ、また二乘の智慧の境界にもあらず。凡夫識は二見顛倒なり、二乘智と第一義智にあらず。我見妄想より、諸行の無常を見るは斷見なり、槃の常を見るは常見にして、共に正見にあらず。

十一、一依章

世尊、一切阿羅漢、辟支佛の淨智と、彼の滅諦に於ては、なほ境界にあらず、況んや四依智をや。四依は世間の法なり。一依は一切依の上にあり。出世間上々なり。第一義依は所謂滅諦なり。

十二、顛倒眞實章

世尊、生死とは如來藏に依る。如來藏あるが故に、生死を説く。然かるに如來藏は、常住不變にして有為の相を離る。是れ依たり、是れ持たり。世尊、如來藏なくんば、苦を厭ひ、槃を樂求することを得ず。是れ身見に堕する


頁二八
衆生と、顛倒の衆生と、空亂意の衆生との境界にあらず。

これ、顛倒とは生死、眞實とは如來藏なることを示し、而して顛倒の生死が、如來藏を依として存在することを示したのである。起信論には、如來藏に依るが故に生滅の心あり、と云つてある。依ると云ふことは、生死と如來藏との別體でないことを示すのである。已に述べた如く、無明は無體なものである。無體なものであるから、獨立して存在することが出來ない。故に如來藏に依止して作用をしてゐる。その姿が、生死流轉の有樣である。然し如來藏自體は、經にある如く、常住不變なものである。それが無明の風を緣として、千波万浪を捲き起すのであるから、法身五道に流轉するを名けて衆生と云ふ。故に衆生心中、本來如來藏を具有してゐるのである。此れを經には持と云つてゐる。然かるに生死大海の千波萬浪は湛然たる眞如如來藏が體を舉げて動じたものであるから、波の外に水なく、水の外に波なく、萬法卽眞如、眞如卽萬法で、靜動一如なれば、如來藏の常住不變と云ふも、概念的な常でなく、靜動一如、唯佛所談の常なれば、不思議常と云ふべきである。隨つて、槃と聞いて法を斷滅し、空寂の世界を思惟するが如き空亂意の衆生の對境とは到底なり得ないものである。

十三、自性清淨章

世尊、自性清淨如來藏は、客塵煩惱の染むる所とならんも、不可思議の如來の境界なり。

已に自性清淨と云ふ以上、客塵煩惱の為め染め汚さるべきではない。然かるに煩惱中に藏せられてゐると云ふからには、汚されないとも云へない。是れは極はめて微妙な問題である。故に勝鬘は佛のみよくこれを了知すと云ふ。


頁二九
世尊、刹那の善心、不善心は、煩惱の所染にあらず。何を以ての故に、煩惱は心に觸れず、心は煩惱に觸れず。

刹那の善心が煩惱に染められないのは、理解し易いことであるが、不善心が染められないとは、如何なることであるか。吾々はその理由とせらるゝ、煩惱は心に觸れず、心は煩惱に觸れずと云ふことゝ、不善心なるものを考察することによつて、如來藏の自性清淨と云ふことを、愈々明瞭にする事が出來る。不善心は、現はれた時初めて染められるのでなく、初めから染つてゐるものである。故に自性清淨なる本性と、不善心とは、一應は別物である。佛教では物を考察するに體、相、用と分けて見る。而して染、不染の如きは相に就いての觀察である。例せば白布を黑色に染めたとするとき染められたとは云ひうるが、布の本性が變化したとは云へない。故に不善心も、相用の上より云へば、染められたものであるが、其の體は依然として自性清淨である。卽ち心の本性は煩惱に觸れず、煩惱は心の本性に觸れずである。湛々たる水が無明の風緣によつて、千波萬浪の相を呈する意味に於て無明の風に染められてゐるが、波浪そのまゝが水であつて、體に何等の變化はない、卽ち自性清淨である。然かるに已に述べた如く、如來藏の常住不變は、身見の衆生、顛倒の衆生、空亂意の衆生の境界ではない、況んや、不染にして染、染にして不染なる今の場合に於てをやである。故に經には

世尊、自性清淨にして、而も染あることは、了知すること難し。唯佛のみ實眼と實智とをもつて、實の如く知見し給ふ。

勝鬘夫人が、是の難解の法を説き終ると、佛は大いに褒め給ひて、次の如く告げられた。

是の如し、是の如し。げに自性清淨心は了知し難く、この心の煩惱に染せらるゝ事も、また了知し難し。之を信ず


頁三〇
るものは、汝及菩薩のみ。他の聲聞は唯佛語を信ずるのみ。

十四、如來眞子章

此の章は、最後に、勝鬘が佛意を得て大乘道に入るべき人に就いて説いたのである。

世尊、三種の善男子善女人あり。自ら甚深の法智を成就するものは大乘道に入り、隨順の法智を成就するものは大功德を生じ、自ら了知せざるも、仰いで如來を推すものは自の毀傷を離る。諸の餘の衆生の、妄説に堅著し、正法に違背するものは、當に王力及び大龍鬼神の力を以て調伏すべし。

爾の時、佛言はく

善い哉、善い哉、勝鬘、甚深の法に於て當に汝の所説の如し。本經に於ける修道の階級を見るに、右の文によれば甚深法智、隨順法智、仰推智の三に分けられてゐる。仰推智を詳しくせば、隨信と信増上とに分たれ、これを信忍と云ひうるのである。聖德太子は、これを菩薩十地の階級に配當し、隨信は地前、信増上は初・ニ・三地、隨順法智、卽ち順忍は、四・五・六・七地、甚深法智、卽ち無生法忍は、八地巳上とせられてゐる。而して信忍は先づ佛語を信じ、順忍は是れを理解し、實行するのである。隨つて信、順二忍は大乘道に入るの因であつて、八地巳上に於て、遂に大乘道に入るのである。

かく勝鬘の所説已に終りたれば、釋尊は勝光明を放ち、普く大衆を照し、身は遙かの虛空中に昇り、足亦虛空を步みて祇園精舎へ還り給うた。かくて正宗分は終つたのである。


頁三一
流通分(結詞)

勝鬘及び大衆は、釋尊を御見送り申し、踊躍し、歡喜し、各各佛德を嘆じ、佛を念じ、城中に入りて友稱王に向ひ大乘を讃嘆したので、城中のものは國をあげて、老若男女、悉く大乘に向うた。他方、佛は祇園に於て、此の經を帝釋及阿難に付屬し、以て天上と人界とに流通せしむべきを命ぜられた。時に、天帝釋、長老阿難を初一切の有情は佛の所説を聞いて歡喜奉行し、かくて經全體が終るのである。

右の如く、經の内容を觀察して、最後に諸大乘經との接觸を見るに、三乘を以て畢竟一乘に歸すべきを説き、以て一切の佛教を一佛乘に攝受せるところに、法華經の會三歸一の開會の精神が見える。また如來藏に依るを以て生死ありとし、不染にして染、染にして不染の不思議を説くところに、華嚴、楞伽、起信等を想起せしむべきものがある、法身の常住を以て終局の理想となし、これを常、樂、我、淨の四德を以て明せる所に槃經との接觸を思はしめる。經全體の構想より見れば、大乘佛教が出家の手より在家者の手に移れる時代のものとして、維摩と不離な關係がある斯くて、此經は法華、華嚴、涅槃、維摩等の諸大乘經と接觸を有し、當時盛大なりし小乘論部に對抗したものであり、楞伽經等の先驅をなしたものである。

經中一の菩薩名も見えぬのは、大に他の大乘經と異るが、こは菩薩思想が普遍した時代の表現であつて、理想を寓せしめた名目上の菩薩よりも、寧ろ大乘の精神を現實の人間に求めたものであると考へられるのである。(完)



日本佛教史
第二回
史料編纂官補
東洋大學教授
藤原猶雪


頁一七
第二節 戊午歲渡來說と日本書紀

戊午歲佛教渡來の説には四つの文献があつた。而して其中の三國佛法傳通緣起に引く審律の記が、天皇の御名を舉げずに戊午歲とあるを除いて、他の三書には何れも戊午歲は欽明天皇の御字なることを示し、殊に元興寺緣起流記資財帳の如きは欽明七年戊午とあつて、戊午歲は欽明天皇御字の七年に當る事を明記して居る。然るに我が官撰の正史である日本書紀には、欽明天皇御治世中に于支戊午に當る歲なく、欽明朝は庚申元年より辛卯卅二年に亘り戊午歲は先帝宣化天皇の末年卽ち天皇の三年となつて、欽明天皇の七年は實に丙寅歲となつて居る。されば紀年の上に於て日本書紀が正しいか、其とも法皇帝説等の四書が眞實を示すかを剖檢しなくてはならぬ。嘗つて故平子尚氏は繼體紀の錯簡に就て論攻されて、本題に對し頗る有力なる考證を遺されて居るから、今この研究法を參酌して之を釋明することにしやう。

先づ書紀の記載事項と其體裁を一瞥するに、繼體天皇六年紀の十二月に百濟から使を遣して貢調した時、別に表を上つて上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁の四縣の割讓を請ふや、哆唎の國守穗積臣押山は割讓の可なるを奏上し、又大伴大連金村も之に同意し遂に之を割與することに決した。この時物部大連麁鹿火は妻の諌によつて割讓の勅使たることを辭し、又皇太子勾大兄皇子卽ち彼の安閑天皇は此議に與らせ給はず、後に之を知ろしめして驚き悔ませ給ひ條約の改訂を百濟の使に望ませられたが、使は已に勅あるを今更變ずるのは違勅の罪あるを強辨して、終に之を獲得するに至つたことが見えて居る。因に時人は之を評して押出と金村とが百濟から收賂した為に、事茲に至らしめたと傳へて


頁一八
居る。而して又、七年六月にも百濟は穗積押山の歸國にのぞみ、二將軍を遣して五經博士段揚爾を貢し、別に奏して己汶の地は元と百濟に賜ふ所であつたから、伴跛國に與へずして我に割與せんことを乞ふや、言の如く己汶並に帶沙は百濟の有に歸した。然るに帶沙の地は已に神功天皇紀に為二往還路驛一とある如く、我國から朝鮮へ渡航する要津なることは、廿三年紀に百濟王と伽羅王とが共に為臣朝貢津路(百)為臣朝貢津涉(伽)と云へるより見ても明瞭である。されば之を自國の所屬とするか否かによりて、非常に利害があつたものと考へられる。故に己汶帶沙を百濟に割與の月伴跛國よりも珍寶を献じ、己汶の地を請ふて居る。然るに彼には與へられなかつたから、恐らく百濟と伴跛とが帶沙を競望して遂に百濟の勝を制することゝなつたものであらう。茲に於てか土地割讓の失政に次で任那諸邦の悔を買ひ、我國政の緊縮を要するに至つたことは、七年紀十二月詔して勾大兄皇太子卽ち後の宣化天皇をして、攝政に任ぜしめ給へるによりても想察するに餘りあることである。越えて八年紀の三月、伴跛國は子呑帶沙に城を築きて漏奚に連ね、烽候邸閣を置き以つて日本に備ふとある。次で九年二月には百濟の使歸るにのぞみ、物部連同行して沙都島に到るや、伴跛人の先に割與されなかつた怨を懷いて報復せんことを傳聞し、物部連は舟師五百を率ひて帶沙江に難を避け、百濟の使は新羅より迂廻して百濟に歸つて居る。而して物部等は帶沙に停ること六日であつたが、遂に伴跛人に襲はれ身を以つて紋慕羅島に退くとある。次で十五年五月物部は百濟に迎へられて大に勞を受け、九月百濟の使臣に送られて歸朝した。この時百濟は己汶割讓の恩を謝し、別に五經博士を貢して前の博士と交替して居る。

此の如く六年より十年にかけての記事は、土地割讓の問題が滿載されて國家頗る多事なるに拘らず、以下は突如として記事が闕けて居る。卽ち十一年紀は全くなく、十二年紀は遷都の一事あるのみ。十三、十四、十五、十六の四個


頁一九
年紀は何れも記事全く闕如し、十七年紀は百濟王の薨去、十八年紀は同太子卽位の各一事項あるのみ、而して又十九年紀も全闕廿年紀も遷都の一事あるのみに過ぎない。但しこの選都も「一本云七年也」の註あるより見れば、或は全く記事を闕くかも知れない。されば十一年より廿年に至る十年間は殆ど記事なしと云ふことが出來る位である。

かくて廿一年紀に入り、夏六月近江毛野臣をして六萬の兵を率ひて任那に往かしめ、新羅に破られた南加羅、喙、巳呑の三地を回復し、之を任那に合せしめんとした。然るに築紫の國造磐井は新羅の貨賂を受けて叛逆を企て、外は來貢の船を誘致し、内は毛野の派遣軍を遮るや、物部大連麁鹿火を征賊の將として對抗せしむることゝなつた。而して廿二年紀には十一月遂に物部の軍に磐井の斬らるゝことが見えて居る。次で廿三年紀に入れば三月に百濟王は下哆唎の國府穗積押山臣をして伽羅の多沙津割與を請はしめ、遂に之を得るや、伽羅王は之を肯じなかつたが、已に割讓の事後であつたから如何ともすることが出來ず、その餘憤は新羅と結んで日本を怨むことゝなつた。而して又伽羅王は新羅の王女と結婚して兒息を舉げたことも見えて居る。

以上書紀に傳ふる記載事項配列の順序等に就て考察するに、先づ第一に多沙の津を百濟に割讓することは、已に七年紀に出でゝは三年紀と重複するが如きは、恐らく其何れかゞ記事の位置を轉じて分載されたものと考へられる。然るに七年紀の割與により八年紀に伴跛國の對抗運動があり、九年紀には伴跛人の報復があり、十年紀には百濟より土地割讓の答禮使が來朝せる点から見ても、七年紀の方が正しいように想はれる。殊に七年紀に見ゆる百濟の要求は己汶の地だけなるに對し、同年の割與地は前記の如く己汶と帯沙との二地になつて居る。これは恐らく帶沙も百濟の要求にかゝるもので、宛も今の廿三年紀に見ゆる多沙の津はそれである。されば何等かの錯誤より二つの要求が別々に


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なつて、位置を替へたものと想はれる。この考察にして正當なれば廿三年記のこの部分は、十六年以前なる七年紀に遡るべきことゝなる。加之ず其他の廿三年紀に見ゆる事項、卽ち伽羅王と新羅王女との結婚は、三國史記所收の新羅本紀に「壬寅春三月加耶(伽羅)國王遣使請婚、王以伊湌比助夫之妹送」とあるものが史實を傳ふるものなりせば、書紀に見ゆる廿三年紀己酉には非ずして、是より十三年前の壬寅十六年紀の出來事と見なくてはならぬ。更らに前記廿年記の遷都を一本により七年紀と見れば、其所に十三年を遡ることゝなる。

かくて我が繼體天皇紀は全體として書紀の廿五年間よりは縮少されるやうに想案される。されば其決疑は一に天皇崩御の年紀如何にかゝるが、書紀には「廿五年(辛亥)春二月、天皇病甚、丁未(七日)、天皇崩予磐余玉穗宮、時年八十二、冬十二月丙甲朔庚子、葬于藍野陵」と明記されて、廿五年の崩御になつて居る。然るに眞福寺本古事記には「丁未年四月九日崩也」とあつて、丁未歲は廿一年である。されば書紀の廿五年二月の日附を示す丁未は眞福寺本古事記の年を示す丁未が誤られたものではなかろうか。かく考へて見ると、繼體紀は廿一年紀を以て終るべきことゝなる。而して之を決定するには書紀に謂ゆる廿五年崩御説の價値如何が、この裁斷に有力なる意義を齎らすと思ふ。然れば書紀は如何なる根據によつて廿五年崩御の説を立てたであらうか。幸にも註に「或本云、天皇廿八年歲次甲申崩、而此云廿五年歲次辛亥崩者、取百濟本紀為文」とあつて、全く百濟本紀によつたことが知れ、其原文も引載されて居る。卽ち「其文云、太歲辛亥三月、帥進至于安羅、營乞乇城、是月、高麗弒其王安、久聞、日本天皇及太子皇子俱崩薨、由此而言、辛亥之歲、尚廿五年矣、後勘校者知之也」とある。而して茲に意を注ぐべきは、崩御の當時皇子も同じく薨ぜさせ給ふと云ふ記事である。今繼體天皇紀を案ずるに、何處にも皇子の同時薨逝の史實を傳へず、又百濟本紀の辛亥


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廿五年説は巳に前掲眞福寺本古事紀の丁未廿一年説に異なるより見ても、繼體天皇以後の崩時に於ける史實を誤り傳へたものではなからうかと想像される。先づ次の安閑天皇紀を見るに、元年三月の條に皇后の外、別に三妃を立て、十月天皇は「朕納四妻至今無嗣、萬歲之後朕名絶無」と嘆じ給へるより見ても、皇子を得させ給はざりしものゝやうに想へるから、百濟本紀の所傳に契當しない。然るに次の宣化天皇には四年二月の條に「甲午(十日)、天皇崩于檜隈盧入野宮、時年七十三、冬十一月庚戊朔、丙寅(十六日)、葬天皇于大倭國身狹花鳥坂上陵、以皇后橘(仲脱力)皇女及其孺子合葬于是陵」とあつて、更らに註して「皇后崩年傳記無載、孺子者蓋未成人前薨歟」とある。これ宛も百濟本紀の文に酷似し、本記の所傳は宣化天皇の崩御を示すもので書紀は之を繼體天皇に誤り傳へたか、或は元と本紀に之が誤傳されて、書紀は其誤を踏襲したものと考ふべきであると思ふ。

此の如く考察する時は書紀の繼體天皇紀は廿一年で終り、安閑天皇は書紀に徵するに二年間なれば、書紀の繼體天皇廿二、廿三の兩年と見ることが出來、宣化天皇紀は書紀には四年間あるに拘らず、前掲百濟本紀合葬の史實によりて書紀の繼體廿五年辛亥の崩御とする時は書記の繼體天皇廿四廿五の兩年に短縮されることゝなる。而して書紀の宣化天皇紀を見るに、第一第二の兩年には記事あれど、第三年には全くなく、第四年は單に崩御の一事のみであるから其所に何等かの誤があるやうに感ぜられて、書紀の繼體天皇紀廿五年間を以て繼體安閑宣化三天皇の御字とすべきものゝやうに想へる。而して書紀に繼體天皇紀と安閑天皇紀との間に空位二年を置くことも全く錯誤であることが、安閑宣化兩帝の崩年及其治年より明瞭となつた。されば次の欽明天皇は正に書紀の繼體天皇廿六年壬子を元年として天下を知ろしめすことになる。これ果して史實に復原するものであらうか。この年紀繰上げの正しかるべき徵證として


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は、上掲の外更に書紀に見ゆる御父繼體天皇と御子安閑宣化欽明三天皇との年齡的關係が之を暗示して居ると思ふ。卽ち書紀には父帝の崩御を八十二歲とし、安閑帝七十歲、宣化帝七十三歲の何れも崩御と記して居る。これによれば安閑天皇は御父繼體天皇の十六歲、宣化天皇は同じく父帝の十八歲の時の御出誕となる。而して欽明天皇は其寶算紀記兩史に見へず、一代要記と皇年代略記は六十三、皇代記・簾中抄・紀運錄・正統錄等には六十二とあるから、假に六十二歲説を採るも、御父繼體天皇七十歲の御出誕とある。されば安閑宣化兩帝の御出生は父帝餘りに御若年に失し、欽明帝のそれは反對に餘りに御老年に失するより見るも、此間に紀年の改訂さるべき可能性が潜んで居ることが知れる。殊に欽明天皇卽位前記に收むる宣化四年冬十月宣化帝崩御により皇位繼體の議あるが、欽明天皇は群臣に對し「余幼年淺識未關政事、山田皇后明關百揆、請就而決」と幼少の故を以て安閑帝の后を御位にすゝめ給へること見え、欽明帝は御父繼體帝四年六十歲の御出生とせば、當年は正に三十有一歲に當り且つ已に二皇子を有し給へるに對し、猶幼少とは言ひ得ないと思ふ。此の如きは欽明天皇以前の年紀が短縮されて、天皇御治世の元年が繰上げらるべきことを最も確實に語つて居る。

上來の考察によつて繼體天皇の治世は書紀の廿一年紀止りに短縮され、次に繼體安閑兩帝間の空位二年を除き、安閑天皇の治世を繼體紀の廿二廿三の兩年に繰上げ、次に宣化天皇の治世を繼體紀の廿四廿五に繰上げて、而かも短縮することの何れも史實に近かるべきことは、前掲の理由によつて明である。されば國定小學國史等に佛教渡來當時の天皇として出す欽明帝の第一年は、同じく上古の國家編纂にかゝる日本書紀に空位として紀文を闕如せる第一年、卽ち繼體天皇崩御の翌年壬子歲に存することゝなる。而してこの考が妥當なることは前記の皇位繼承に對し、幼少の故を以


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て之を辭讓せんとし給へる年齡上の不調和をも調へるから、疑ふべきでないと思ふ。卽ち繼體天皇は元年丁亥三月に手白香皇女 安閑宣化兩帝の御母國子姫 を皇后に立てられてあるから、欽明帝は早くも翌二年以後の御生誕であらねばならぬ。隨つて幼少説の宣化四年は寶算廿四歲以後にあらせらるゝことゝなる。然るに前掲の如く帝は繼體天皇四年の御出生なりせば、更らに二歲を減じ餘程幼少の議あるに近いて來るが、廿二歲決して幼少と見るべきでない。されば繼體天皇紀は其終が短縮されるのみでなく或は中間に於ても更に縮滅さるべきを想像するに足る可能性を持つて居ると思ふ。卽ち前掲の如く十一年紀より廿年紀に至る十年間が殆んど空白に近いのは、全く紀年の錯簡より生ぜる結果ではなからうか。かくて之を假に除去する時は繼體天皇紀は丁酉十一年を元年として丁未は一年を第十二年とする十二年間となる而して其結果として欽明天皇の御卽位は十二歲以内となりて、幼少の議あるに最も適するのである。其は何れにもせよ、欽明天皇御治世の期間は書紀にては庚申歲 改訂の九年 より卯歲 同四十年 に至る三十二年間なるも、改訂説の壬子歲 書紀の繼體天皇廿五年の翌年 より起算する時は四十年間となる。これ全く法王帝説に志歸島治天皇天下卅一(四十)年とある改訂説の欽明天皇卽位の年、卽ち宣化天皇崩御の年 書紀繼體天皇廿五年 より起算するのに一致する。

かくの如く日本書紀の年代を改訂する時は、欽明天皇紀第七年 改訂前の宣化天皇紀三年 が正しく戊午に當り、元興寺伽藍緣起並流紀資財帳に佛教渡來の年月を欽明七年戊午十二月と記載するものに全然一致することゝなる。而して是より先、戊午渡來説を傳ふる上宮聖德法王帝説に於ける欽明戊午十二月十二日は、欽明天皇の治世を四十一年と明記するものより逆算して欽明七年の干支を示すことが知れ(但し帝説は先帝崩御の年より欽明天皇の治世に數へて居る)又三國佛法傳通緣起所引の審詳の記に、恰も元興寺緣起より後、顯戒論所引の護命等の上表文に欽明戊午と記すものが、其


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原型を保つものと思ふ。

第三節 渡來の方法形式

以上の考察によつて佛教の大和朝廷に入れるは欽明天皇の第七年戊午なること最も信憑するに足るとせねばならぬ言ふまでもなく、この紀年は佛教公傳のそれであるが、是より先、我が民間に傳へられてあつたことも認むべきである。彼の近年發見された大分の石佛や栃木の大谷寺のそれは、弘仁己前奈良朝時代のものであつて、就中その多分を占むる密教關係のものは弘法大師所傳のものに一致せざるが如き、或は豊前楢本には仁聞菩薩の作と稱す古龕像の存するが如く、全く記錄にその造像幷に作者名の見えないものが嚴存することは、佛教公傳の以前若くは當時に已に部分的に佛教は傳へられて居たことを示すものと考へられる。されば顯宗天皇三年志賀に於て泥土の僧形を作れるものゝありしを傳へ、繼體天皇の御世に佛經の輸入を傳ふるが如きも强ち虛構とすべきでない。あり得べきことゝ認むべきである。殊に繼體天皇十六年司馬達等來朝して草堂を大和高市郡坂田原に結んで本尊を安置し歸依禮拝し、時人之を大唐の神と稱呼せるが如きは、内に史實の認むべきものがあると思ふ。然り而して日本書紀には欽明十三年に先つこと七年卽ち欽明六年九月百濟は丈六佛像を造立して、左記の願文を作つて居る

蓋聞造丈六佛功德甚大、今敬造、以此功德、願天皇獲勝善之德、天皇所用彌移居國俱蒙福祐、又願普天之下一切衆生皆蒙解脫、故造之矣。

この造像の趣旨は言ふまでもなく、百濟の聖王が高麗と新羅との間に介在して安全に社稷を維持せん為に、任那聯邦


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と議した日本府復建運動に起因するものであるが、特に丈六佛像を造立して日本天皇幷に日本の為に福祐を祈るにあるからには、聖王幷に百濟の信仰的發露以外に我國に對する好意を表象せるものと見做さねばならぬ。されば已に我國にも當時佛教の福德が多少知られて居たと考ふべきかと思はれる。要之するに、佛教は普通に考へられるよりも早く、少くも我が民間には傳へられたものゝやうではあるが、その公渡は欽明七年戊午と定むべきである。

此の如く我佛教は欽明天皇七年戊午に至つて正々堂々と公傳したが、如何なる方法と形式とによつてそれが行はれたかを考へて見やう。先づ史料として最も信憑するに足る戊午説を出す文献に徵するに、三國佛法傳通緣起所引の審祥の記に單に百濟國とあるを除いて、法皇帝説・元興寺緣起・及び顯戒論所引の護命等の上表文、何れも百濟國王の渡す所とし、就中法王帝説と元興寺緣起には其名聖明王を出し、加之ず帝説には當時佛像と經教と僧とを送つたことが記されて居る。而して戊午説以外の文献にて同一事實を傳ふるものを檢出するに、日本書紀・扶桑略記・八宗綱要・一代要記等何れも百濟國聖明王の奉渡する所とし、特に書紀には使者怒唎斯致契の名と上表文を傳へ、略記を除ける三書は共に此時金銅の釋迦像と幡蓋と經論とが渡り、要記は更に彌勒石像をも送つたことが記されて居る。左にこれを圖示して見やう。

史料 奉渡者 使者 表 佛 法 僧 其他
法皇帝說 百濟國聖明王 ── ── 佛像 經教 僧 ──
審祥記 百濟國 ── ── ── ── ── ──
元興寺緣起 百濟國聖明王 ── ── 太子像 說佛起書 ── 灌佛器


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護命等上表文 百濟王 ── ── ── ── ── ──
日本書紀 百濟聖明王 怒唎斯致契 表文 釋迦金銅像 經論 ── 幡蓋
扶桑略記 百濟國聖明王 ── ── ── ── ── ──
八宗綱要 百濟國聖明王 ── ── 金剛釋迦像 經論 ── 幡蓋
一代要記 百濟國聖明王 ── ── 金銅釋迦像・彌樂石像 經論 ── 幡蓋

されば此等の文献史料によつて百濟國聖明王(三國史記に聖王諱名襛、正寧之子也、智識英邁、能斷事、王寧薨繼位、國人稱為稱王とある)の奉渡する所にかゝることは諸傳一致することが知れる。而して此時にのぞんで法皇帝説には佛像・經教・僧を送つて居るが、これは如何にも然るべきことで佛法僧の三寶を整へたものと考へられる。書紀以下に見ゆる幡蓋の如きは佛教を初めて紹介するに、必ずしも必要とするものではなかつたであらう。然れば其佛像は何像であつたか、又經典聖教は何であつたか、將又僧侶とは何人であつたかは、頗る興味ある問題であるが、明確に之を知ることの出來ないのは遺憾である。今日としては佛像は書紀に見ゆる釋迦金銅像を充つべきで元興寺緣起に謂ゆる太子像も之を意味するものあるが、經典聖教に至りては全然捕捉し難いが元興寺緣起に説佛起書とあるは、想ふに佛本生説にかゝるものと考へられる。されど僧侶に就ては欽明紀十五年二月に「百濟(中略)僧曇惠等九人代僧道深等七人」とあつて、貢僧の交替をして居るが道深等七人來朝のことは前紀に見えないのは或は法皇帝説に見ゆる佛教渡來當時の貢僧ではなきかと想はれる。次に書紀傳ふる所の表讃文を見るに、百濟王より公式に我朝廷へ貢渡した佛教であるから、上表文の存在したことは認むべきであるが、本書以外に之を傳ふるものがない。卽ち其文は


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是法於諸法中最為殊勝、難解難入、周公孔子尚不能知、此法能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提、譬如人懷隨意寶、遂所須用、盡依情、此妙法寶亦復然、祈願依情、無所乏、且夫遠自天竺、爰泊三諱、依教奉持、無不尊敬、由是百濟王臣明、謹遣倍臣怒唎斯致契、奉傳帝國、流通畿内、果佛所説我法東流、

とあつて、金光明最勝王經を讀んだ者は如來壽量品の中に、この表讃文に酷似する個所を發見するであらう。卽ち

是時童子、語婆羅門曰、若欲願生三十三天受勝報者、應當至心聽是金光明最勝王經、於諸經中最為殊勝、難解難入、聲聞獨覺所不能知、此經能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提、我今為汝略說其事、

右の文には諸經中最勝王經が殊に勝れ難解難入で聲聞獨覺も能く知るを得ない旨が出て居るが、表讃の方では諸法の中にて佛法は殊に勝れて解し難く入り難くて、周公孔子も能く知るを得ないと記してある。その他全くと認められる。想ふに表讃は金光明最勝王經に據つて作製されたものと見るべきではなからうか。果して然りとせば、茲に疑問が生ずる。何となれば金光明最勝王經は開元釋經錄・貞元釋教錄等に據るに、唐中宗二十年十月義淨の飜譯に成るものであつて、欽明七年戊午歲佛教公渡より以後百六十五年に當るから聖明王が同經を見るべき筈がない。されば或はこの表讃は後人の偽作にかゝるものかと想はれる。加之ず文中、佛法東流の事實が佛説にある旨を出して居るが、これは前述の如く大般若經のそれを指したものと考へられる。然るに同經は大慈恩寺三藏法師傳・大唐内典錄・續高僧傳・開元釋教錄等に據るに、唐高宗三年玄奘の譯出であつて、我が佛教渡來以後百二十五年に當るから、恐らく此表讃文は最勝王經譯出の文武天皇大寶三年以後、日本書紀撰進の養老四年以前に作られたものであらう。



昭和貳年六月七日印刷
昭和貳年六月十日發行
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