日本宗教大講座
第弍卷
目次
日本宗教大講座第二卷目次
寫眞
ぬけまゐり圖(解説 山本信哉)
役小角木像(解説 鷲尾順敬)
ヘボン肖像並自署(解説 井深梶之助)
神道講説
神道 神道管長 神崎一作 (一一──一六)
天理教 文學士 山口宏澤 (一──二二)
佛教講説
眞言宗各派 東寺大學教授 小田慈舟 (一──八)
新義眞言宗史概觀 智山派宗務長 平澤照尊 (一──八)
黃檗宗 黃檗宗師家 山田玉田 (一──一四)
眞宗大谷派史要 大谷大學教授 橋川正 (一──一ニ)
日蓮宗講説 祖山學院教授 高田惠忍 (一一──二二)
法相宗講說 興福寺貫主 佐伯良謙 (一──一ニ)
基督教講説
ハリストス正教會講説 日本ハリストス正教會司祭 三井道郎 (一一──一八)
日本基督教會 明治學院前總理 井深梶之助 (一──一四)
日本バプテスト教會の主義主張 東京學院長 千葉勇五郎 (七──一四)

聖典綱要
阿含經 大谷大學教授 赤沼智善 (一──二三)
大無量壽經 大谷大學教授 曾我量深 (一三──二二)
勝鬘經概説 東京帝大教授文學博士 常盤大定 (一三──二二)
佛所行讚 文學士 平等通昭 (一──一二)
舊約聖書 立教大學教授 村尾昇一 (一七──二六)
舊約外典 愛知教會牧師 金子白夢 (一七──三〇)
特設神社講説
神社神道史 國學院大學教授 河野省三 (一一──二〇)
宗教史傳
日本佛教史 帝大史料編纂官補東洋大學教授 藤原猶雪 (一──一六)
日本佛寺史 帝大史料編纂官文學博士 鷲尾順敬 (七──一六)
基督教社會事業史 日本女子大學教授 生江孝之 (一──一六)
日本宗教者列傳 帝大史料編纂官文學博士 鷲尾順敬編 (三一──五〇)
特別講座
教會生活の意義 靈南坂教會副牧師 小崎道雄 (一──八)
彙報 反響錄 編輯後記

ぬけまゐり圖 (解説次巻)

二千八十人自大
神社港河邊里等而船來者

眞言宗
第一回
東寺大學教授
小田慈舟
頁一
眞言宗各派
小田慈舟
第一 緒言
支那の唐時代に美しく咲き亂れた密教の華は、平安朝の初期に我邦に移し植ゑられて立派に結實した。
密教の(一)經軌が支那に傳はつたのは遠く一千七百餘年の昔で、呉の支謙が持句神咒經等數部の陀羅尼經を翻譯したのを始とする。しかし密教の根本經典と云はるゝ大日經や金剛頂經を始め多くの經や儀軌が翻譯せられ、密教が盛になつたのは唐の玄宗皇帝の時からである。有名な善無畏三藏が印度から中央亞細亞を經て開元四年に長安城に入り、金剛智三藏が南印度から開元八年に弟子不空を伴ひ海路を航して來唐した。此三人は學德兼備の大德で、多くの密教經軌を翻譯し、帝王の厚き歸依を得、しば□修法して靈驗を現はした。殊に不空三藏は玄宗・肅宗・代宗の三朝に歷任してその國師となり、宮中に内道場を構へてしば□灌頂を行ひ、祈禱をして靈驗を現はし、ために眞言密教は新佛教として一世を風靡するに至つた。弘法大師が勅許を得て延曆二十三年に入唐留學し給うた時は、正に密教の最盛期であつた。大師は不空三藏の正嫡靑龍寺惠果和尚について此の新い佛教を傳受して、大同元年に歸朝した。支那の密教は盛大であつたが未だ一宗を組織してゐなかつた、これを組織立てゝ一宗を開いたのは弘法大師である。大師は
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歸朝の後、透徹した批判力を以て佛教各宗を始めとし印度や支那に於けるあらゆる宗教思想を解剖して二の教判を立てた。卽ち辨顯密二教論二巻を著して佛教を顯教と密教とに大別し、十住心論十巻と秘藏寶鑰三巻とを著して十種の階級を立て、あらゆる宗教思想をこれにあてはめてその優劣を批判し、眞言密教が最も勝れた宗教であることを唱導した。大師以前にも我邦に一部の密教經軌が傳はり修法が行はれてゐたが、かやうに判教を明にして眞言宗を樹立したのは弘法大師が最初である。
註(一)經軌とは經と儀軌である儀軌は修法の行儀法則を明したもので經と同樣に大切なものである。
今日弘法大師を祖師と仰ぐ宗派は八派ある。新義眞言宗豊山派、同智山派、古義眞言宗、眞言宗東寺派、眞言宗醍醐派、眞言宗山階派、眞言宗小野派、眞言宗泉涌寺派がこれである。八派は本來一宗であつたが明治大正の世になつて分派した。新義派の分派は舊い歷史的背景を有し、教義の上にも多少相違した點があるが、他の六派は所依の經典も、教義も法儀も別に異つた點はない、各本山の歷史をみても東寺を中心として各山の間に密接な關係があつて離れ難い連鎖がある。
編輯者から私に課された講座は「眞言宗各派」と題するけれども、八派の中東寺派以下の五派について執筆せよと云ふことである。所が前述の如く古義眞言の六派は教義が同一であるから、「古義眞言宗」の執筆者と重複する恐がある。故に私は教理の説明はなるべく簡單にし、一宗教格の要旨と特色とを略述し、且つ各派分立の事情と五派本山が略史とを叙述する方針である
頁三
第二 各派の分立
新義眞言の分派については他の講師が説明せられることゝ思ふから、今は主として古義各派の分立について叙べる。
弘法大師の開宗以來各派が分立するまでには一千餘年の長い年月が流れた。時代によつて各本山の勢力に消長があり、實權の所在が多少移動したことはある。しかし此の長い間を通じて終始變らなかつたことは、東寺を長者寺として一宗を統御すると云ふ一事であつた。これは弘法大師が御遺告の中に明に規定し給ひしことで、末徒としては必ず嚴守すべき事柄であつた。從つて何の時代でも、大德者か或は權勢ある貴人名門の出家が東寺長者職に就いて末徒を統御した。明治維新の排佛毀釋によつて宗内の秩序が混亂した時代には多少變調を來したが、東寺中心の精神は未だ亡びなかつた。明治五年十月に東寺・金剛峯寺・長谷寺・智積院を眞言宗四大本山と稱し、その住職が交番で管長に就職することゝなりて一管長制を布き、その翌年三月には東寺と金剛峯寺とを古義眞言宗の總本寺と名けた。又明治八年四月神佛合併大教院が廢止になつてから、新古合併の大教院を東京芝眞福寺に設け、從前の如く輪番で管長に就職することになつた。しかし此の頃から新古兩派の意志の疎通を缺き、各山の權衡度を失ふ傾向があつて、遂に十一年五月仁和寺・大覺寺・廣隆寺・神護寺などが一團となつて管長を別置し、眞言宗西部と稱した。次で同十二月には新義派も獨立した。
大崎行智・釋雲照など憂宗の諸大德はこれを非常に悲んだ。幸に翌年四月内務省から一宗一管長に定むべき達示が
頁四
出たので、これを機會に御遺告の精神に基く東寺中心の統制を確立することに努力し、先づ各派の管長や耆宿を智積院に集めて、これを謀り、更に十一月に東京で本末合同の大成會議を催して此の根本方針を議決した。かくて東寺は古制に復歸して長者寺の實を舉ぐるに至つた。
然るに此の理想的宗制は不幸にして永續しなかつた。明治廿九年十月に醍醐三寶院が修驗道統御上の便宜を理由として獨立を請願し、高野山亦これにならひ、三十二年十月の宗會で遂に新古各山分立して管長を別置する決議をした。これによつて新義派は直に獨立し、古義派は其の後尚ほ分離派と劃一派とに別れて大に爭うたが、三十五年四月に内務大臣の調停によつて、一種の聯合制度を組織し、聯合法務所で宗務を統理することゝして各山の獨立を認めた。卽ち高野、御室(仁和寺)、醍醐、大覺寺の四大本山は夫れ夫れ獨立して派號を公稱し、各自の管長を置き、東寺、泉涌寺、勸修寺、隨心院は單稱眞言宗と名けて四大本山住職が交替で管長となる規約を設け、此の五派管長の中から聯合法務所の總裁を選出する制度を規定したのである。この制度は明治卅八年に單稱眞言宗が更に四派に分れたため八派の聯合とかはつたが、その實質は何等の變動なく、東寺に聯合法務所を置いて一宗を統治した。しかるに大正二年十月高野派第五期宗會の際に聯合脱退單獨立を建議する者があつて、その建議案が通過したために聯合制度に龜裂を生ぜんとしたが、京都側の隱忍により聯合法務所を高野山に移し、高野派管長を以て聯合總裁に任ずることを協約して聯合の維持につとめた。其の後聯合議會の度毎に聯合より、統一への色彩が濃厚となり、京都七本山の勢力は次第によわめられ、弘法大師御遺告の精神は破毀せらるゝ狀態となつた。その反動として大正十三年の聯合議會には遂に聯合制度の解體決議となり、次で翌年高野、御室、大覺寺の三派は合同して古義眞言宗と稱し、其の他の五派は各自
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獨立の宗制を布き、而も單純たる協約を締結して六派間の連絡を保つに至つたのである。
第三 所依の經論章疏
佛教は各宗とも皆祖師が或種の經論を依憑として開宗したものであるから、其の宗派の教義を知らんとせばその所依の經論を研究しなくてはならない。故に先づ本宗各派の所依の經論について叙述する。古義眞言宗の各派は皆所依の經論を同じくする。弘法大師の定めたまへる所學目錄によれば約二百部四百餘巻の多きに達する、又大藏經の中で普通秘密部と稱せられてゐる經軌は五百數十部の多きに達してゐる。しかし常に根本所依の經論として尊重するものは次の數種である。
大毘盧遮那成佛神變加持經(略名は大日經) 七巻 善無畏 譯
大毘盧遮那佛説要略念誦經 一巻 金剛智 譯
金剛頂一切如來眞實攝大乘現證大教王經(略名は三巻教王經) 三巻 不空 譯
金剛頂瑜伽中略出念誦經(略名は略出經) 四巻 金剛智 譯
金剛峯樓閣一切瑜伽瑜祇經(略名は瑜祇經) 二巻 同
大樂金剛不空眞實三摩耶經般若波羅蜜多理趣品(略名は理趣經) 一巻 不空 譯
蘇悉地經 三巻 善無畏 譯
大日經疏 二十巻 一行 記
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秘藏記 一卷 弘法大師 記
釋摩訶衍論 十卷 龍猛 作
菩提心論 一卷 同
卽身成佛義 一卷 弘法大師 作
聲字實相義 一卷 同
吽字義 一卷 同
辨顯密二教論 二卷 同
秘藏寶鑰 三卷 同
秘密漫荼羅十住心論 十卷 同
般若心經秘鍵 一卷 同
此等の中で大日經・三巻教王經・略出經・瑜祇經・蘇悉地經を五部秘經と稱して尊重し、菩提心論以下の八部の中で十住心論を除ける七部十巻を十巻章と稱してゐる。
第四 教義概説
眞言宗は卽身成佛を以て教の本旨とする、語を換へて言へば吾等が父母から受けた此の肉體の上に佛陀の德を顯はし、佛陀の作用を為し得ることを以て目的とする教である。佛陀は大覺者のことであるから智慧と慈悲とに缺くる所
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なき理想的大人格者であり、完全位に到達した方である。人格者と云へば多少語弊はあるが、此の大人格者と一體となり、其の德を現世に於て自己の一身に顯はすのが卽身成佛である。そして此の完全位に上り卽身に成佛する方法として三密修行を行ふ。我々の一切の作用は要約するに、身の動作と言語と精神作用との三種に過ぎないから、此の三業を淨化して佛陀の三業と同化せしむるならば佛位に到ることが出來る。佛の三業は甚深微細でその本質は凡人の容易に知り得ない所であるからこれを三密と名け、佛の三密を規範として自己の三業を淨化するを三密修行と名けるのである。從つて平易な語で云ふならば眞言宗は一種の人格完成教である。
我々の人格を向上させて佛の大人格と一致せしめようとすることは、あながち眞言宗にのみ唱ふる所ではない。華嚴・天台・禪など大乘諸宗の共通思想である。生佛一如、佛凡一體などと説いて佛陀と吾人との冥會融合を談ずるは皆同じことである。しかし弘法大師は此等顯教諸宗と眞言密教とは恰も羊馬に乘つて道を行く者と神通によつて目的地に達する者との相違がある、顯教に生佛一如を説き卽身成佛を談るのは理談門で實際門ではない、實際の修行から云へば顯教は三劫成佛の範圍を出ない、卽ち三大劫と云ふ永い年月の間に布施・持戒・忍辱・精進・禪定・智慧の六度行を修して難行苦行の結果漸く佛位の門口に入るに過ぎないが、眞言の三密妙行の修行によれば一生の間に成佛し得らるゝのであると云ふ風に説明してゐられる。勿論眞言宗にもあらゆる人々が悉く卽身成佛し得らるゝとは説かない。正しく此教法によつて修行し佛果に上り得る者は信・進・念・定・慧の五根が勝れて居る者に限る。眞言法に對する深き信仰と、不斷の精進力とを有し、念根強くして諸の邪念を破り、定力によつて散亂心を治め道理を辨ふる智慧が勝れた人々、偉大なる素質を有する者でなくては卽身成佛の機根とは云はぬ。從つて多くの人々に向つては眞言の
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教は無益であるかの如く見られる。所が眞言宗は單にかゝる根力の勝れた人々のみの為に説かれた教ではない。世の中の人々はその根が千差萬別であるから一の法を以て一切の者に適合せしむる譯には行かぬ。我宗の教から云へば、我々に對して二重の門戸が開かれてゐる。一は自己の力によつて佛の三密に契ふ道であり、一は自己の能力の不充分を悟つてひたすら佛陀の慈悲にすがり、その攝取にあづかる道である。卽身成佛の機根に對しては前者の門を開き、それ以下の機根に對しては後者の門を開く。
第一門に屬する卽身成佛説は弘法大師が、大日經・金剛頂經・菩提心論など密教の經論儀軌の文を證據として唱道した説で、その要旨は大師の卽身成佛義一巻に明である。第二門に屬する教は宗内では普通教益甚深門なる名稱を以て呼んでゐるが、眞言密教は如何なる下根劣慧の輩でも攝取して洩さず必ず救濟する甚深廣大なる功德利益を有するの謂である。このことは多く經典に見ゆる所であるが、特に六度經にハツキりと書いてある。六度經に一切の佛教を素怛覧(經)・毗奈耶(律)・阿毗達磨(論)・般若波羅密多(智度)・陀羅尼門(
持)の五種に攝し、陀羅尼藏は恰も五味の中の醍醐味のやうなもので、諸の惡業重罪を造つた者も、陀羅尼門によればその罪悉く消滅して速に解脱を得と説いてある。此の五藏の中初の三藏は小乘の經律論三藏、第四は大乘の法門、第五陀羅尼藏は眞言の法である。陀羅尼は惣持と譯するが眞言と同じことで、如來の言語は眞實で虛妄がないから眞言と名け、無量の功德を含むでゐるから惣持卽ち陀羅尼と名くるのである。此眞言陀羅尼を受持し讀誦する者はたとひ下根劣慧の者でも無量の功德を得、それを増上緣として二生三生の内には卽身成佛の機根となり得るのである。

新義眞言宗
第一回
智山派宗務長
平澤照尊
頁一
新義眞言宗史概觀
智山派 豊山派
平澤照尊
第一章 總論
第一節 起原及沿革
眞言宗は弘法大師に依つて始めて我が日本の國に傳へられた宗門であるが、後、興教大師の出づるに迨んで端なくも分派の因を生じ、終に新義古義の兩派に分立して今日に至つたのである、其間或は合して一宗一長者制を取り或は離れて十派十管長を置いたこともあるが、昨春高野御室嵯峨の三派が合同して古義眞言宗を樹立してからは、古義派は古義眞言宗、眞言宗東寺派、同 醍醐派、同 山階派、同 小野派、同 泉涌寺派の六派となり、新義派は新義眞言宗智山派、同 豊山派の二派、卽ち新古合して八派に分れてゐるのである。
眞言宗又は古義眞言宗に就ては別に執筆者もあるさうであるから私は唯、新義眞言宗に就てのみ些さか其起原及發達道程を略叙して見たいと思ふのである。
抑も單なる眞言宗の下から何故に新義眞言宗が別立したかと云ふに、弘法大師の入定後約三百年卽ち平安朝末期に
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當つて肥前藤津莊に一偉人が降誕せられた、卽ち後年新義眞言宗の大祖と仰がるゝ興教大師覺鍐上人その人である、上人は幼にして密門の法器となり秘密眞言教の薀奧を究め道價頗る高かつたので、深く 鳥羽上皇の叡信を受け、御願として高野山上に傳法密嚴の兩院を創建し、密嚴院は專ら修禪觀法の道場に充て、大傳法院にては春秋二季に傳法大會を營みて當時漸く衰運に傾きつゝあつた野山義學の復興に專念されたので學徒忽ちに雲集し、聲望全山を壓するの概があつた。
斯くて高野山上に於ける上人の學德は、大傳法院の隆昌に趣くと倶に、ます□其光彩を發揮されたのであつたが、凡そ物盛んならむとする時には嫉風妬雨之を妨ぐるが如く、上人が畢世の功業も遂に金剛峰寺方僧徒の嫉む所となりて、爾來金剛蜂寺方對大傳法院方僧徒の間にしば□忌まはしき紛諍を惹起するに及び、上人は泣く□積年の宿志を捨て萬斛の血涙を呑むで決然として高祖の靈跡を去るの止むなきに至つたのである。卽ち保延六年十二月八日上人は大傳法院に屬せる數百の清衆と共に二十年間住み馴れし高野の靈山を下り、岩出の庄根來山の仙境に其身を移し給うたのであつた。
其の後、鳥羽上皇は數度院宣を賜はりて高野に歸るべき旨をお諭しになられたが、上人派『彼の山に在らば一味の法界に我他彼此の別執を抱かむことを恐る』とて固く辭して肯はず、絡に居を根來の地に定めて新興密教の大道場を建設するの基を開かれたのである。
顧みれば此の根來移轉の日こそ正しく根來山末彼が永遠に高野の羈絆を脱したるの日であり、又た同時に後年新義眞言宗の獨立を宣言すべく第一步を印したるの日であつたのである。
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史を按ずるに根來の地は役ノ行者經行の靈蹟にして密教有緣の聖地である、乃ち大治元年平ノ為里が傳法供料として石手の莊を上人に寄進せらるゝや、上人は莊内根來に一祠を造立して日本國中大小神祇一千餘座を勸請し、其傍に神宮寺を建てゝ門流の鎮護となし給ふた、是れ卽ち太祖上人の深慮に出づるものであつて根來山大傳法院の基礎は此時旣に開創せられたものである。
其後學頭兼海座主神覺等は、野山傳法院の空しく破滅せんことを憂ひつゝあつたが、康治以來屢々歸住の院宣あり、且つ上人滅後四年に至つて更に第五度の院宣を賜はつたので、漸く金剛峰寺方との和議を整ひ、茲に根來の淨侶は再び高野山上の舊院に戻りて春秋二季の大傳法會を啓行することゝなつた、然るに寺方院方兩衆徒の感情は依然として融和せず、事毎に軋轢を生じて紛爭の絶ゆる間なく、遂に仁安三年の裳切騒動、承安五年の所謂承安の變、貞永元年の寺院座席の爭、仁治三年及寶治二年の大傳法院燒打、弘安七年の大湯屋建立の爭等相次いで惹起され、高野山頂往々にして血腥き修羅の巷と化し、醜狀見ろに忍びざるものがあつたので、大傳法院方にては賴瑜學頭の時に至り、終に意を決して『一山寺院の共住は是れ禍亂の基なり』となし、正應元年三月座主道曜僧正と相謀りて直に上奏に及び、傳法、密嚴の兩院及諸堂宇の基跡を悉く根來山に移し、高野山上永く其跡を絶つに至つたのである。
而して此の拔本的大移轉は、實に上人滅後百四十年のことにて、此時には旣に賴瑜和尚に依つて所謂新義の法門なる加持身説法の義が大成せられ、最早教義的にも別立せらるべき時であつたのである、故に此時より根嶺一派を新義派と稱するに至つた。
爾來根來山は新義學徒修練の根本道場として學侶四方より蝟集し、其間學德兼備の名匠相次いで輩出し、天正の頃
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には智積、妙音、十輪等の各院を首として一山の僧坊二千七百を算し、寺領七十萬石を有して、實に隆盛の極に達したるの觀があつた、然るに世は恰かも建武以來亂世の餘波を受け、地方豪族の跋扈跳梁する者尠なからず、乃ち多くの莊園寺領を有する大山名刹にては各々僧兵を蓄へて劫掠は備へ以て寺域守護の任に當らしめたのである。
根來山も亦た行人なる者を置きて、寺領の境界を檢し貢賦出納等の諸役を司り、專ら學侶の衛護に任ぜしめたのであつた、所謂根來法師として武名を轟かした僧兵とは此の行人の一團を指したものである。
斯くて諸寺の僧兵漸く其暴威を逞しうするの時、豊臣秀吉天下を經略せんとして兵を起し先づ根來に向ひ、木食應其を勸降使として歸順を勸めしめたが、專識坊、閼伽井坊の徒カを恃みて之に抗し、却つて應其の宿所を襲撃して之を殺さんとしたので、忽ち秀吉の激怒を買ひ兵刄一過須臾にしてさしも偉觀を極めし根來山は血を以て汚され火を以て焚かれ、堂塔伽藍は概ね烏有に歸し學侶行人は悉く離散して、太祖上人以來四百四十餘年、輪奐の美結構の壯を以て南海の一隅に誇りし根來山も、あはれ廢滅の悲運に陷つたのであつた、所謂天正の兵燹である。
此の不慮の災禍に襲はれた根來山の學徒は實に悲惨なものであつた、卽ち智積院玄宥、小池坊專譽の兩能化は各々其の學徒を率ひて難を高野に避け、相議して再び野山に新義の法幢を樹立せんとしたが、金剛峰寺衆徒の拒む所となつて果さず、空しく山を下られたのであつた。
のぼり行く高野の山を出でしより
天が下には宿り家もなし
悄然として高野山を去つた兩能化は、しばし各所に流寓して言ひ知れぬ惨苦を甞められたことであらう。
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玄宥能化は暫時諸所流寓の後、居を洛北に定めて法幢を樹てたが、次いで德川家康の庇護を受け洛東豊國の梵宇を賜はり、之を五百佛山根來寺智積院と號し、以て根來智積院を再興し茲に智山派百年の基礎を確立せられたのである。(現在智積院の地域は元和元年第三世日譽能化の時家康公の賜ふ所である)。
專譽能化は其後一時泉州國分寺に僑居せられたのであつたが、偶々和州大守豊臣秀長の知遇を受け、大和長谷寺に住し、此處に教莚を張りて豊山流永遠の法城を築かれたのである。
飜つて思ふに太祖興教大師、根基を一乘山に定め給ひてより、新義眞言の教風年を逐ふて勃興し、根嶺一味の法水遠く末流を貫きて長へに渝るべからざるに、天正の兵燹に遭ふて端なくも一源二流に分れ智豊兩山南北に對立し、終に智豊兩派を形成するに至りたるは、蓋し千秋の恨事ではあるまいか。
さあれ智豊兩山は、德川氏が政權を握るに及んで益々其恩寵に浴し、家康を始め累代の將軍いづれも兩山の興隆に力を添へられ、或は法度を下し或は寺領を増し或は堂舎の建立を翼賛する等、格段の庇護を加へられたるを以て、智豊兩山は漸く黄金時代を現出し、兩山の教學は正に一世を壓倒し、隨つて顯密二教研學の中心をなすの觀があつた。
前述の如く智豊兩山が關西に於て學山の盛名を擅まゝにしつゝある間に、關東方面に於てはまた新義眞言の教權を更により強大ならしむるものがあつた。
何故かは知らず、德川氏が特に新義眞言を保護すること頗る厚かつた為に、嚢きに根來沒落に際して四方に離散した學侶は風を望むで關東地方に四來し、所謂新義の龍象は多く江戸に集つたものと見える、卽ち慶長十五年には江戸の知足院、圓福寺、彌勒寺、眞福寺の四箇寺を關東の觸頭に任じ、主として關東に於ける新義末寺院を統轄せしめた
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るが如き其一である。
恰かも五代將軍の頃、護持院隆光と稱する一代の傑僧があつた、初め知足院に住するや、將軍綱吉の歸依殊に篤く、知足院を神田橋外に移して護持院と改め將軍の祈願寺となし、隆光を大僧正に任じ且つ新義眞言の總統職たる僧錄司に補する等、寵遇到らざるなく權勢も亦た並びなき程であつた、更に綱吉將軍は常に觀世音に祈りて靈驗ありとの稱ある亮賢僧正の為に、大塚に護國寺を建立して之に住せしめ、隆光僧正の護持院と殆んど同格に優遇せられ、其封祿の如きも兩者次第に加増せられて、護持院は千五百石、護國寺は千二百石の高祿を領有するに至つたのである。
今之を當時猶ほ僅かに五百石に過ぎざりし智豊兩山に比すれば、如何に此の二ケ寺が德川氏に寵遇せられたかを察するに餘りあるであらう。
されど護持院は享保二年所謂振袖火事に類燒して復び立たず、卽ち元祿元年より三十年にして護國寺に合併せられ、又た新義眞言僧祿司の權も元祿八年より二十三年にして停廢せらるゝに至つたのである。
上來略述せるが如く、根來兵燹後の新義眞言宗は、關西に在りては各々其根本道場たる智豊兩山に於て法幢を飜へし、關東に在りては護持護國の兩寺を中心として教權を張り、東西相呼應して新義の教勢を振起しつゝ在つたのである。
降つて明治維新の世となるや、明治五年政府は從前の僧位僧官を廢して教部省を設け神宮僧侶を監督し、次いで神佛各教宗派には管長を置くべしとの令を發するに至りたるを以て、我が眞言宗にしては東寺高野兩山を古義眞言の總本山とし、智豊兩山を新義眞言の總本山として、是等總本山の住職が輪番にて眞言宗管長職を勤むることゝし、所謂
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新古合同制を取つたのであつたが、各本山中には猶ほ甚だ快からずとなす者もありて多少の波瀾を免かれなかつたので、明治十二年には舉宗一致の大成會議を起して根本的に眞言宗を改革し、高祖大師の御遺告に基き、京都の東寺を一宗の總本山となし、法務所を東寺に置きて一宗の事務を總攬することゝした、越えて十八年一宗大會議を東京に於て開くに當り茲に多年欝結せる新古分離の主張となり、終に新義派々號の公稱を承認せらるゝに至り、智豊兩山は更に新義一派の大會議を開いて、根來山大傳法院座主を以て一派の總主宰者となし、且つ智豊兩山の交衆を廢して根來山交衆に改めたのである、卽ち根嶺歸一の政策を行つたのである。
斯くて兎に角にも一宗一管長の下に統治されつゝあつた新古各派は、其の實力の權衡上何時まで以大補少して各派各本山の協調を保つて行くことが出來やう、果然明治三十二年に至り再び一宗大會議を開いて各大本山の獨立を決議し、翌三十三年八月古義派は高野御室大覺寺東寺醍醐山階小野泉涌寺の八派となり、新義派は新義眞言宗智山派、同豊山派の二派となり、新古十派十管長を置きて各自其宗派を統轄することゝなつたのである、其後大正十五年の春高野御室大覺寺の三派は合同して古義眞言宗となつたから、現在に於ては古義派は六派となつてゐる。
余は從來しば□新義眞言宗なる名稱を用ゐたが、智豊兩派が政府の認可を得て、新義眞言宗なる宗名を公稱するに至つたのは、實に明治三十三年八月九日である、其れ以前は眞言宗新義派と稱して居つたのであるから念の為に茲に附記して置く。

黃檗宗
第一回
黃檗宗師家
山田玉田
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黃檗宗教義
山田玉田
一、宗の源流
二、宗旨(教外別傳──不立文字──禪の本質──直指人心見性成佛)
三、修禪(坐禪──普請──公案──念佛)
一、宗の源流
釋迦世尊が靈山會上に於いて、正法眼藏涅槃妙心實相無相の法門を摩訶迦葉に付囑せられしより以來、一器の水を一器にうつすが如く滴々相承し、二十八傳して菩提達摩に至り、達摩は此の法を持して南海の波濤を渡り、支那禪宗の鼻祖となつた。達摩より十傳して臨濟宗祖臨濟義玄禪師あり、それより三十二傳して本宗宗祖、隱元隆琦禪師にいたる。禪師支那より入朝して、黄檗山萬福寺を山城宇治に開創し、機鋒峻嶮、別に宗聲を振ひ、木庵、卽非、龍溪、獨湛、高泉、鐵眼、鐵牛等、濟々たる多子一時に輩出し、皆師の意を體して宗風の舉揚に努め、社會的活躍の深大なるものあり、遂に禪門中別に黄檗の一宗を成すに至つたのである。
その源流より見るときは、黄檗宗は臨濟宗と共に同じく臨濟義玄禪師の正脈を繼承するものなるが故にその教義
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(?)に於ては殆んど兩者同樣であるといつて差支へない。然し乍ら臨濟宗は早くより本邦に流傳されて一宗風を成せしに反し、黄檗は、その後永く支那の地に培はれ、元明時代の複雜なる思想の中に生長發展せる臨濟の宗風を傳へて、明末清初に渡來せるものなれば、一般歷史的に考ふれば、その間多少の變化の豫想さるゝは當然であらう。然し禪門の流傳は滴々相承であつて、その本質に於いて萬古不易、東西不變のものである。時と處と人とに依つて變化するものは、禪門に相承さるべき生命の核心ではない。
惟ふに、隱元禪師の師たる費隱通容禪師、及びその師たる密雲圓悟禪師は、明末に於ける二大禪匠として目さるゝ所である。圓悟禪師はその法筵に連なるもの三萬指を踰へたと稱せられる程で、機鋒の峻烈なる、接手の妙密なる、實に一世の禪界を震駭せしむるものあり、その門下の隨一たる費隱通容禪師も亦、師に譲らざる大器大用を具して現はれ大いに法幢を盛にして師と共に明末臨濟の眞風を發揚されたのである。此の兩師に親しく鉗鎚を蒙り、學は廣く禪教二門に亙り、識見また師に譲らざるものあり、加ふるに生稟の圓滿なる人格を具有せし隱元禪師が、禪門中別に黄檗の宗風を確立せしは、決して遇然ではなかつたのである。宗祖の説く所、間々他教に及ぶことあるは、畢竟、宗祖の學殖と、その包容力の大なるより來る自由なる教説に過ぎぬのであつて、廣きにわたつて善を取り、長を學び以つて誘導に質することは、むしろ師の對機方便の助行であつた。その一貫する所の教旨は常に臨濟の古風なることは言を俟たずして明瞭である。斯くて本宗は渡來の年代に於いて、臨濟宗と四五百年の遲速あるも、その持續する眞風に於いては全く異らぬと言つてよい、唯、儀式と善巧方便に於いて、本宗は特に臨濟宗と異る點を有するのであつて、本宗が禪門中特に一宗を成す所以は、この特異なる儀式と方便との相違にあるのである。方便門の特異なる點に就い
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二、宗旨
本宗の宗旨は、一言にして言へば、正法眼藏涅槃妙心實相無相の法門を宣揚し、直指人心見性成佛の端的を開示するにある。而して開示の方法としては、參禪を正とし、提唱を助とし、一般民衆に對しては念佛行を勸め、教説的方面に於いては一切の佛教の典籍に依つて對人隨機の法門を講演し、普く衆生をして轉迷開悟せしむるにある。開示の方法に就いては後に述べることにし、先づ本宗の宗旨とする所に就いて聊か布演して述べて見よう。
教外別傳
教外別傳不立文字といふ句は、禪宗を最も端的に形容し得た言葉である。今この句を二段にわけて、前句の意を明にしよう。
釋迦滅後、各々信ずる所の教理の相違から、佛教は大衆部、上座部の兩部に分裂し、大衆上座各々又その分派を生じ、遂に二十部に達した。其の後更に大乘佛教の勃興あり、各々その所信に從ひ、長ずる所に隨つて研究を進めた結果は、遂に今日見るが如き幾多の宗派を形づくるに至つたのである。而も各宗共に佛教の一方面を開拓し、之を竟極にまで推究して、各自その方面より佛の自覺を窺ひ、且つ之を自己心中に獲得せんとしつゝある。或は佛の定められたる戒律を嚴修する事に依つて、卽ち自己の生活を佛の戒律に依つて規律することに依つて佛の自覺は得らるべしと
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なすもの、或は佛自内證の理想を自己心中に憶持することに依りてそこに到達せんとするもの、或は佛典を哲學的に思索研究する事に依りて遂に佛の自覺を把握せんとするもの等、何れも皆、佛の自覺を得ん為の正しき努力であることは言ふ迄もない。佛教の隆盛は斯くの如く多方面から熱心な求道者が徹底的研究を進めた結果、各々殆んど遺憾なき迄に發展する事を得たのである。がそれ等の研究が微細に進む程、教義上の煩瑣な難所が現はれ、煩瑣なる理論は更に複雜なる研鑚を要するといつた工合に、後世愈ゝその當然の弊害たる徒らに理論の末に走つてその本を忘れるといふ傾を生じ、之を學ばんとする者には轉た望洋の嘆に堪へざらしむるといふ結果を生ずる。否、たとへかく迄の弊はないにしても、短刀直入的に佛の自覺を獲得せんとする者に取つては、かゝる研究方法は、甚だしく面倒なといふ感を起さしむるは當然である。そして研究が微細に走れば走る迄、その反面に、かゝる煩瑣な思索辨證に依らず、直ちに佛性如何を了得し得るやうな方法を欣求するに至ることも亦當然の結果であらう。而して人々の此の要求を滿足せしめたものは禪であつた。禪といふ宗派を比較的後世に一宗を形成したのは蓋しかゝる關係があるのであらうと思はれる。勿論禪の形式は釋迦以前からあつたもので、釋迦も修業されるには此の方法を用ひられたであらうし、その入寂に至る四十九年の東奔西走、説法度生に暇なき間と雖も、釋迦は少しの時間でも靜坐禪定を修せられたやうに聞いてゐる。かく禪は、形式としては釋迦以前から存し、且つ釋迦は之を最上の修養法として採用されたのであつたが、初期の佛教に於いては、禪は未だ獨立の宗派を形づくつてゐたのではない。支那に於いて禪宗といふ旗幟を鮮明にし、靜坐禪定の形式は禪宗の特色の如く考へられるやうになつたのであるが、それ迄も禪定は六波羅蜜の一として菩薩行の一項目をなしてゐたし、禪宗成立後と雖も禪定は他の宗門に於いても重要な項目となつてゐる所もあるので
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ある。而もそれ等は單なる修養の一形式に過ぎなかつた。單なる禪觀を修する一形式に過ぎなかつたものが、愈ゝ其の獨自の田野を開拓し、全くその内容を一新し、形式的意味を全然放棄し去つて、專ら本有の佛性を徹見するを目的とするに至り、是に禪宗的色彩は鮮明にせられたのである。煩瑣なる思索研究を放棄して、卽ち教相判釋の他教に依らずして、自證自悟を主眼とする禪宗が形成されたのである。一切衆生は佛と同じく眞性佛性を具有し、凡聖は畢竟別なものではない、唯塵勞煩惱に障へらるゝが故に佛性が明瞭でないのである。故に諸緣を絶して專ら内心の平靜淨寂を保てば佛性自ら顯現し、かくて直ちに佛の自覺と等しきを得るといふのがその主張である。禪宗はかくて他の宗派が專ら教相の闡明に努め、佛教典籍上、卽ち文字上に研究階梯を求むるに反し、直接教相に依らず、唯自己反照に依るを、眞に早く最終に到達する道なりとするのである。禪宗史の示す所に依れば、かゝる禪宗安心の一脈は、旣に靈山會上に於ける釋尊拈華、迦葉微笑に端を發し、それより滴々相承して遂に支那に傳はり日域に及んだと稱するのであるが、それは兎も角として、禪の生命あり、佛教の眞生命を流傳して失はずと誇る所以は、唯釋尊自内證の血滴を把握して存するといふ所にある。佛説の尊き所以は一にその内に流るゝ釋迦の自内證に存する。釋迦の偉大なる宗教的人格の光に存する。凡ての教説それ自身は唯その光を指示する指頭に過ぎぬ。釋尊の宗教的人格を徹見體得せずんば如何にその教説を説き得て妙なりと雖も、そは唯人生の遊戯に過ぎぬ。教理はそれ自身生命なるものである。それに生命を附與するものは釋尊の宗教的人格である。而して釋尊の眞生命は、その洪澣なる教説の外に、別に多くの佛弟子達に感受され體認されたであらうことは疑なき事實である。否、これありしが為に釋尊の教説は愈ゝその光輝を發し、佛教は隆盛を來したのである。然るに時代の變遷は、人々をして漸く教理の枝葉に走り、まゝその眞精神を
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忘れしめることはあり勝ちである。枝葉の問題が錯綜すれば愈ゝ精神に遠ざかる。於是、直ちに佛心を以つて宗とし、これが體認を唯一目的とする禪宗の擡頭を見たるは當然の歸結である。而も傳ふる所は純なる釋尊の自内證でなければならぬ。禪の傳統を云々する輩なきにあらずと雖も、禪がかゝる事情にその源を發する以上禪の精神はその傳統を云々しなくても明かに釋尊の人格の流れが滴々として幾多の佛弟子等の胸裡を流れ來りて、遂に上述の如き因緣に應じて一宗を形成せるは明かであらう。かくて禪門に於いては八萬四千の法門以外、卽ち教外別に傳ふる法あり、此の法の相承に依つて禪宗は自ら他と別なるものであるといふ、これ禪宗に於いて自ら教外別傳と稱する所以である而も此の法たる、釋尊の口に説かんとして説く能はざりし微妙のものにして、釋尊の正意はその多くの經巻に於けるよりも、却つて禪門の安心にその端的を窺ひ知るを得るとするのである。
不立文字
禪宗は隨分文献に富む。而も不立文字は依然として禪宗のモットウである。然らば不立文字とは何を語るものであるか。それは要するに禪の本質は言詮を遙かに超越してゐることを表はすものである。不立文字の四字は實に禪なるものを形容し得て極めて巧なものと考へる。元來文字は言語を表はす符號である。言語は又吾人の知的所產たる概念を表はす符號である。然るに概念なるものは、結局吾人の主觀の分析綜合に依つて出來立つたものである。そして主觀と客觀の別は旣に吾人の體驗内容の分裂を意味する。時と共に無始無終の活動を續ける生命の流れは唯感ずることを許されるのみである。若し之を知的に理解し説明し去らんとすれば、旣にそこに主客の分裂を許さねばならぬ。か
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くて主は客を知る。こゝに知的活動は初まるのであるが、主客對立すれば、それは最早流動のまゝの姿ではない。主客の分裂は反省に依るが、反省作用に依り振り返つて眺められたものは、流動でなくて靜止の姿でしかない。主客對立の世界は種々の範疇にあてはめて構成された世界である。活きて働くものゝある一面を示指するに過ぎぬ。流水から汲み取られた一杯の水は、最早流ではあり得ない。如何に細密な分柝が行はれても、愈ゝ流水の本然から遠ざかつたものを發見するのみであらう。一度び吾人の知的作用のみに訴ふれば結局さうした方面に進むより仕方がないのであつて、それはそれとして又人生の重要な任務を持ち、それ自身の田野を有するものである。けれ共知的所產たる概念は畢竟硬化せるもの、又働きの一瞬間の一部面を表はすに過ぎぬもの、靜止の狀態として眺められたものに過ぎぬならば、結局物の全體相を如實に表示せんとするには甚だ困難であり、押して用ふれば誤りを生ずる。唯僅かに活動しつゝあるものゝ全體活動を感得せしむるに最も都合よき、ある瞬間の狀態を表はし得るのみである。卽ち硬化的靜止的概念に依る表現の不便は、それに依つて指示される所のものを直覺する事に依りてのみ補はれる。而もその直覺の不可能なものに取つては、それも只、愈ゝ誤解を重ねる具たるに過ぎぬ。假りに今、全く吾々に未知な世界に就いて説明せんとする如き場合には、聞者の嘗つて有する經驗の中の最も近似のものを持ち出して説明し、それ以上は聞者の構想に任さねばならぬのであつて、到底聞者の十二分に滿足な理解は期し得られぬのである。然るに今、それに似た經驗のない或るものを知得せしめんとする場合には、全く策の施すべきなしといふわけである。是に在つては唯、その人の冷暖自知に俟つより外はないのである。禪の本質も亦その通りである。廓然無聖の悟の當體は、恐らく吾人迷蒙世界の經驗をもつてしては説明し得るものではない。前述の如き不完全なる概念と、そして全く世界を異にする
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迷界の經驗を材料としては尚更駄目である。宗教の殿堂深く悟入せる眞人の言語が多く矛盾或は否定を以て構成されてゐるのを見ても、その如何に表現の困難なるかを知り得るであらう。而もこの矛盾、否定は、畢竟表現すべからざるものを表現せんとする所に當然起るべき現象である。斯くの如く絶言絶慮の禪の本質は、是を表現せんとして文字の立つべきなく、強ひて立つれば本質を離れる。生命そのものを如實に表現すべきいかなる文字もないのである。釋尊一代の説法を一字不説と云ひ放つ心持ちは、正しく此の邊の消息を物語る。
禪は一切の教説によらず、直ちに自己本來の面目如何と證得する。そこに一箇の概念智をさしはさむ餘裕もない。一字を立する餘地もない。一念起らず、諸法本來不生なる處、或は一念未だ生ぜず、天地生ぜざる所迄つきつめた所に果して何の言句があらうか。而も本來の面目はその處に活潑々地の働を現じてゐる。有無淨穢本末動靜の所を遙かに隔絶してゐる。禪は全く認識を以て理解すべからざるものである。働きを離れざる體認でなければならぬ。智解をからず、只驀直に自性如何と見る。卽ち生命の流れに沒入してしまふのである。文字概念はこゝには全く不必要なのである。
以上の如く直接體認、生命の流れの直覺内容を表現せんとする時には、全く用ふべき文字はない、卽ち不立文字は、不立概念、不立論理であつて、世間の哲學、科學と全く行き方を異にしてゐることを示してゐる。不立文字の意が明かになれば、禪と哲學科學との逕庭も明かにするを得る。哲學科學は最後に眞理に到達せんとする研究方針を取るに反し、禪は直ちに終局の本質を把握することを第一とする不立文字は自らその標識となるわけである。
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禪の本質
禪の本質は教外別傳不立文字のもので、言詮を遙に超越し、説かんと擬すれば旣に錯了底、唯冷暖自知あるのみである。是を知る者は共に與に語るべく、知らざる者は雲煙萬里、示さんとするも亦、術なき次第である。水を知らしめんとしてその素成分を説き、効用を説き、味を述ぶとも、水を知らざる者は遂に理解し能はざると一般である。然し乍ら禪の妙趣と大用を自ら體得せる古來幾多の禪匠は、獨りこの妙境に孤坐するに忍びず、これが妙味を普く人に頒たんとして横説竪説、之を右にし之を左にし、或は與へ或は奪ひ、凡そその精根を盡して禪を説くことその幾千萬言なるを知らず、而もかくの如くなりと雖も、學者若し言句上に向つて理解し去らむとすれば、その人命を害すること鴆毒よりも甚だしきものあり。古儒曰く「字に依つて意を害すれば、むしろ書なきに如かず」と。誠にその言の如しである。殊に禪に關する言句に於て愈ゝその感を深うするものである。禪語は盡く、「目を示す指」ならざるはない。指頭に眼を就くれば遂に月を見ず、須らく言句の外にその意を體得して初めて微笑するの期あらんのみ、以下述べんとする所又然りである。讀者の字に依つて意を害するならんことをこれ希ふ次第である。
惟ふに吾々の苦しみは、多く「拘束を感ずることによつて滿足を得られぬ」といふ所に生ずる。之を大にしては、近時愈ゝ重要視される社會問題、經濟問題等、之を小にしては吾人日常の些細なる行為に至る迄、皆然るのである。現在の社會組織の下にあつては職業選擇の自由が得られないと云ひ、資本家は不當の利を貪るが故に勞働階級は人間としての生活さへも與へられないといひ、或は其の他、婦人參政權運動、水平社運動、國際的には人種平等案等、皆現在受
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けつゝありと信ずる拘束を脱して、より自由なる境遇に自分等を高めようとする切なる叫びである。然るに欲望は無限にして、現實の社會に於ていかに自由な境遇を與へられるにしても無限の欲望を滿すことは不可能である。「自由の為に」の熾烈なる要求は、有史數千年の古から今日に至る迄、為し續けられ、其の要來に應じて幾度か社會の改造は繰返へされたにも拘らず、今日尚自由への要求は以前にも増して熱心に絶叫されづゝある。不自由不滿足の感は恐らく往古の人類よりも一層甚しいものがあるとも考へられる。而してかゝる傾向は今後猶人類と共に永遠に續けらるべきであらう。かくて永久に自由あるなく、又滿足も有り得ぬ。然らば如何にすれば眞の自由と滿足とを得ることが出來るか、これが當面の問題でなければならぬ。
人は先づ人間的立場を根本的に轉換して眺めて見るがよい。やはり人間は人間であると云ふ適切なる立場が味らはれる。資本家も勞働者も男も女も、共に常に外物にのみ馳せてゐる心を先づ内に向けかへることである。徒らに物質と名譽と權勢の為に忘れ勝ちな、一個精神的存在としての自己を顧みるべきである。顧みて内面的の充實に意を注ぐべきである。徒らに物質と名譽と權勢に馳せたがるのは、自己内心により尊き寶の存することを忘れてゐるからである。人間として尊きはその人の有する物質の量でもなく、名譽や權勢でないことは誰しも知る所である。現代一個の文化人として闊步する為には相當多くの物質を要する事は事實であらう。けれ共唯の立派な人格としての人間である為には物質の多少は問題にならぬ。次の食物の有無はその人格といふ點に何等の制限を加へるものではない。物質のある量を要する文化生活こそ却つて奇妙な存在である。生きることに必要な以上の物質を要する文化生活者は物質に依らなければ存在し得ぬ人間である。何物かに依據して自己をより高くせんとする心は惡くむべきである。この心持
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は財力、名聲、或は權勢の地位を獲得せんとする幾多の見憎い現象となつて現代社會を埋めてゐる。此處には永久の欺瞞と爭闘あるのみである。永久に自由の存在し得ぬ所である。人は先づかゝることの非を悟るべきである。先づ財名權にも依らずして自由歡喜なる自己に向つて眼を着くべきである。此處に一個の人間を見出す。そして求むるものなくして飽足し、新たなる自由を得ることなくして拘束なきを知るであらう。若し然らば更に進んで善惡、是非、富貴貧賤、生死、得失、自由不自由、それ等一切に依らざる自己に眼を着くべきである。この何物にも依らずして横行闊步する所の自己を徹見すれば、そこにはあらゆる自由の境は打開されるのである。行かんと欲すれば行き、坐せんと欲すれば坐す、任運自在の境地は更に之を妨ぐるものもなく助くるものもない。禪の究竟の所はと云へば先づこの何物にも障へられざる任運自在の境涯と見てよいであらう。臨濟禪師は此れを無位の眞人といつた。「一鉢千家飯、孤身度幾秋、冬暖路傍草、夏冷橋下流云云」の待偈を見ればいかにその境涯の自由なるかを見るであらう。そこには何等の技巧なく造作なく、萬法遷流の大河の流に沒入して滔々千里際涯なき活境涯である。而も一物にも障へられず一法にも止められず、起つべくんば立ち步むべくんば步む、而して殺すべくんば佛祖も辭せざる程の風光で、此處に於てか自主獨步、斷々乎として所信を遂行する。自由の働きは實にこゝ迄高潮されねばならぬ。扨て此の境地の大用を見るに、これは單なる外境に對する應變ではないのである。外境に對する臨機の應變なりと考ふるものあらば錯りも甚しいと云はねばならぬ。旣に外境の認むべきものあらば外境に依據するものにして無位の眞人ではない。強ひて言へば外境に中に沒入して外境と共に活動するとでもいはうか、天地とその身を等しうする全體自我の大用とでもいふが、兎に角、全人格の自らなる流露發展であらねばならぬ。禪の活動は常にこの全人格の働きである、從つて「渾然
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たる全體」をその生命のまゝに體認するのが禪でなければならぬ。哲學及び科學に於ける概念や分析の所產と全く異ることは前にも述べし所である。旣にこの全人格的活動を體認し待たならば、これを佛と共に坐し佛と共に行し、乃至佛を抱いてねむる者といふことが出來る。
禪はかくの如く主客を打成一片したる全體的自我とそのまゝに體認するものとすれば、吾々の生命活動の眞意は禪に依つて初めて明瞭に知り得るといつてよい。科學の根本基礎問題を問題として遂に知的統一に迄達するのが哲學であり、情意の統一を達するものが藝術であるならば、禪は哲學と藝術に統一を與へ生命を附與するものといつてよい。禪は故に生命活動の最終原理と考へ得るのである。而もそれは概念の形に於てではなく、生命の流動の形に於てゞあることは言ふ迄もない。かくて思索と體驗の一致も考へられるし。個性の自由、及び創造の原理も共にその源泉を禪の中に求めることが出來る。卽ち人間の眞美は禪に依つてその活き活きした姿を示すと考へられる。
釋尊出世の本懷が一に此の人間性の發見開示卽ち生命の發揚にあつたとすれば、それは禪に於て十分に發揮され得たとも考へられる
直指人心見性成佛
禪は直截簡明を尊ぶ。教相や理論的誘引はその取らざる所である。於是乎、禪門にあつては直指人心見性成佛を以つて示教の活作略とする。直ちに人をしてその心を徹見せしめ、自性本清淨、卽身是佛なることを知らしめるのである。禪の立場よりすれば唯生命の流動としての全體活動あるのみであつて、そこに善惡本末終始の對立を許さない。
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從つて禪門古來より説く所も亦、努めてこの對立を破り、自己と佛と別なきこと、卽ち衆生、心及び佛の三の無差別なることを説き、生死卽涅槃、煩惱卽菩提と説き出すのである。初祖達磨大師の説法に、「凡聖等一」或は「一切の含生同一直性なり」とあり、又永嘉の玄覺禪師の語に、「無明の實性卽是禪、幻化の空身卽是法身、罪福なく、人法なく、本來無一物便ち是如來の大圓覺なり、無價の寶珠人皆具足す、三身四智誰か圓かならざらむ、眞を求めず、妄を斷ぜず、心鏡昭々萬像を含む、恒沙の諸佛、體皆同じ、諸佛の法身我性にあり、我性還つて如來と合す、若し此意を得ば、行も亦禪坐も亦禪、語默、動靜體安然。」とあるは皆同一意思に出でしものである。その説く所は多種多樣なりと雖も要するに外に迷はず、内を亂れしめず、相體絶體を超越して本性自性を徹見するにある。「百千の法門方寸に歸し、河沙の妙德總て心源にあり」である。一度び自性を徹見すれば、「自性は本來不生不滅、自心廣大なること猶、虛空の如く、方圓大小の相に非ず、靑黄赤白の色に非ず、自性萬法を含み、萬法自ら本性中にある」ことを見得るのである。「卽ち自なく他なく、得失緣に隨ひて心々増減なく遠順風靜かにして冥に法に順ずる、性淨の理に安住して寂然不動なる、これ心要なり」と知るのである。
旣に自性本清淨にして眞妄別なく、一法の迷ふべきなく、又一法の悟るべきものもない。迷といひ、悟といふは結局頭上頭を按ずるの愚のみ。旣に迷悟なければ開く可きなく、破すべきもない。而も迷を苦しみ悟を求める、是畢竟自己本來の面目を見ざるに依る。故に禪門は唯自性を見よといひ、本來の面目如何と容めしめる。自性に透徹すればこれを見性といふ。而も見性は唯、心佛もと二ならず、自性本清淨、眞妄無別なることを知るのみ、一法の捨つべきなく、一法の得る所もない。是、禪門の安心決定である。
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不立文字を標榜し、直指人心見性成佛を以つて宗旨とする禪門に、古來一貫せる教義教理の存せざるは怪しむに足らぬ。強ひて言へば對境臨機の全體活動こそ。その教義である。或時は三十三身に身を現んじ、或は棒し、或は喝し、或は默し、與奪自由、活殺自在の大用を現んじて寸分の隙なき處、是れ禪宗接化の妙用といふべきである。各宗皆所入の門あり、禪宗は無門を以つて門となす、門によらず、道に憑らず、短刀直入、「驀直にし去る」は禪の精蘂である。直指はこの意味をよく現はしてゐる。只管に眞切にして凱切、自立獨步なる所に、禪の意志的なることを明かに指示してゐる。意志に終始して能く人格の本源に徹し、情如をも禪化して人格の最も奧なる意識の流れ、生命の流れに沒入安住する。又直指にひそむ無限の努力を看取することも亦、禪を知る須要事であらう。

眞宗大谷派
第一回
大谷大學教授
橋川正
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眞宗大谷派史要
橋川正
第一章 大阪本願寺
「抑當國攝州東成郡王玉の庄内大坂といふ在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明應第五の秋下旬の頃より、かりそめながらこの在所を見初めしより、すでにかたの如く一字の坊舎を建立せしめ、當年は早旣に三年の星霜を經たりき」(帖内御文第四帖第十五通)とは、蓮如上人が入寂する前年の報恩講に當つて認めた消息の書き出しである。上人を大坂の草分けと稱するのも必ずしも贔負の説ではない。一體大坂といふ地名は右によつても知られるやうに、生玉庄内の小區域を指すのであつて、これが今日の大大阪市の名の起原をなすのである。その所謂大坂の地勢は古代の難波崎卽ち今の上本町筋が一段高くなつて、その下の坂になつて居るのを指すのであつて、南北朝頃に行はれた宴曲の熊野參詣の道中に「小坂」とあるのに當る。小坂は卽ちヲサカと讀むのであつて、京都の人が洛北の大原を決してオホハラとはいはず、ヲハラと讀むのに例しても知られるやうに、ヲサカと呼んでゐたのが、大の字を用ふるやうになつていつしかオホサカといふやうにたりたのであらう,大崎愛書氏の搬河東金石史によると和泉の積川神社の石燈籠の銘に、正平七年施主大坂加賀屋三右德門とあるさうである。この石燈籠が果してその時代のものかどうかまだ實見しないから保證はしかねるが、間違ひないとすれば、南北朝の頃から小坂、大坂、共用したものと思はれる。
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蓮如上人は明應五年九月二十四日に草坊の敷地を一覧したが、その敷地といふのは「虎狼のすみか也、家の一もなく畠ばかりなりし所也」といふそうな(拾塵記)、荒涼たる土地であつた。まさか文字通りに虎狼が出沒したとは信ぜられぬが、狐や狸位は姿を見せたであらう。ついでその月の二十九日に鍬初をして愈工事に取りかゝり、十月八日には草坊が出來上つた。いくら準備されたにしても、短い期間のエ事であるから、ほんの一字の坊舎に過ぎなかつたであらう。上人はこゝに前後三年居住したが、それも山科大坂間を始終往復して席の溫まる遑はなかつたから、後にこれが大教團の中心伽藍にならうとは豫想してゐ名なかつたに違ひない。
然しこの大坂御坊については興深い挿話がある。それは上人入寂の後、或る女性の夢に坊中に六字の名號が夥しく懸つて居ると見た。夢さめて後これを蓮能尼(上人の内室)に語つた所が、尼のいふやうにはこの夢實にもと知られた。上人の物語に自余の坊舎は門徒の懇志で出來たが、大坂の坊は名號を書いた謝禮が積つたので建立した、とあつたのと思ひ合はすといふことであつた。上人自筆の名號は現に大小殆んど無數に殘つて居て、三國に於て自分ほど澤山名號を書いた者はあるまいといふ上人の語も思ひ出されるがその謝禮の結晶が大坂御坊となつた意味を明かに示す挿話である。
本願寺の薨は山科の天空に聳え(宇治郡山科村大字西野に遺蹟がある)、蓮如(兼壽)、實如(光兼)、證如(光教)の三代はこゝに住持し、京都の公家をして莊嚴佛國に異ならずといふ嘆聲を發せしめたほど、豪勢なものであつたが、天文元年八月二十四日(時に證如十七歲)、京都の法華一揆と近江の六角氏の襲撃に會ふて、無殘にも灰燼に歸してしまつた。そこで證如は難を大坂に避けたから、教團の中心は自ら大坂に移つて、こゝに大坂本願寺の成立となり、爾來天
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正八年織田信長と本願寺との間に和議が成り、顯如(光佐)が退城するに至るまで前後約五十年の間存續したのである。
山科では寺内八町と稱し旣に寺院都市の形を具へたが、大坂でも本願寺を中心にして六町の街衢があつた。その外圍には堀をめぐらして城廓の體裁を有したから、その性質からりへば寺院都市兼城廓都市であつた。この都市については證如の天文日記や、順興寺實從の手記に成る私心記によつて如實に窺ふことが出來る。前者は天文五年から同二十三年に亙り、原本は本派本願寺に傳へられて居るが未刊である。これを史料編纂掛や京都帝國大學の寫本では二十冊に綴つて居る。後者は續眞宗全書に收められて居るから容易に見ることが出來る。寺内六町とは清水町、北町、南町、西町、新屋敷、檜物屋町(或は北町屋)をいひ、諸色の商賣の營まれて居たことは、油屋髭新右衛門、墨屋淨宗、厨子屋二郎左衞門等の人名や、扇屋、靑屋(藍染屋)、檜物屋の現はれて居ることによつて知られる。而してその市民は六町衆として本願寺から保護を受けると共に、本願寺は「領主」としての權能を有し、徵税權をも有した。要するに六町が都市として團結をなし、一種の有機的組織のあつたことは如上の史料に徵して明かである。私心記によると「町の賴子」もあつたことが判るから(永祿四年八月十日條)、金融の狀態もほの見える。當時この寺院都市以外はどうであつたかといふと、私心記に高津、渡邊、津村等の名が數へられて居るから(同年六月十一日條)、淀川のデルタに所在に村邑部落が營まれてゐたのであらう。地理的にいへば當時の大坂は、渡邊から天王寺を經て、南の方紀伊に至る街道に當つて發達した都邑であつて、證如時代の寺内六町も後には十町に膨脹し、近世都市發達の礎となつたのである。
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天文二十三年に證如が遷化したので、長子顯如(光佐)が法燈をついたが、時に顯如は十二歲であつた。本願寺の勢力は漸次強固になり、永祿元年に顯如は僧正に進み、翌年正親町天皇の勅によつて門跡に准ぜられ(私心記、二水記)、その顯榮は實に目醒ましかつた。この時信長は、威名赫々として入洛の桂冠を戴き、更に進んで西の方中國を征略しやうと欲したが、本願寺の存在はこの腹案に一抹の陰翳を投じた。そは信長の敵視した諸大名、毛利、武田、上杉、朝倉、細川、松永、三好等は何れも本願寺と姻戚關係を有するか、さうでなければ特別の舊好を結ぶものであり、北陸東海の一向一揆の勢力には侮り難いものであつたからである。本願寺と信長との合戰、所謂石山戰爭の原因として普通に説く所は、元龜元年正月信長が使を本願寺に遣して自ら築城せんがために寺基の移轉を迫つたに對して顯如はその請を容れるつもりであつたにも拘らず、その家臣門徒は信長の意中を疑つて容易に應ぜず、遂に拒絶したので信長の怒を買つたといふのである。その原因については明細を缺き、議論の余地はあるが、信長は早くも同年八月野田福島に陣を張り、先づ三好の黨を攻め、虛に乘じて本願寺を衝かんとした。然るにこの謀計は未然に漏れて本願寺の知る所となり、急檄を全國各地の門徒に飛ばしたから、蜂の巢をたゝいたやうに門徒の總動員が行はれ、熱烈を殉教の血に燃えて、本山を死守し、法敵覆滅の叫喚を舉げた。これがために、九月信長の軍は大敗して潰走せねばならなかつた。最初信長は烏合の衆と高を括つてゐたにも拘らず、この結果を見たのであるから、いやが上にもその憤怒を昂ぶらせた。
その後信長は攻圍の計畫を遠大にして、交通を遮斷して、諸國門徒の來集を防ぎ、諸大名の援助を妨げ、本願寺の糧道を斷つて自然の衰退を待たんとした。かくして信長は淺井、朝倉の兩氏を滅ぼし、その傍杖を喰つて延曆寺は燒打
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に遭ひ、近江、尾張の門徒等を無數に虐殺した。しかしこれがために殉教に燃える血潮は、火に油を注ぐやうに益々勢を増す一方であつた。信長は戰略に長けてゐたけれども、宗教的信仰に處する道には迂遠であつた。賴山陽が「拔き難し南無六字の城」と讃したのも、この意味に於て肯くことが出來やう。かくの如くにして戰時狀態は十年以上も續いたが、本願寺には少しも疲勞の色なく、恒例の法要は平常通りに行はれてゐた。
信長はいつ迄も大坂を相手にして戰つては居られなかつた。周圍の事情は一日延びれば一日だけ身に迫つて來るから、終に我を抂げて正親町天皇の勅命を請ひ奉つた。天正八年三月、庭田重具と勸修寺晴豊とが勅使として大坂に下向し、勅命によつて和を講じ、信長は七ケ條より成る誓約狀を本願寺に差入れた。元龜元年に戰端を開いてからこゝに十一年。顯如は信長の誓詞に基いて四月十日、大坂を出で紀州鷺森(和歌山)に退いた。然し法嗣教如(光壽)は開城の後信長が陰險な手段で本願寺覆滅の計に出るであらうことを疑ひ、なほ大坂に留まつた。事態穩かならぬのを見て、顯如や近衛前久は教如を勸告した。前久は顯如と舊交があり、開城講和については大いに斡旋した人である。そこで教如は重ねて信長と誓約を結び、八月二日に愈々城を信長の手に開け渡した。教如は不慮の災難の身にふりかゝることを知つたので、三日以前に微行で大坂を逃れ、紀州に赴いたが、顯如は信長の怒に觸れるを恐れて父子對面を避け義絶さへしたと傳へられる。これは單に信長を恐れるためばかりでなく、父子の間に意志の疏通を缺いてゐたのは、蓋し事實であらう。その後、信長は教如等の豫測した如く、天正十年弟信孝を遣して鷺森を征めしめた。本願寺は非常の災難に臨んで戰慄したが、意外にも信長自身が本能寺の變に遭ふて、自滅した報が攻撃軍に達したので、信孝等は倉皇軍を收めて引き上げてしまつた。かくして死地に陷られた本願寺は一生を得、一段落を告げたが、こゝに
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解決されぬ問題が殘つてゐた。それは顯如教如父子の疎隔で、やがて本願寺が東西兩派に二分する原因はこの頃から萌しはじめたのである。血潮に輝く大坂本願寺の歷史には、説くべきことはなほ多いが、始終の顛末は大體以上の如くである。終に大坂本願寺の地は、信長の死後、豊臣氏の大坂城となり、冬夏兩陣を經て、德川時代には大坂城代が置かれ、現在では第四師團の司令部所在地となつて遺つて居ることをいひ添へておく。
第二章 本願寺の分立
本願寺分立の事情に就いては、當時旣に正閏の論が起り互ひに己れを持して譲らず、ために事實の眞相を不明にした點が少くないが、周圍の事情より察していくらか眞相を捕へることが出來ぬではない。分立の遠因については前章に記しておいたやうに、光佐(顯如)、光壽(教如)父子の意思疎隔によるのである。光佐は織田信長の威權を憚つて、光壽を義絶したから光壽はやむなく紀州から奈良に入り、更に近江榎波に移住し、天正九年には安藝に赴いて、毛利氏に倚つた。輝元は光壽のために圓證寺を創めてこれに住せしめたといふ。
翌大正十年、信長は本能寺で自盡したから、光壽は紀州に父を訪ねて共に住し、十一年七月に父子共に祖像を奉じて紀州鷺森を出で、和泉貝塚に移り、更に十三年には攝津天滿に移り、こゝに前後七年間居を占めた。この間、光壽は父上人を助けて寺務萬瑞を執行した。信長が本願寺のために手を燒いたことを秀吉はよく承知してゐたから、宗教政策の方途を改めて、本願寺の庇護に力めるやうになつたが、十九年閏正月五日、光佐の請に應じて京都堀川七條の地十萬餘步を寄進して、本願寺をこゝに移らしめた。同年八月五日からエ事を起して、文祿元年十一月には影堂が落
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成した。影堂といふのは宗祖親鸞聖人の木像を安置する堂宇で、本尊を安置する本堂がまだ出來なかつたから、本尊は一時像の傍に安置されてゐた。山科以來、本願寺は兵馬倥偲の時勢に伍し、自守自衛の必要上宗門自體も武裝しなければならなかつたが、こゝに本願寺は京都に復歸することゝなり、寺基も漸く安固となつた。諸國の門葉も慶喜の心にたへず、平和の春に向ふやうになつたことを互によろこびあつて京都に群參するのであつた。
處がよろこびの中に忽ち悲しみが湧いて來た。それは同年十一月二十四日に光佐が卒中で俄かに示寂したことである。光佐は時に齡五十であつた。信樂院と號する。詳しいことは祖門舊事記殘篇に收める信樂院顯如上人御往生記に見えて居る。光佐の在職は三十八年間である。大阪以來絶えず戰塵の世に處して心勞もさこそと察せられるが、恐らくそれが命を縮める大きな原因をなしたのであらう。
光佐には三男二女があつた。卽ち一光壽、二女子、三女子、四顯尊、五光昭である。而して光佐の夫人は細川晴元の女である。一説に實は三條公賴の女で、その姉が晴元に嫁した關係で、晴元に養はれたともいふ(大谷本願寺通紀巻二)。夫光佐の訃に遭うて、十一月二十五日薙髪して法名を如春と改め、教光院と號した。この如春尼は鎌倉の尼將軍に擬せられても居るが、一面からいふと才智に長けた女性であつたらしい。本願寺分立の上から見て特に注意を要するのはその秀吉との關係である。
天正十六年九月秀吉の母大政所は病んで上洛し聚樂第に入つた。その時禁中から御所の御乳人の御局方まで迎へられ、美々しい行列であつたが、その中には本願寺北の方の名も見えるのである(山科言經卿日記)。これだけならば單に大政所の上洛を迎へたに過ぎぬが、本願寺文書の中には北の方へ宛てた秀吉の書狀數通を收めて居るのであつて、
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たとへば、
ぼん(盆)のしうぎ(祝儀)として、かたびら(帷)五ならびにだうぶく(道服)たうらい(到來)、よろこびおぼしめし候、さてはこのおもて(表)の事、くわんとう(關東)八しう(洲)、お田わら(小田原)のこる所なく、おほせつけられ候くわしくかうざうす(孝藏主)申べく候也
七月十一日 (秀吉朱印)
てんま(天滿)北のかたへ
みち(路)のほど(程)、見まひ(舞)としてさうさう(勿々)つかひ(使)、さし(差)こ(越)されこと(殊)にだうぶく(道服)ふたつ、をくり(送)給候、まことにはるばるの御こんし(懇志)、よろこび入候、やがてかいぢん(開陣)すべく候まゝ、その時をごし候あなかしこ
三月十四日 ひで吉
北の御かたへ申給へ
前のは文面より見て天正十八年七月、小田原役の時のもので當時天滿に在つた本願寺北方の見舞を謝したものである。後者も同樣陣中見舞の禮狀で、この外後正月二十三日の日附ある書狀(恐らく天正十九年であらう。天正十一年にも正月に閏があるが)も殘つて居る。
更に又朝鮮役が初まつて秀吉の名護屋在陣中、北方は見舞を寄せたことがある。秀吉の禮狀は左の如くである。
みまひ(見舞)として折二ならびにあまのたる(樽)二給候、こゝほどにてはめづ(珍)らかに、おぼしめされ候、このはうへははるばるの事にて候まゝ、かさねてはわざとひきやく(飛脚)もむよう(無用)にて候、つぎにかうらい(高麗)のゑづ(繪圖)つかはされ候、もんぜき(門跡)
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へも、しんもんぜき(新門跡)へも、又こうもんりもん(興門理門)いづれも御みせ候べく候、なほかうざうす(孝藏主)かたより申候べく候也
五月十三日 (秀吉朱印)
北のかた
秀吉は返禮として高麗の地圖を贈つたのであるが、現に本派本願寺に傳へてゐる混一彊域歷代國都之圖がこれであらう。この地圖は支那に於ける地圖發達の上から見ても珍重すべきものであつて、明の惠帝建文四年卽ち日本でいへば應永九年に出來たのである。當時としても容易に手に入りさうもないものを旁々北方に贈つた秀吉の慇懃は格別であつて、同時に北方の辣腕の並々でなかつたことが想はれる。文中新門跡とあるのはいふ迄もなく光壽で法嗣に定まつて居たことは明かである。而して興門とは興正寺顯尊、理門とは理光院光昭で、光佐の三人の男子を指すのである。
光佐遷化の報を聞いて秀吉は十二月十二日附を以て北方と新門跡光壽とへ書狀を送つて居る。文面二通とも略同じく、總領の光壽が相續すべきことはいふ迄もなく、新門跡は門跡本坊へ移居あるべく、もとの新門跡屋形に理光院光昭を移し、北方一所にあるべしと令して居る。悔みを述べた詞の續きに「よき子たち御もち、たゞ果報者にて候」と北方を持ち上げた秀吉も中々拔目がない。
光壽はこゝに於て第十二世の法燈を傳へたが、文祿二年の春自ら肥前に赴いて秀吉を訪ひ、襲職したことを告げた。本願寺通紀に光壽が自ら立つて宗主の位を踐む等と記すのは、もとより誣言であつて、實際を誤り傳へるものである。その後秀吉は攝津の有馬溫泉に病を養ふために滯留したが、(文祿二年閏九月)如春尼も光昭をつれて入湯に赴
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いた。(駒井日記)尼としては季子の光昭が可愛くてならぬといふ人情に牽かれて、光昭に法燈を嗣がせたいのである。そこで尼は亡父の意志であると稱して、光照を法嗣たらしむべく秀吉を説き伏せ、終に秀吉の同意を得るに至つた。かくしてその後發表されたのが光佐の譲狀である。譲狀の全文は左の如くである。
譲渡狀
大谷本願寺御影堂御留守職之事、可為阿茶者也、先年雖書之、猶為後代書置之候、此旨於違背輩在之者、堅可加成敗者也、乃譲狀如件
天正十五丁亥曆極月六日 光佐(花押)
阿茶御かたへ
宛名の阿茶は阿茶丸の略稱で、光昭の幼名である。これによると光佐は示寂前五年に書いたのであるが、それが示寂後一年を經て發表されたので甚だ審かしい點があり、文言も亦調ふて居ない。この譲狀については當時から眞偽の論があつたが、その案文と稱するものが京都市德正寺に傳へられて居る。その内容並びに外形の上から考へ、その發表の手續より見て、この譲狀は怪しむべきものであるが、秀吉は尼の情を容れて、譲狀通りに光昭をして襲職せしめたのである。秀吉が尼の意志の如くに動いたについては、一朝一タのことではなく、以前からの尼の厚情手腕によることは疑ひない。と同時に石山開戰當時、光佐、光壽父子が進退を異にしたことも考慮に加へなければならぬのであつて、如春尼一人が責を負ふべきものでもなからう。
家臣等の中には、譲狀の偽作なることを主張して憤慨した者もあつたが、光壽は母の意に背くことを畏れ、秀吉の
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命の如くに文祿三年九月職を弟に譲り、自分は退隱した。光昭が卽ち准如である。時人光昭を呼んで表の門跡といひ、光壽を裏の門跡と稱した。當時本願寺は北隣の本圀寺と同じく西向であつたから、裏といふのは本願寺の背面卽ち東を指すのであつて、そこに光壽の館が在つたのである。母如春尼は慶長三年正月十六日に遠行した。
慶長四年十一月、光壽は正信偈三帖和讃を刊行した。これは文明五年に兼壽(蓮如)の開版したものが「破減」したから再興したのであるが、光壽は巻尾に「教如(花押)」の署名を附して世に行はしめた。退隱後の光壽の意途はこの開版によつてもほゞ察することが出來る。翌五年六月上杉景勝を伐つべく出羽に赴いた德川家康を訊ねるために、光壽は七月二日に出京して、下野小山に於て家康に會つた。時に石田三成は家康の歸洛を擁するために信濃に軍を出したが、光壽は歸途この三成の軍に遮ぎられ、危險を冒して京都に潜行した。漸くのことで八月十七日に光壽は歸京することが出來た。
處がその翌月には關原の役が行はれ、三成の軍を破り威容をとゝのへて家康は西上した。光壽は家康を大津に迎へたが、家康もさる者で光壽を下へも置かぬ叮重さを以て歡待した。家康は一向一揆に對する苦い經驗を味はつて居たから、深慮のあつたことは明かで、光壽をして復職せしめようとした。然しこの時光壽はそれを固く辭退した。六年八月十五日光壽は家康を伏見城に訪れたが、翌日家康は光壽の館に赴いた。かくして家康と光壽とは次第に厚誼を以て結ばれるやうになり、七年二月に至り家康は烏丸七條の地、方四町を寄せ、更に堂宇を興して光壽を立てゝこゝに居らしめた。三月九日、光壽は遂に職に復した。時に四十五歲である。光壽が愈々烏丸に移るについて、家康に請うて廄橋(今の前橋市)妙安寺の宗祖木像を迎へることになつた。妙安寺はもと下總猿島郡に在つて、成然を開基としそ
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の宗祖木像は親鸞の自作と傳へるものである。この祖像は慶長八年に着京し、六月八日に烏丸の本願寺に入つた。世人は方位の上から堀川にあるのを西本願寺(卽ち今の本派本願寺)、烏丸にあるのを東本願寺(卽ち今の大谷派本願寺)と呼び、こゝに本願寺の分立を見るに至つたのである。
本願寺の沿革からいへば、その分立はいはゞ近代化である。中世の時代ひたすら外圍に向けられた勢力は、こゝに内部の競立と變化した。家康に果して本願寺を二分してその勢力を殺がむとする意志があつたかどうか忖度の限りでないが、その結果の方面からいへば幕府の宗教政策上好都合をもたらしたのである。本願寺の兩派對峙には、新義眞言宗に於ける豊山智山兩派や、曹洞宗に於ける能山越山兩派の軋轢に彷彿たるものがあつて、本願寺分立後、正閏論が沸騰した為に、一時は宗門を舉げてその渦中に捲き込まれてしまつた。寛永十五年に西派の方から、先づ表裏問答が出版され、これに次いで金鍮記、東林更鳴集等が續々著はされて盛んに東派を攻撃した。こゝに於て東派からは、翻迷集、嫡庶問答、本願寺由緒通鑑等が發表され應戰に怠りなく、問題は益々紛糾して容易に解決の緒を見出すことが出來なかつた。分派の當時に於てさへ事情は決して單純でなかつたのであるから、時日の經つに隨ふて眞相は益々沒却され、感情上の問題と化し、兩派の反目は頗る深刻となつた。中世の時代に活躍した獅子はかくして惡夢の眠りに耽つたのである。因みにいふ本願寺分立當時の主權者、信淨院光壽(教如)は慶長十九年十月五日、壽五十七を以て遷化し信光院(はじめは理光院)光昭(准如)は寛永七年十一月三十日、壽五十四で示寂した。

日蓮宗
第二回
祖山學院教授
高田惠忍
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第二項 遠近二序と正顯
上述せる如き壽量品の如來は孤然として壽量品に顯はれたかといふにさうでない。壽量品正顯の前梯にその遠因ともいふべき寶塔品の遠序と、その近因ともいふべき涌出品の近序とあることを知るべきである。
請ふ此遠近二序を前梯としてどうしてもかうしても壽量品正顯を説かざるを得ざりし次第を少しく述べて見やう。先づ遠序から述べると。
丁度壽量品より五品前に寶塔品第十一といふがある。此品の大要は藕益のいへる如く、
「寶塔品は多寶佛の塔地より涌出し、大衆咸見、大音聲を發して以て前を證し、佛を集め塔を開いて以て後を證す」(法華綸貫講要六十三紙)
とて、此一品は前の迹門を證し、後の本門を起すといふ二ツの要點よりなつて居る。その要に以為らく、爾時に佛前に七寶の塔あり、高さ五百由旬、縱廣二百五十由旬であつて、地より涌出して空中に在る。爾時に寶塔の中の古佛多寶は大音聲を出して歎めて言ふには、善哉善哉、釋迦牟尼世尊、能く平等大慧の妙法蓮華經を説き給ふ。是の如く釋迦牟尼世尊所説の如きは皆眞實であると證明した。是が所謂前の迹門の所説を眞實也と證する所の證前となるのである。この後局面は進一轉して十方分身が諸佛來集して茲に諸佛皆釋尊の分身たる義が顯れた。是に於て是の如き多數の分身を有する本佛釋尊の正體如何といふことになつて來る。故に分身來集に依つて化の廣きを顯すは以て本門の能化の久遠の實事を顯す由漸となるので、之を起後といふ。その要に以為らく、爾時に東方の釋迦牟尼佛の分身の諸佛
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此に來集し、乃至次第に十方の諸佛皆悉く來集して八方に坐し給ふた。是時諸佛各寶樹下の師子座に坐し、皆侍者を遣して釋迦牟尼佛を問訊し給ふとある。此寶塔品の遠序につき日蓮上人は開目鈔の中に
「證前の寶塔の上に起後の寶塔あて、十方の諸佛來集せる、皆我が分身なりとなのらせ給ひ、寶塔は虛空に釋迦多寶坐を竝べ、日月の靑天に竝出せるが如し。人天大會は星をつらね、分身の諸佛は大地の上へ寶樹の下の師子の牀にまします。乃至これ壽量品の遠序なり。」(御遺文785P)
此分身の中には彌陀も藥師も大日も盡く居る。之を天台は
「分身旣に多し、當に知るべし、成佛の久しきことを」
といつて居る。分身旣に是の如く十方より來集した。その本佛釋尊はいかに古佛であらうかといふことは、當然起り來るべき問題であらねばならぬ。是が實に本門壽量品正顯の遠因であつて、之を以て壽量正説の遠序といふのである。然らば次にその近因たる近序は如何
壽量品の前品涌出品第十五がそれである。藕益は此品の要旨を述べて
「下方空中の法身の大士は是れ釋尊本時の弟子なり。今命を奉け涌出して經を弘む。彌勒すら尚ほ自ら識らず、此に由て開近顯遠の大教を發起する也。」(綸貫六十九紙)
とある。卽ち命に依つて本化の弟子上行等の四大士を上首とする六萬恒沙の菩薩が大地の淵底より涌出し來る。然るに時の大衆は補處の彌勒さへも此等の菩薩の一人をも知らずといふ。乃て譬へを設けて、譬へは少壯の人、年始めて二十五なる人に、百歲の子の髪白く面皺めるを見て是等は自分の子であるといひ、白髪の人も年少の人を指して吾父
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なりと説かん、父は少くして子は老ひたり、世を舉げ信ぜざる所ならんが如しといふて大に怪んだといふことである。日蓮上人は此近序を開目鈔に述べて左の如く言ふてをる。
「其上に地涌千界の大菩薩大地より出來せり。釋尊に第一の御弟子とをぼしき普賢文殊等にもにるべくもなし。乃至此菩薩に對當すれば獮猴の群る中に帝釋の來り給ふがごとし。山人に月卿等のまじはるにことならず。補處の彌勒すら猶迷惑せり。何に況や其已下をや。)乃至
「或者道をゆけば路のほとりに年三十許りなるわかものが八十許りなる老人をとらへて打けり。いかなる事ぞととへば、此老翁は我子也なんど申すとかたるにも似たり。」
「されば佛此の疑を晴させ給はずは一代の聖教は泡沫に同じ、一切衆生は疑網にかゝるべし。壽量の一品の大切なるこれなり。」(御遺文785-9P)
是蓋し涌出品には佛の命に依つて本化の大士が大地の淵底より涌出したのであるが、弟子已に久遠の古き弟子であつて見れば、その師たる佛陀は久遠成道の佛陀でなければならぬ筈である。旣に涌出品に久遠の弟子が登場し來る以上、ついでその師の本地はどうしてもかうしても顯發しなければならぬわけである。是れ壽量正顯に對して、誦出品がその近因たり近序たる所以である。
旣に遠近二序は整つた。乃ち壽量品巻頭、壽量正顯の大事を扣發するに先だち、佛諸の菩薩及び一切の大衆に告げて、善男子、汝等當に如來の誠諦の語を信解すべしと三たび大衆の決定信を促すや、彌勒を始めとして有ゆる一座の大衆は合掌して佛に向ひ、世尊よどうぞ御説きなされて下さい、私共は當に佛のみ語を信受致しまするからと三た
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び請ひ求めたので、乃て如來は始めて次に壽量本佛佛陀論の正語を宣暢したのである。而も塵點實成の正顯を説くに先だち、當時の一般の考慮(之を昔の情謂といふ。)を舉げて、一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釋迦牟尼が釋氏の宮を出で、伽耶城を去る遠からざる道場菩提樹下に於て正覺を成じたと謂つてをると昔の情謂を舉げ、次に正しく塵點實成の正説に及び、然るに善男子、我れ實に成道してより已來無量無邊百千萬億那由多劫である。譬へば五百千萬億那由多阿僧祇の三千大千世界を抹して云々と五百億塵點實成の久遠成道を説きしことは前節略述べし如くである。
凡そ壽量正顯の佛陀は上述の如き遠近二序に依てどうしても之を説かざるを得ずして説けるものであることは上述略之を明にしたが、さてこの壽量本佛こそ日蓮宗本尊の正體であつて、この本佛一體を表現せしが教門佛本尊であり、この本佛の文底に顯發さるゝ事一念三千觀に依て本佛と我等との感應の關係として圖示せるものが十界の曼荼羅卽ち觀門曼荼羅本尊である。故にその本尊義に於ける佛の本體はこの壽量本佛より外にないのであるから、この壽量正顯の佛陀觀を日蓮上人の遺文を透して見ることが最も大切であると信ずるから、左に開目鈔、法華取要鈔、本尊鈔に顯れたる佛陀觀を檢しやう。開目鈔に云く
「かうてかへりみれば、華嚴經の台上十方、阿含經の小釋迦、方等般若の金光明經の、阿彌陀經の、大日經等の、權佛等は、此壽量品の佛の天月しばらく影を大小の器にして浮べ給ふを、諸宗の學者等近くは自宗に迷ひ、遠くは法華經の壽量品を知らず、水中の月に實月の想をなし、或は入て取んとをもひ、或は繩をつけてつなぎとゞめんとす。天台云く不レ識二天月一但觀二池月一等云々」(御遺文765P)
「今久遠實成あらはれぬれば東方の藥師如來の日光月光西方阿彌陀如來の觀音勢至、乃至十方世界の諸佛の御弟子、
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大日金剛頂等の兩部の大日如來の御弟子の諸大菩薩猶教主釋尊の御弟子也。諸佛釋迦如來の分身たる上は諸佛の所化申すに及ばず。何に況や此土の劫初よりこのかたの日月衆星等教主釋尊の御弟子に非ずや。」(御遺文791P)
法華取要鈔に曰く、
「教主釋尊は旣に五百塵點劫より已來妙覺果滿の佛なり。大日如來阿彌陀如來藥師如來等の盡十方の諸佛は我等が本師教主釋尊の所從等也。天月の萬水に浮ぶ是也。華嚴經の十方臺上の毗盧遮那、大日經金剛頂經の兩界の大日如來は寶塔品の多寶如來の左右の脇士也。例せば世の王の兩臣の如し。此多寶佛も壽量品の教主釋尊の所從也。此土の我等衆生は五百塵點劫より已來教主釋尊の愛子なり。」(御遺文1038P)
觀心本尊鈔に云く、
「教主釋尊は五百塵點已前の佛也。因位も又是の如し。其れより已來十方世界に分身し、一代聖教を演説して塵數の衆生を教化し給ふ。本門の所化を以て迹門の所化に此校すれば一滴と大海と一塵と大山と也。本門の一菩薩を迹門の十方世界の文殊觀音等に對向すれば猨猴を以て帝釋に比するに尚ほ及ばず。」(御遺文934P)
以上はたゞ日蓮上人の見たる壽量本佛正顯の代表的文献である。この壽量本佛は寶塔品の分身來集と誦出品の本化誦出を遠近二序として正顯さるゝものであることは前來縷述する如くである。かくして顯はされたる壽量本佛は要するに從來佛教經典上に上り來る有ゆる佛陀を統一してその本原本體を知らしむるにある。例へば華嚴の盧舎那佛、眞言の大日如來の如きは、この佛の智惠若くは理の方面を部分的に抽出したものであり、彌陀藥師の如きは、此佛の悲の一面を抽出せしに過ぎない。又本化の大士はこの佛の久遠の御弟子であることを顯し、所化の古きは以て能化の古
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く、所化の貴きは以て能化の貴き所以を顯すと共に、この本化の大士にして此の佛の御弟子たる上は爾前迹門に登場し來る有ゆる菩薩、ニ乘、凡夫、總じては九界の一切衆生乃至滅後盡未來際より過去遠々の九界に至るまで盡くこの本佛果海の九界たることを推知するに難くないのである。
要するに壽量正顯の佛陀は三世無窮に、十方周遍して登場し來る有ゆる佛菩薩二乘凡夫、總じて九界の一切衆生を盡くその本覺果海に攝取する所の理智悲具備の本原的大佛陀であつて、この本佛を顯す為めにこそ遠近二序をその前梯とすることを諒すべきである。一言にしていへば、遠近二序と壽量正顯の關係はたゞこの佛の統一的大佛陀たることを顯すにある。
第三項 毎自悲願と六或示現
上述せる如き壽量本佛の無始無終三身圓滿の統一的大佛陀にして、伽耶始成の釋迦卽ち史上の釋迦より久遠實成の釋迦に(以上文上、天台か文句廿五卷五十一丁に今は正しく本地報身の功德を詮す、而も報身の智惠は上冥下契三身宛足す、故に如來壽量品といふといふ所の通名三身別在報身の説は全く今の文上壽量に止るもの也)久遠實成の釋迦より無始實在の釋迦に(卽ち文底本佛、日蓮上人の本尊鈔に於ける所顯の三身にして無始の古佛といひ、灌頂鈔の無始本覺の三身なりと雖も且く五百塵點劫の成佛を説くとは此謂である。日蓮上人以前日本中古天台の諸師之を説きしも文上と不離せる文底を取りし故却て理法身に同じ、日蓮上人は文上の報應顯本に卽する文底無始の實在をとる故理法身に堕せず事法身となり、無限絶對の形而上學的實在たると共に絶對悲の人格の如來たる意義を沒せず、委しくは後文之を縷述するであらう。)到達し、かくして宇宙の大實在と一如せる點は法身佛であり、五百億塵點の當所實に成道せし點は報身佛であり、已來世々番々身を十方に周遍して攝化一時も息まざる點は應身佛である。然して理想釋迦の一身に於てこの三身を具備するから、之を無體三身の佛陀といふ。
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而も三身中、宗教の客體として、信仰の對象として最も尊ぶべき點は理智の二面に非ずして、悲の一面に在る。その人格實在としての重要の要素は偏に茲にあらねばならぬ。理よりは智の、理智よりは悲の大佛陀に於て渇仰の念涌然として涌く。開目鈔の
「法華前後の諸大乘經に一字一句もなく法身の無始無終はとけども應身報身の顯本はとかれず。」(御遺文766P)
とは此謂でなくてはならぬ
今壽量本佛の三身卽一の如來であつて、實に理 法身 智 報身 悲 應身 具備の如來であり、從て文上 報應二身 卽文底 法身 始覺 報應二身 卽本覺 法身 の如來であると共に、實に大慈悲結晶の人格的實在の如來たるの實を展開せんに、その要は毎自悲願と六或示現の二つに盡きて居る。
蓋し此三身卽一、理智悲具備、始覺卽本覺の如來の大悲の淵源たる悲願何物ぞやといふに、壽量品の結文たる
「毎に自ら是念を作す、何を以てか衆生をして無上道に入り、速に佛身を成就することを得せしめん。」
の四句がそれである。毎とは無始以來三世を通じて曾て思念せざることなきをいふ。自とは三身卽一にして、始覺卽本覺の人格實在の釋迦牟尼佛をいふ。是念とは盡十方三世の一切衆生を救濟せんとするの悲願をいふ。何を以てとは廣くは六塵の手立を以て、正しくは形聲ニ益を起し、六或示現して化導周遍なるをいふ。衆生とは普く萬差の衆生を攝取して餘すなきをいふ。無上道とは天台に約すれば實相為體の法華經の謂ひなれど、日蓮上人に約すれば本佛禮讃の法華經の謂ひ卽ち題目宗の謂である。速とは歷劫迂廻に簡ぶ所の速悉頓證の謂である。成就佛身とは天台に約すれば理觀精に依て卽身成佛を期するの謂であるが、日蓮上人に依れば本佛本尊に對し、題目を受持信行すること
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に依て卽身成佛を期するの謂である。
以上の四句こそ壽量本佛の絶大の悲願であつて、この意密輪の悲願に根據するが故に、六或示現の形聲二益の身口兩密輪が起つて來るのである。
然る時彼の大無量壽經詮顯の彌陀の六八の悲願、藥師佛の十二誓願等に對し、壽量本佛を以て統一的大佛陀となすにかゝはらず、その毎自悲願の量に於て餘りに貧弱なるをいふ者あるも知れぬ。然るに法華以前の悲華經には釋迦佛の五百大願を説いてあるから、その數に於て彌陀藥師の誓願以上である。旣に爾前經に於て釋迦佛の五百大願を説くが故に、今法華は毎自悲願の四句中に彼を總括的に打込んで以てこの佛の如何に絶大の悲願に燃えつゝあるかを顯するものに外ならぬ。之を稱して天台は
「當に知るべし、此經は唯如來説教の大綱を論じて綱目を委細にせず。」
といひ、荊溪は
「皮膚毛綵出でゝ衆典に在り。」(ニ文共に本尊得意鈔に出づ御遺文1331P)
といつた。悲華經に五百の大願あり、法華經に毎自悲願の四句のみあつて、彼を此に總括し來るの意以て了すべきである。
草山集中「南紀澄公に復するの書」といふがある。その要に以為らく、承るに公は近ろ三七日精進の間偶〃本師釋迦佛の坐像を得たといふことで、その高け尺六寸あり、その古きことは幾百年を知らず、而も全身毫も損せず、端嚴殊特世にも希有なる佛像であると。そこで澄公は發願して妙經の寫本と、悲華經の五百大願を腹ごもりにした。蓋しそ
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の意趣は佛心恒に一乘に住し、願々衆生を忘れざることを示すにあると。余之をきゝ未曾有なりと嘆する久し。謂へらく世佛に奉ずる者は多い、然しながら我れ未だこゝに及ぶ者を見ない。と推稱幾次の後、元政上人は悲華經の五百大願と壽量品の毎自悲願との關係を述べて次の如く述べてをる。
「蓋し法華は骨目なり、總願なり。悲華は毛綵なり、別願なり。骨目毛綵倶に成り、總願別願相備はる時は、則ち、悲華法華體内の權實醇乎として醇なる者也。」(草山集二地之一〇)
以て壽量品の毎自悲願の悲華經五百大願の別を綜ふるの總願たることを見るべきである。この總願の意密輪に立脚して、十方三世に周遍して六或示現以て形聲ニ益を與ふべく、身口兩密輪を用ふるのである。六或示現とは經文に曰く、
「或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す。」(壽量品)
と。右に付文句九には己身を法身、他身を應身となし、玄義五には己身を法身、報身となし、他身を報應二身としてをる。然るに玄義二及十には共に己身を佛界とし、他身を九界として居るが、今はこれに依る玄義十に云く、
「己身とは是佛法界の像なり、他身とは是れ九法界の像なり。」(六十六紙)
要するに天台では六或示現とは壽量本佛がその形聲二益を與ふべく、或は佛界の身を現じ、或は九界の身を現じて縱に三世に、横に十方に周遍して、普く衆生を利益して止まざるの謂ひである。
更に日蓮上人は右の説を層一層擴充し、徹底せしめて、この始覺卽本覺の本佛無窮の妙用として十法界に約する絶對的解釋を加へて居る。日眼女釋迦佛供養事に云く、
頁二〇
「法華經の壽量品に云く、或は己身を説き、或は他身を説く等云々、東方の善德佛、中央の大日如來、十方の諸佛、過去の七佛、三世の諸佛、上行菩薩等、文殊師利、舎利弗等、大梵天王、第六天の魔王、釋提桓因王、日天、月天、明星天、北斗七星、二十八宿、五星七星、八萬四千の無量の諸星、阿修羅王、天神、地神、山神、海禪、宅神、里神、一切世間の區々の主とある人、何れか教主釋尊ならざる。天照太神、八幡大菩薩も其本地は教主釋尊也。例せば釋尊は天の一月、諸佛菩薩等は萬水に浮ぶる影なり。釋尊一體を造立する人は十方世界の諸佛を作り奉る人なり。譬ば頭をふれば髪ゆるぐ。心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず。大地うごけば大海さはがし。教主釋尊を動かし奉れば、ゆるがぬ草木や有べき、さはがぬ水や有べき(御遺文1831P)
開目鈔の本佛觀も殆ど今と同致といつてよい。その或示他身を説く場合の如何に廣汎なる絶對的解釋に立つかを見るべきである。日蓮上人の屢〃諸天善神の信仰を説くもの、全くこの或示他身の立場に立つものに外ならぬ。さる場合吾人は宜しく他身を己身に攝末歸本せしめて、以て益々本佛曠世の大慈悲に感激しなくてはならぬ。
第四項 本門佛陀論結言
荊溪は迹門を以てその正意實相を顯すにあり(前出)となせるに對して、本門を以て
「本門の正意は佛壽の長遠を顯すにあり」(玄義會本一ノ上十一右)
といつて、爾前迹門に於ては教主釋尊を以て今番出世して伽耶山下に始めて成道せし伽耶始成の佛となすに對して、否々我は五百億塵點の過去に成道せる佛にして、以來世々番々毎自悲願を以ての故に六或に示現して衆生教化曾て息
頁二一
まざる佛であると佛壽の長遠を顯すことがその正意であるといつたのである。
之を惠澄和尚は迹門を以て實相の成佛の原理論顯れて初めて所化の教益の實を究むるにありとなせるに對して、本門を以て
「本門は能化の化用の實を究む」(法華綸貫講要十九紙講要)
と定義して居る。かやうに見て來ると、迹門は實相佛性、本門は佛壽長遠、迹門は所化の教益の實、本門は能化の化用の實と相對立してその間に勝劣なきかといふに、天台は義例の中に止觀の實踐論を以て法華本迹の顯實の理(實相は本迹の通體とする。)に根據すといひ、玄義會本一ノ上には本門の佛壽長遠を以て迹門の實相を證得せる妙用を佛陀の上で示せるものと解釋して本迹實相體同論(但し日蓮上人は體別論に立つ後文之を委くするであらう。)を主張せるにかゝはらず、僧肇の用ひたる本迹の名を襲用せるからが已に本門を重んずるの證であり、且つ玄義の同個處に於て荊溪は爾前法華相對して、先づ法華迹門と爾前とでは或同或異といつた。謂ふ所の或同或異とは爾前と法華迹門とでは教に約する時は今圓昔圓圓體無殊であるから別して與へて昔爾前迹同となす。然るに部に約するに法華の圓は開顯の圓であり、爾前の圓は帶權の圓であるから、通じて奪て昔迹異とするのである。之を或同或異と稱し、迹門は教に約しては或は爾前に同じ、部に約しては或は爾前に同ぜずの意である。然るに法華本門と爾前と相對しては「本門一向永異」と稱して佛壽の長遠は絶えて、本門以前に之なく、迹門にさへ之なし、況や爾前をや。卽ち本門の所説たる佛壽の長遠は一向永く爾前に異なりの意である。卽ち天台の當所でも迹門よりは本門を重ぜしこと以て見つべきである。一體日本上中古天台が本門思想を高潮せる所以のもの實に荊溪のこの本門一向永異の説にその源泉を汲むべきである。吾日蓮上人出でゝ日本天台の本門思想を繼承して
頁二二
彼の教門を輕ずる唯觀心の堕落思想を矯正して、眞の意味の本門思想たる宗教觀に復活してこの壽量本佛の文底は沈潜して、この本佛は實に無始の實在にして而かも久遠の釋迦に伽耶始成の釋迦に卽する始覺卽本覺の如來たることを發揮して形而上學的の絶對實在(法身の義)たると共に、絶對善、絶對悲(報應二身の義)の如來たることを發揮したのであつて、立教の基礎を本門の佛陀論においたそれが實に日蓮上人獨特の使命である。日蓮上人の壽量本佛にまで進みて初めて宗教學者シユライヱルマツヘルのいみぢく道破せし「信仰とは宇宙感情なり、宇宙の直觀なり」の意義に吻合して餘りある。上人の文底の實在に進みて而も文上久遠實成及伽耶始成を捨てざる始覺卽本覺の如來に於てこそ宇宙の直觀もあり、人格實在の感情も涌然として湧き來るのである。上人が如何に壽量品を重んじたるかは壽量品得意鈔の左の文に之を徵すべきである。文に曰く。
「一切經の中に此壽量品ましまさずば天に日月無く、國に大王なく、山海に玉なく、人にたましゐ無らんがごとし。されば壽量品なくしては一切經いたづらごとなるべし。」(御遺文670P)
この壽量品に立脚して法華一部を見たのが日蓮上人の一部唯本の法華經觀(天台は迹門實相論に立脚して一部を見たから一部唯迹の法華觀である。)であつて、それを題目五字に打こめたのが上人の末法應時の題目宗であつて、題目は形式は法でも、その内容は壽量本佛の絶對人格のみ名である。然してこの題目をそのまゝ對象化せし時本佛本尊となる。されば前文の連文に
「所詮壽量品の肝心南無妙法蓮華經こそ十方三世の諦佛の母にて御坐し候へ。」(御遺文670P)
とある、以て見るべし。以上は日蓮宗より見たる法華經觀の概略である。

法相宗
第一回
興福寺貫主
佐伯良謙
頁一
法相宗講説
佐伯良謙
現在日本が持つて居る都べての思想中で、若し世界的の大思想として、眞に價値あり意義あるものを求むるならば或は他にも一二の數ふべきものはあらうが、その最も高遠なる哲理を有し、而してそれが實踐道德の標準となり、又た世界的普遍性の素質にてありながら、而かも善く民族的思想の根基を成して居るものは、卽ち是れ我が佛教々理そのものでなければならぬ。そして特に今云はんとする所の大乘佛教思想は、超世間的にして而して世間に卽し、世間に卽しながら而かも超世間的である所に、眞個宗教の價値と意義とが認められるのである。
この思想は元と印度に發達したのであるけれども、今は印度に亡んで無く、又た支那にも大發達をしたのであるけれども、今は支那にも亡んで求むることが出來ない。(而かし目下はその復興に急ぎつゝある)幸に日本の國に保存せられて、一面には道德、宗教として國民思想の間に根ざし、他面には教理、哲學として、佛教各宗間に嚴存されて居るのである。
そとで此の思想の研究は、今や獨り佛教徒の事業のみでなく、廣く日本學界の研究題目とならねばならぬ。
爾るに此の大乘佛教は、茍且にも八宗九宗、十三宗五十八派と云ふ樣に、各宗各派がそれぞれ發達分立し、各その教義信條を具へて居るのであるから、一概に辯じ去ることは出來ないが、而かし今私は私の宗旨である法相宗に付て、本宗が如何に印度大乘佛教の正系なりしや、隨つて如何に后來の大乘佛教の基礎を成し居るか、更に進んで本宗
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教學の根本個條は如何なるものなるかを辯じ、以て其の責を塞ぐことゝする。幸に讀者諒解あらんことを。
第一章 名稱
先づ本宗には種々の宗名がある。
一、法相宗
これは普通用ふる所の宗名であつて、傳通要錄に、法とは萬法、略すれば百法、相とは萬相、略すれば三相と云つてある。卽ち百法とは世親の大乘百法明門論所説の宇宙森羅萬象の分類法であつて、心王に八、心所に五十一、色法に十一、不相應に廿四、無為に六である これを五位百法と稱す 此の五位百法は萬有を百に分類し以て學者研究の基礎材料を提供したものである。その一々の説明に付ては唯識論以下の各書に出て居るから、今は之を略する。次に三相とは。遍計所執相、依地起相、圓成實相の三にして、解深密經、瑜伽師地論以下、各祖書の所説である。これは一切萬法を總括して、(又は一々に就て)之を縱斷的にその内容を觀察せんとしたのであつて、前の百法の陳列的なるに對し、これはその内容觀と云ふべきである。卽ち此の三相は彼の百法の場合の如く色心等の別を見ず。百法の全體に付いて又は一々に付いて、深く其の内容を觀察して、遍計所執、依他起相、圓成實相の三重とし、以て萬法の一々が如何に中道實相の顯現なるかを知らんとしたのである。
先づ遍計所執とは、吾人迷界者の意識がその萬法に對するとき、その意識上に浮べる現影にして、これ周遍計度の虛妄意識に執着せらるゝ所の物と云ふ意味である。卽ちこれは虛妄意識上の虛妄現影なれば、體用都無の中間存境な
頁三
りと云つてある。次に依他起相とは、所謂萬有の諸法そのものが卽ちこれであつて、所謂物質界も、精神界も、すべて萬有現象なるものは、皆これ本來決定的個性がある譯でなく、萬有は只萬有自亡以外の他の衆緣 卽ち万有を生ずべき正しき原因事情 に依つてのみ生起さるゝが故に、之を依他起相と云つたのである。乃ち依他起の名稱は、善く佛教獨自の萬有解決の眞精神を顯はし、以て昔日印度の諸外道並に近代的理化學者の根本意思に對し、一の大なる相異點を看取することが出來るのである。次に圓成實相とは、前の現象界卽ち依他起の上に具有せる眞理界にして、現象界は依他起の名稱が顯せる如く非決定的存在なるも、今此の眞理界は、本來法爾として圓滿、成就、眞實なれば、之を圓成實と云つたのである。そして此の眞理界なるものは、前の依他起に對するに、これ依他起の諸法の依つて生ずべき眞實理界なれば、本より依他起に離れて、自と別體あるにあらずと云へども、又た依他起に卽すとも云ふことが出來ない。所謂不一不異の關係にして、又表裏不可分の間柄に在るものである。そしてその實質の解釋に就いては佛教各宗間に於て最も大なる問題とされて居るけれども、今本宗としては、眞理とは依他起の諸法が如實に生滅せるそのことが已に眞實不動であるから、こゝの所を眞理と云ふのであつて、決して依他起以外に別に一大勢力底のものがあり、萬法はこの力に依つて發生すなどゝは云はれないのである。若し左樣な眞理なるものが嚴存するなれば、それは外道執着の眞理であつて、諸法元始論の眞理と云ふべきである。こゝに於てか本宗として萬法發生の根源を別に有為界の阿賴耶識に求め、以て賴耶緣起の説を主張し、同時に眞如緣起の學説に向つては斷然之を信受せざらんとする所以である。そは兎に角今此の三性説は、一切萬有の如何なる微物も、萬有その當相はこれ依他起にしてこれは必らずその生ずべき正道理に依つて生じ又滅しつゝあるものなれば、此の生滅の當相は實にこれ千古不易の眞理にして所謂事理性相不一不
頁四
異の關係を成して居るのである。そしてこれが又一方吾人迷界の意識に對するときは、その依他の生滅如幻、並にその生滅如幻なることの眞實不變なる正解を成し得ずして、虛妄意識の認識する所は、所謂遍計所執の現影なるものを現作して之を觀察して居るのである。そこでつまり一切萬法は一々三性を具足し、遍計の故には有にあらず。依他圓成の故には空にあらず、卽ち一色一香も皆これ中道實相の顯現なりと説く。これその大綱である。
そして此の法相の名稱は、本家根本聖典たる解深密經の一切法相品の題額に依つたのである。
二、普為乘教宗
これは本宗所説の教義が、普ねく一切三乘五姓のすべての根機を利益すと云ふ意味にして、解深密經第二巻無自性品に『世尊於今第三時中、普為發趣一切乘者』
と云つてあるに根據したのである。
三、應理圓實宗
これは本宗の所説が、すべてその理に應じ圓滿なり眞實なりと云ふ意味にして、法華玄賛第一巻に八宗を立つる中、第八に應理圓實宗と云つてあるに依つたのである。
四、唯識中道宗
これは本宗に於て談ずる所の唯識中道と云ふことより名づけしものである。唯識のことは教理の章に譲るとして、中道とはこの唯識と云ふことが卽ち中道と云ふことである。云く唯の故には有に非らず、識の故には空に非らず、卽ち唯識中道である。その典據は所依の祖書たる唯識論より出て居るのである。
頁五
兎に角上來の四名に付て、良遍僧都は、夫れ我宗は妙義多途にして其の名一にあらず、機に望めては普為乘教と名づく、一機としても利せざるなきが故に。理に尅しては應理圓實と號す、一理としても應ぜざることなきが故に。相に約しては法相大乘と云ふ。一相としても談ぜざることなきが故に。觀に寄せては唯識中道と稱す、一觀としても中ならざることなきが故に。而して此の四の名義互に隔離せず。機と理と相と觀と皆萬法を含み、蕩々として無邊なること太虛空の如く、重々無盡なること因陀羅網に似たり。その周備なること思議倶に絶へたりと云つてある。誠に至言である。
第二章 所依の經典と祖書
〇六經
一、大方廣佛華嚴經
三譯あり
一、大方廣佛華嚴經 六十巻 晉覺賢譯
二、大方廣佛華嚴脛 八十巻 唐實叉難陀譯
三、大方廣佛華嚴經 四十卷 唐般若譯
二、解深密經
四譯あり
頁六
一、相續解脫地波羅密多了義經 一卷(後二品の異譯) 宋求那跋陀羅譯
ニ、深密解脱經 五卷 魏菩提流支譯
三、佛說解節經 一卷(前五品の異譯) 陳眞諦譯
四、解深密經 五卷 唐玄奘譯
三、如來出現功德莊嚴經 (未渡)
四、阿毘達磨經 (未渡)
五、楞伽經
三譯あり
一、入楞伽經 十卷 魏菩提流支譯
二、楞伽阿跋多羅寶經 四卷 宋求那跋陀羅譯
三、大乘入楞伽經 七卷 唐實叉難陀譯
六、厚嚴經
玄奘は梵本を將來して、いまだ飜譯に從事せざりしかば、成唯識論述記には未渡とあれども、その後ち日照、不空の兩譯あり。
一、大乘密嚴經 三卷 八十帋 唐日照譯
二、大乘密嚴經 三卷 八十帋 唐不空譯
頁七
〇十一部論
一、瑜伽師地論 百巻 彌勒菩薩說 唐玄奘譯
菩薩地持經(又は菩薩地持論と云ふ)十卷 或八卷 曇無纎譯あり。瑜伽菩薩地の同本と云ふ。又は善戒經九卷 大善戒八巻、小善戒經一巻。古藏錄には別部とす。宋版以後九巻を一帙とし小善戒經を第九巻とす。 あり。所説大に地持に同じ。故に多く同本異譯とす。
二、顯揚聖教論 本頌一卷釋論廿卷 無着菩薩造 唐玄奘譯
三、大乘莊嚴經論 十三卷(或十五卷)(本頌彌勒菩薩說釋論世親菩薩造) 唐波羅頗密多羅譯
本論は、現行波頗三藏の譯本には、無着菩薩造とあるも、成唯識論の中に、彌勒說として引證せるより、本宗の祖師先哲は、皆本頌彌勒說の義を主張せり。
四、集量論 四巻 陳那菩薩造 陳眞諦譯
五、攝大乘論本頌釋論 無着菩薩造世親無性の兩論あり
無着の本頌、三譯あり
佛多扇多譯 二卷
眞諦譯 三卷
玄奘譯 三卷
世親の釋論、三譯あり
笈多譯 十卷
眞諦譯 十五卷
玄奘譯 十卷
無性の釋論、一譯
玄奘譯 十卷
六、十地經論 十二卷 或十五卷 天親菩薩造 菩提流支譯
七、分別瑜伽論 彌勒菩薩說 (未渡)
頁八
八、觀所緣々論
本頌 陳那菩薩造 唐玄奘譯 一卷
釋論 護法菩薩造 唐義淨譯 一卷
眞諦の無相思塵論一巻は、玄奘譯の同本なり。
九、二十唯識論 一巻 世親菩薩造
三譯あり
一、大乘楞伽唯識論 魏菩提留支譯
二、大乘唯識論 陳眞諦譯
三、二十唯識論 唐玄奘譯
十、辯中邊論
本頌 彌勒菩薩說
釋論 世親菩薩說
二譯あり
一、中邊分別論 二巻 眞諦譯
二、辯中邊論 三卷 玄奘譯
十一、大乘阿毘達磨雜集論十六巻
本頌無着菩薩造
釋論師子覺菩薩造
雜糅者安惠菩薩造
玄奘譯
〇瑜伽十支論
一、分別瑜伽論 (攝散歸觀論と名く)
二、大乘莊嚴論 (莊嚴體義論と名く)
三、辯中邊論 (離僻彰中論と名く)
頁九
以上三部は彌勒所説にして、これに瑜伽論と金剛經論とを加へて、彌勒所説の五部論と云ふ。
四、顯揚聖教論 (總苞衆義論と名く)
五、大乘對法論 (分別名數論又は廣陳體義論と名く)
六、二十唯識論 (摧破邪山論と名く)
七、三十唯識論 (高建法幢論と名く)
八、大乘五薀論 (粗釋體義論、又は依名釋義論と名く)
九、大乘百法明門論 (略陳名數論と名く)
十、攝大乘論 (廣苞大義論と名く)
前顯十支論と十一部論とを比較對校するに、七部(分別瑜伽、大莊嚴、辨中邊、顯揚、對法、二十唯識、攝大乘)は重複にして、十一部論中の四部(瑜伽、集量、十地、觀所緣々)と、十支論中の三部(卅唯識、五薀、百法論)とは別部であるから、結局十七部の根本祖書がある譯である。その外更に彌勒五部論中の金剛經論、陳那の理門論、天主の入正理論等は、本宗典籍中、特に忘る可からざるものである。
かくの如き多くの典籍中、本宗として現今學者の仰いで祖書とせるは、彼の三十唯識論である。三十唯識論とは、頌文は世親の唯識三十頌にして、長行釋は護法等の成唯識論のことである。この本頌たる唯識三十頌は、實に世親最後の傑作にして、文は三十行であるけれども、實に佛教著述界以來の最大文字である。此の書が一たび世に出づるや、世親禮讃の聲は天下に滿ち、從來瑜伽論中心の學風は、一變して唯識研究が中心となり、瑜伽派の名稱は漸次に
頁一〇
唯識宗と稱せらるゝに至つたのである。その唯識研究中、十大論師の成唯識論は、實に其の代表的著述にして、特に護法の唯識論が、その大宗である。
印度撰述に次ぎ、支那撰述に付いては、現下日本の法相研究は、何れも之を祖判として研究の步を進めて居るのであるから、左にその重要祖書三四を登錄する。
一、成唯識論述記 十巻 本末開二十卷 沙門基撰
二、同掌中樞要 四巻 同上
三、同了義燈 七巻 沙門慧沼撰
四、同 演秘 七巻 沙門智周撰
以上、第一の述記を本
と稱し、他を三個疏と稱す。成唯識論研究の場合には、必らず同時に研究講讀せられつゝあり。又た述記三個
を合して、四個
の名稱もあり。
尚ほ唯識語講讃に付いては、上の述記三個疏以外に、唯識論義薀二巻、邑法師著唯識論同學鈔三十六帖解脱上人門下(同學とは門下同學生と云ふ意味)の著を必讀せられて居る。
又別に法苑義林章七巻 慈恩著に、法苑義鏡六巻 善珠著、唯識章私記六巻 眞興著等を參考書として研究講讃せらる。
若し初學の為めには、百法問答鈔九巻 作者不詳、略述法相義三巻 良光著、觀心覺夢鈔三巻 良遍著、大乘法相傳通要錄二巻 良遍著、法相二巻鈔(法相宗大意)二巻 良遍著等を講ずるのが普通である。
頁一一
前顯中、六經、十一論、瑜伽十支論、四個疏に就いては、特に之を開題すべき必要を認むれども、今は帋數に限あること故、遺憾ながら之を略する。
又、慈恩撰述のことは、拙著慈恩大師傳。慧沼、智周以下の撰述に就ては、佛書研究の因明著述研究の各項を參照せらるれば多幸である。

阿含經
第一回
大谷大學教授
赤沼智善
頁一
阿含經
赤沼智善
序言
支那日本の佛教に於て、人天教の經典として輕視せられ、たゞ高閣につかねて、全然研究の方面にも、又修養體驗の方面にも、棄てゝ顧みられなかつた阿含經が、今日盛んに研究せられ味讀せられるに至つたことは、確かに佛教の教學界に於ける大進步であり、大に慶賀すべきことである。日本で最初、この研究に手を染めた人は姉崎正治博士であつて、博士の「現身佛と法身佛」及び「根本佛教」は佛教の若い研究者に大きな刺戟と教示を與へ、又その "The Four Buddhist Āgamas in Chinese" は、南條博士の大著「大明三藏聖教目錄」の補遺であると共に、五尼柯耶四阿含の比較研究に依る原始佛教の理解への道を開いた。爾後佛教學界の先進に依つて、今迄全く支那日本の佛教の問題にならず、從つて丸で暗黒であつた方面は徐々として開拓され、大正十一年木村博士の原始佛教思想論が出でゝ、初めて阿含經を研究の資料とする原始佛教が纏まつた形に於て、世に紹介せられたのである。この原始佛教思想論に、勿論論議せらるべき多くの點もあり、又すべて有るものをその儘に纏めるに急であつたと云はねばならぬやうのところがあつて、そのために缺陷を露出もしてゐるが、然し印度佛教の研究の方にも、又比較的何人にも解り易いやうに通俗的に書かれてゐるからして、一般人の原始佛教の理解のためにも、非常な大きな功績ある著述とせねばならぬ。續いて、
頁二
宇井博士の着實にして精透な研究が續々發表せられ、これと並んで畑違ひの方面から、和辻哲郎氏が透徹した論理主義を眞向に翳して、論陣を張り、學界に異常な興味を湧き立てゝゐるのが今日のこの方面の研究の現狀である。宇井博士の研究は、何と云つても、今迄餘りに疎漏であつた研究の資料の取扱ひ方に對して、精確な指針を與へたといふところに偉大な功績があり、從つてその研究の成果も、他人の企圖し得ざる大きなものがあつた。和辻哲郎氏のそれに至つては、何といふ胸のすくやうな氣持の善い立派なものであつたであらう。恐らく何人も、氏の著述に對しては賛美の辭を惜まぬであらうと思ふ。殊に氏の研究のもたらす一影響は、佛教の研究が少くとも日本に於ては今迄全く孤立して、特殊的な取扱を受けてゐたのを、一般に公開した、このことは佛教學界に異常な刺戟を與へたと共に、佛教が初めて學的に一般學界の關心事となつたであらうことである。佛教の學に勉めるものゝ、この意味に於て喜びに堪へないことである。
勿論、宇井氏の研究にも、和辻氏の研究にも、缺點もあらう、誤謬もあらう、又私としても承服し兼ねる點も多々ある。併し氏等の研究に私自身が啓發せられたところの非常に多いことは、感謝を禁じ得ないところである。
私は今私に課せられた阿含經に對して、最近に於ける日本の、阿含經を對象とし、資料とする研究の長足の進步を叙して喜びに耽ける。さうして又この研究の成果が、その後の佛教の研究に對しても、又日本の佛教の現狀に對しても、後日必ず大きな働きかけをなすであらうことを思ふ。
この講座の阿含經といふ講目が要求するところには、阿含經の成立とか、組織とか、部派關係とか云ふ聖典史的叙
頁三
述もあるであらうが、私は茲には、この經典史的研究を一切差し扣へない。それは、別の機會に於て又別の場所に於て發表したいと思ふ。茲ではたゞ、阿含經の詮顯せんとする特殊の宗教に就いてのみ語りたいと思ふ。勿論、阿含經の中には宇井氏や又は和辻氏の云はれるやうに、幾多の新古の層を包含し、又現存の阿含尼柯耶は或る部派の所傳であつて、その傳ふる所の部派的色彩を可成、多量に帶びてゐることであるから、それらを見分けて行くでなければ、徒らな混亂を引き起すであらう。それらの用意を怠ることなしに、阿含尼柯耶の資料に依つて見出し得る、釋尊の宗教に最も近いと信ぜられる特殊の宗教を纏めて顯はして見たいと思ふ。
第一章 教祖釋尊の求道
佛教は釋尊の成道に初まることは云ふ迄もなく、釋尊の成道はその出家求道の結果であり、そのまた出家求道が、釋尊のそれ迄に至る生活中に抱かれた問題に初まることも云ふ迄もない。それであるから佛教、卽ち釋尊の宗教を理解するためには、もとに遡つて、釋尊の出家求道が何のためであつたか、卽ち求むるものは何であつたか、更に遡つて、釋尊をして、この痛ましくして勇ましい門出に立たしめた問題が何であつたかを主題として考究して見なければならない譯である。
釋尊の傳記の中で、この出家求道に導いた釋尊自身の特殊事情の最大のものは、何と云つても、母の死であらう。御母摩耶夫人は太子降誕後七日目に亡くなられたと佛傳は記してゐる(一)。太子の幼時は、母なき子とは云ひ、決して不幸な日ではなかつた。摩耶夫人の妹の摩訶波闇波提が代つて妃となり、その優しい腕に太子を抱いて育てられた。然
頁四
し乍ら、肉親の血は神秘である。生母の顔すら知らない太子は、この事からして、何時とはなく、又何とはなしに悲しみを、淡くして強い悲しみを感じ初められたことであらう。恐らく華やかにして豊かな惠まれた宮庭生活の中に、太子をめぐつて、一沫の暗雲を投じたものは、この生母の死であらう。性格からとも云はれるが、母を亡くしたといふ特殊事情は、太子の少年期を多感多情の公子たらしめたに違ひない。
内に秘んで考ふるものは、又外に向つて、その姿に鋭い觀察の眼を向ける。多感な太子が、その列強に圍まるゝ我が國狀に就いて、漸やく明かな眼を持ち初められたことも觀察に難くはない。血統正しい名門とは云ひ、僅かな鄕土を占有するに過ぎない釋迦族は旣に當時隣強喬薩羅の保護下にあり、まかり違へば如何なる難題を持ちかけられ、併呑虐使の笞の下に立たねばならぬかも知れぬ有樣であつた(二)。有為な又多感な靑年が、この狀勢に滿足しうる筈はない。外に向つて延び得られない志は、内に向つて潜み、沈み入らねばならない。悉達多太子の生活は、かくして華やかな豊かさの中に向はねばならぬその方向に、步みを初めたと見ねばならぬ。
飜つて當時の一般社會の宗教的思想的一般狀勢を考へて見ると、第一には教權の死が際立つて鮮かに見える。婆羅門は今や昔日の權威ある實力ある思想家でも宗教家でもない。その傳承するところのものは生命のない、固定した前代の思想の受け賣りであり、數多い弟子を教へてゐる、有力な富裕な婆羅門が相當に多かつたことは、佛教經典の記述するところでも知れるが、前代の婆羅門のやうな生氣がなく、到底、民衆の心靈の要求に答へ得る教師では無くなつた。彼等婆羅門の唱へてゐる所は、佛教の經典が記してゐる、主として梵天の崇拝、梵天の同侶に生れやうと希ふ信仰であつて、これとても供犠祭式と交換的に得やうとする功利的なものであり、眼ざめかけた人心の髓に觸れうる
頁五
ものではない。慈悲喜捨の四無量心を修すれば、梵天の同侶に生れうるといふのは、梵天上生の信仰を暫らく許して、その信仰を精神化し純化して、佛獨自の法へ誘導せられた釋尊攝化の手であると私は信ずる。それであるから婆羅門としての機能は、思想家宗教家としては無くなり、たゞ種族宗教として必ず無ければならぬ祭式の執行者としてのみ殘つたのである。教權の死は又一方必ず新しい教學の勃興を意味する。新しい立場に立つて、人生問題を探求する闘士を數多く輩出し、遂に佛教を生み出すまでになつたのである。後に云ふところの當時の沙門團の活動といふのがこれである。
第二に他方政治方面を見ると、專制的な四大王國が顯はれて、その近隣の貴族的寡頭政治の小共和國を併呑し進む狀勢にあり、大國と小國の關係、大國と大國の關係もかなりに緊張した不安狀態にあつたことは想察せられる(三)。と共に又、今迄ばらばらであつた種族と種族との間が近くなり、交通も便利になり、經濟狀態も豊かになり、社會的に見て、印度は前代とは丸で違つた一大進展を示したのである。轉輪聖王の思想は、この不安狀態と社會的進展との混合がかもし出した全印度統一の憧憬心理の表現であると見ても强ち間違ではないと思はれる。阿育王の偉業を見て後の生み出した思想とする要もないと思ふ。第三に文化は次第に恒河の流域に添うて東に移り、當時非アリアンの摩喝陀が新興文化の中心地であり、北方の舊文化と對立して、文化的混亂─同時に文化的進展を生じてゐたと考へられる。第四には、下層階級の勃興が中にも特に著しい色彩を示してゐる。奧義書時代から優勝な地位を占めて來た刹帝利種は、社會が國家的形態を整へると共に益々權勢を加へて來たが、これにも増して、商人階級の毘舎種が勢力を得て來たことは華々しいものがあつた。これは前に云ふ種族及び社會の變化發展に伴ふて經濟状態が良好にあつたゝめであつ
頁六
て、佛教や耆那教の弟子の中に、有力な毘舎種のあつたことはこれを示し、力は刹帝利でもなく、婆羅門でもなく、金である。何人でも金にて自由に他と使ふことが出來るといふやうな考のあつたといふ記錄さへ見る程である(四)。この新興の勢力が自分等相當の宗教を求め出したことも、容易に諾はれることであつて、要求のある所に、應答の顯はれやうとすることも亦當然のことである。
かくの如く、當時の印度は宗教的に政治的に又經濟的に旣に大に變革し、又更に變革せんとしてゐたのであるが、更に前代以來、印度の一般の人心の上に重しとなつて覆ひかぶさり、それをはねのけて新天地を開かねばならぬものがあつた。それは古い時代からの傳統の業と輪廻の思想である。この二つの思想は結び付いて、いつの時代でも人心を痛ましめ昏くするものであるが、當時の六師外道の教理が、この二つの思想への運命的な服從であるか、又は非理な反抗であるか、その二つを出でないことに依つても、この業と輪廻の思想がいかに強く、前代以來、印度の人々の心を捕へてゐたかを知ることが出來る。
右に云ふが如き社會の狀勢の中に、又宗教的思想的雰圍氣の中にあつたからして、當時、傳統の宗教以外に、道を求めて出家するものは頗る多かつた。それは前に云ふが如く、種族的宗教の教權以外に立つて、新しい立場から人生の問題を尋求解決せんとするものであつたのである。六師外道は申すに及ばず、七百の遊行者を率へてゐたといふ沙門マンデカプツタ (Mandikaputta) 、サクルダーイ (Sakuludāyi) 、三百の遊行者を率へてゐたといふボツタパーダ (Potthapāda) 等、及び千人の徒弟を統率して火を祭つた迦葉の三兄弟、その他佛弟子の中でも舎利弗、目連、耶舎、大迦葉、賴吒和賴の如き、みなこの出家して道を求めた人々であつた。如何なる人でも、全然時代を超出することが
頁七
出來ないものとすれば、釋尊も亦この上述の社會の中にあつて、その呼吸するところを呼吸しその感ずるところを感じ、その苦しむところを苦しまれたとせねばならぬ。否釋尊の場合にあつては、その感じ苦しみたるところが社會の人々のそれと共通であつて、而も最も烈しく強いものであつたと考へねばならぬ。
かくの如く、釋尊は個人の特殊事情と、社會の普通事情とに促がされて、その靑少年の時代に、その全生涯の向ふべきところを決定せしめられたのであつた。而して先づその若い太子の心の痛々しく感ぜられたことは、衆生互に吞噬する闘爭に、その尖端を顯はす生が姙む矛盾であつた。佛傳の記すところに依れば、太子七歲の時、春の耕耘の祭式に野に出でゝ農夫の耕やす鍬の先きに堀り出された一匹の小虫を、小鳥がついばみ去るを見て、愁へ悲しみ、閻浮樹下に靜座して思惟せられたと云ふことである。生は生を欲する。而も他を殺すこと、又は惱めることなくして、生はつゞけ得られるであらうか。生物相互の間に、又人間同志の間にはつきり畫き出されて居るところの、この闘争と惱害とは、善を求むる旅路にある若い心を極度に痛めずには置かないのである。
更に生そのものを眺めよ。生きとし生けるものゝ最も深き要求が生きることであるに拘らず、この生きることは、いかに多く、老と病と死におびやかし續けられてゐるであらうか。老はしのび寄り、病は襲ひかゝり、死は迫り來る。何人もこの老と病と死とを免れ得ない限り、生はその儘の姿に於ては痛苦であり、無意味であり、咀はるべきものでなければならぬ。生れざりばと嘆き「後有を受けざること」を願はねばならぬ。中阿含一一七經柔軟經(増一尼柯耶三の部三十八經)には、太子の華かな宮庭生活を叙して後に、
「比丘等よ、このやうな榮華の中に、又このやうな美くしい健かな肉體を持ち、私はこのやうに考へた。世間の
頁八
人は自ら老い……自ら病み……自ら死すべきものであり、この老と病と死を越ゆることの出來ないものでありながら、恰も超え離れることの出來たやうに、他の老と病と死とを見て嘲けり笑ひ厭うてゐる。然しこれは正しいことではない。私はこのやうに考へて、靑春の憍と健康の憍と生存の憍とを棄てた
と太子の思ひを寫してゐる。中尼柯耶二六聖求經は、更に委しく、「私も正覺を成じないで菩薩であつた時に、自ら生法、老法、病法、死法、愁法、汚法にして、生法、老法、病法、死法、愁法、汚法を求めてゐたが、この愚をさとり、生法、老法、病法、死法、愁法、汚法の禍を見て不生不老不病不死不愁不汚の無上安穏の
槃を求めて出家した」と記してゐる(六)。「生じては老い衰へ滅び又生れて來る。この世界は實にかくの如く苦難に滿ちてゐる。而も私はこの老死の苦の出離を知らない。吁、いかにせばこの老死の苦の出離を得るであらうか」(雜尼柯耶一二・六五雜十二・五辰二・六五右増一三一・四)。人の生に對する執着は強い。「一分の命のためなら、何百萬圓も惜しまない」とは病牀のニリサベス女王の語だと云はれてゐる。執着が強いから、老死を惡み、その出離を希ふ情も強い。
我々が生存中、苦を感ぜざるを得ざるは不可避のことであるから、又樂しみを求めることも止む可からざることに屬する。我々の生存欲は苦を避けて樂しみを逐ふことに向ふ。五官の對境に可意の境(五欲 Panea Kāma-guna )を求めて貪ぼり (Rāga) 欲する (Chanda) 。よしそれが儚ない旅人の穴に陷り、上から落つる蜂蜜を貪ぼるやうなものであるにしても、現實の我々はこの五欲の境を離るゝことが出來ず、次から次へと貪つて步るくのである。前出の柔軟經に畫かれてゐる太子時代の生活は正しくこれであつた。
私の父の家には蓮池があつて、靑蓮華の咲く池、赤蓮華の咲く池、白蓮華の咲く池、すべてみな私の為めのみで
頁九
あつた。私は迦尸の栴檀香でなければ用ひず、迦尸の布の頭布を巻き、肌着も下着も上着もすべてみな迦尸の布を用ひてゐた。常に冷熱塵風を遮ぎるために天蓋がかざされてゐた。
私の為めに夏と冬と雨期の三時の宮殿が營まれ、雨期の四ケ月間は、舞姫に取り巻かれて殿上に閉ぢこもり、一步も宮殿を出づることはなかつた。
勿論、この柔軟經の語を直に釋尊に歸することは不當であらう。釋尊の在俗の狀態と、それに依つてことさらに起る出俗の理由とを示さうとすることが、この經典作者の意圖であつたであらうが、然し乍ら一國の太子に許された享樂の生活と、この生活に對して先天的に宗教的に突つ込んで行かねば止まなかつた太子の感慨を寫すことに於て、この經典は決して過ぎてはゐなかつたと見ねばならぬ。
實に樂しみは樂しみを逐ふ者には、樂しみでなくなる。其處に樂欲の禍が姿を顯はす。「樂欲は樂しみ少なく、苦しみ多く惱み多く禍の甚しいもの」と知られて來る。「しかもそれに依つてより善きものに達せざる限り、欲に退轉せざるものとは云はれない」(中尼柯耶十四經、中阿含一〇〇告陰經)。悔に虫ばまれ乍ら、又しても欲の囚はれとなることは、人間の哀れな姿ではないか。
更に進んで一步深く人生を見よ、人生に於てあらゆる對立はみな苦である。老少、男女、賢愚、善惡、對立は爭闘であり葛藤であり、それ故に苦である。我々の存在が主客といふ對立である限り、存在し生存することは本質的に苦でなければならぬ。死が絶待の絶滅でなければ、死も無苦の世界を持ち來さない。
槃が「我」の殘る境界なれば、
槃も苦を脱却し得ない。所詮、主客の對立する人生は運命的の悲劇であり、主客を拂拭しない限り、苦の離脱はない。
頁一〇
釋尊はその太子時代に於て、かくの如く生そのものが妊んで居り、從つて生そのものから湧き出して來る生の謎に促がされ、この生に肉迫して、その謎を解くために修道の旅路に上られたのであつた。
釋尊が太子時代に於て持たれた問題は、略々前に云ふようなものであつたと考へることが出來ると思ふが、さうすると太子の問題は、人生が妊んでゐる根本的な謎の解決をしようといふことであつて、その問題はいつの時代でも、又何人でも、茍も人間である限り、又人が眞面目である限り、必ず觸れ必ず持たねばならぬ問題であつて、時代や土地や人に依つて制限せられてゐるものではない。卽ち特殊的のものでない、根本的であつて、普遍的である。從つて又この問題の解決は何人にも普遍妥當するものであつて、茲に釋尊が一宗教の開祖としての特色があり、又佛教といふ宗教の特色があると思ふ。何人も總て釋尊のように、人生に對して根本的な問題を持ち得るといふ譯には行かない。大抵、その時代の、その社會の特殊な教理を以て概念的に眺め勝ちのもので、直に人生に肉迫してその髓を掴むといふことは出來ないものである。例へば印度傳統の宗教の圏内に育つた人だとすると、梵とは何ぞや、如何にしてこの梵に接しうるかといふことが中心の問題になり、人生を迷妄と教へる宗教圏内に人となつた者には、如何にしてこの迷界を離れうるかといふやうなことが最も重大な關心事となるものである。到着點は云ふ迄もなく出發點に制約せられるから、この問題の掴み方は、その解決である所の宗教の性質を最も根本的に規定するところの一要素である
註(一)佛本行經、過去現在因果經、修行本起經、太子端應經、普曜經、衆許摩訶帝經みな太子降誕七日目に母后命終と傳へて居る。
(二)長尼柯耶二七經の Samaṇo Gotamo anuttaro Sākyakulā pabbajitoti の anuttaro を一本の如く antarā と讀めば、波斯匿王が、「沙門喬答摩は領内の釋迦族より出家した」と曰つたことになる。かう讀む方が次の「釋迦族は今喬薩羅の波斯匿王に附隨してゐる」以下の文に合ふように思はれる。長阿含第五小緣經、中阿含一五四婆羅婆堂經共に相當文を缺くが、皆釋迦族を波斯匿王に
頁一一
屬する關係に記してゐることは同じい。
(三)喬薩羅國 (Kosala) 、摩喝陀國 (Magadha) 、ヴンサー國 (Vamsa) 、阿盤底國 (Avauti) は當時の四大王國である。これらの強國間及びその近隣の小國との間に起るべき戰爭が、釋尊の人格の光に依つて起らずに濟んだことは二三に留まらない。
(四)中尼柯耶八十四マドウリーヤ經、「金銀財寶に依つて如何なる種族をも奉仕せしむることを得る」(取意)、雜二〇・一二(辰三・二三左)同之。
(五)中尼柯耶七八經。中阿含一七九五支物主經(昃七・二九)中尼柯耶七七經、七八經。中阿含二〇七箭毛經二〇八箭毛經(昃七・七八、八〇)。長尼柯耶九經、長阿含二八經布吒婆樓經(昃九・八九)
(六)取意譯。同本中阿含ニ〇四羅摩經(昃十・七四)これに同じく、
第二章 成道
釋尊の納妃及び出家の時期に關しては、いろいろの異説ある中、十九歲納妃、二十九歲出家といふ説が、最も事實に近いものであらうと思ふ。十七歲納妃説は十九歲出家とするから、それより二年前に納妃を擬し、出家後に羅睺羅の誕生を置かうとする意圖より、編み出された説で、これらの佛傳などよりはずつと古い遊行經(長阿含第二昃九・二一)に、我年二十九、出家求善道とあるから、十九歲納妃、二十九歲出家説が古傳であることは確かである(一)。それで二十九歲出家として見て、この太子の教養と、自分の抱いてゐる問題の解決のためになされた努力が、如何なるものであつたかは、直接資料から知りうるところは何もない。種々の佛傳には文武兩面に亘つて、いろいろの師匠に就いて學び聰敏にして師匠を驚かしたとあるが、もとより信賴するに足る記述ではない。然し貴族の公子として當時上流
頁一二
階級の人達が受くべき教養は受けてゐられたに相違なく、又聰明な太子時代、旣に芽生へた疑團に對して無為に過したのでなく、日夜苦闘してその解決を求め、そのため種々の教を聞き味はれたことも間違ない事實であらう。當時の學修規定を定めた經書には、普通婆羅門種のものは、八歲から十二年、刹帝利種のものは十一歲から十二年、毘舎種のものは十二歲から十二年間、阿闍黎に就いて、吠陀を學修するものと記してゐるが、特に優秀な小供は七歲から師匠に就きうることになつてゐるから(三)、佛傳(四)の云ふように、七歲から師に就いて學び、十九歲にして、一先づ學を終り納妃せられたものと考へることが出來る。此の十二年間と云ふは、三吠陀中の一吠陀學習の期間であるが、この期間に吠陀支分卽ち、字彙學、語原學、史傳、文法、順世學、大人相學等一通りは學ぶのであらう(五)。釋尊はこの時期に傳統の古典を學修し、納妃して更に、その家庭の悦樂の間にも、研習の步みをつゞけられたに相違ない。
釋尊の宗教が、印度の思想及び宗教に對して、際立つた轉回を與へたものだと云ふことが立證せられるならば、釋尊のこの在家時代に於て、奧義書が記してゐる正統婆羅門の思想哲學に關する釋尊の教養も亦、徹底したものだと云へるであらう。それ故に正統婆羅門の奧義書の思想哲學に關する體系的了解は、有力な刹帝利の公子として、又性質上さう云ふ方面の研盡に特殊の性向を持たれた釋尊に於ては、この在俗時代に於て略ゝ完了してゐたと見ることが至當であると思ふ。
阿舎尼柯耶と、奧義書との密接な關係は、近頃種々の學者の研究に依つて明かにせられて來た。
長尼柯耶一三三明經、に出てゐる。四種の婆羅門、卽ち Addhariyā brāhmaṇā. Tittiriyā brāhmaṇā. Chandokā brāhmaṇā. Brahmacariyā brāhmaṛā は次第の如く(一)白夜柔吠尼系統の奧義書、卽ちブリハドアーアニヤカ奧義書
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を奉ずるもの、(二)タイツテイリーヤ奧義書を奉ずるもの、(三)チヤンドーギヤ奧義書を奉ずるもの、(四)アイタレーヤ奧義書及びカウシータキ奧義書を奉ずるものであつて、これらの流派に屬する婆羅門はみな梵天界に生れて、梵天と共住同伴することを理想としたものである。それであるから、阿含尼柯耶中に豊富に説かれてゐる梵天上生の説は大抵この奧義書を奉ずる婆羅門達の思想信仰である。
増一尼柯耶三・二七六の十種の宗教團體の中のムンダ・サーワカーはムンダカ奧義書に關係を持ち、ゴータマカーはカタ奧義書に關係があり、中尼柯耶九三經のアツサラーヤナはプラシユナ奧義書の中に出て來るカウシヤルヤ・アシユヷラーヤナであり、巴利經集のセーラ經のケーニヤ結髪者はケーナ奧義書の作者であらうと羽溪了諦氏は論じてゐられる(八)。氏の所論は猶研究を要する幾多の疑問を含んでゐるが、然し決して謂れのない無理な結び付け方ではなく、又若しさうだとすれば、阿含尼柯耶と奧義書との關係を最も内容的に實質的に結び付けたものだと曰はねばならぬ。
阿含尼柯耶の表現法の中には、奧義書の文學の表現法を用ひた個所が頗る多い。このことは前から種々の人々に依つて云はれて來たことであるが、さういふ表出を用ひることが偶然の一致だと考へるよりは、後者が前者を踏襲したものと考へる方が自然であり。又その一致してゐる個所の數の多いことからして考へて見ても踏襲と見る方が無理がない。
若しこのように、阿含尼柯耶と奧義書との間に、密接な關係があるとすると、このことは文献的に、釋尊の奧義書的思想哲學に關する教養を或る程度に於て、具體的に物語つてゐるものとすることが出來る。勿論、阿含尼柯耶はその編纂が釋尊入滅後可なりの年時を經ての時代であり、その經語も決して釋尊の語をその儘に寫したものでなく、後の教徒
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が傳承したものや考へ出したものを纏めたものではあるが、阿含尼柯耶と奧義書との間に密接な關係があるといふことは、兩者の間に密接な關係があるといふそのこと丈けでは留まらず、少なくともその傳承した部分にも一致があるからであらうといふ可能性の上に於てゞも、釋尊と奧義書との間を文献的に示すものであるといふことが出來る譯である。況んや先きに云ふところの釋尊の宗教が、正統婆羅門の教學に對しても際立つた轉回を示してゐるといふ動がすことの出來ない理由からして、このことは裏書きせられるであらう。かう云ふ見方は阿含尼柯耶を資料として、佛教の根本、卽ち釋尊の宗教を知らうとする上に大切なことであつて、阿含尼柯耶を如是我聞の語があるから、總て佛話であると見て行くことも大きな間違に相違ないが、後世の編纂であり、後世の事件を記錄し、變化發達した思想を含んでゐるから、到底釋尊及び釋尊の宗教を知り得ないとすることも極端に走つたものとせねばならぬ。後世の編纂であるから、後世の事件をも記錄し、變化發達した思想をも含み、又いろいろの意圖を以て故意になされた揷入創出も勿論あるが、教徒の神聖な經典のことであるから無暗なことがなされる筈がなく、一經を纏めるにしても、成るべく傳承の資料に依り、傳承の精神に依つてなさうとする努力があつたと見ねばならぬ。それであるから經典の性質といふことに注意を拂つてゐさへすれば、極端な懷疑的態度を以て向ふ必要はないと考へられる。かういふ意味からして、私は阿含尼柯耶に於ける奧義書的表出法を示してゐる經語の幾分を釋尊に歸しうるものとして考へるのである。
釋尊は家を捨てゝ一沙門となり、道を東と南とに取られた。この旅路の方向は云ふ迄もなく、王舎城をめざすのであるが、何が故に王舎城を、その「善を求むる」 (Kiin Kusalā gavesῑ) 旅路の目的地として撰ばれたであらうか。これは決して自分の居所を家人に秘せねばならぬといふことの便利からではない。王舎城は新興勢力の摩喝陀王國の
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首都であり、この王舎城と隣邦の共和國跋耆族の首府毗舎離とが、新興文化の二大中心地であつたからである。このことは當時有名な學者宗教家であり、反正統婆羅門教的だと曰はれてゐる六師外道の中耆那教のヷルダマーナ、及び舎利弗目連の師匠であつたサンヂヤヤの活動舞臺であり、アーヂーワカ卽ち邪命外道も王舎城附近を本據としてゐたと思はれ、その派に屬するマツカリ・ゴーサーラも、耆那のヷルダマーナと同行者であつたといふから、多くの年をこの王舎城附近に過した人であらう。その他の人々に就いては解らないが、皆王舎城に安居したことがあると傳へられてゐるから(九)、かういふ新思想の人々及びその圍體には王舎城附近は滯在するに適當な狀態にあつたに相違ない。結髪行者の拝火教徒である迦葉三兄弟も摩喝陀國民の特別の歸向を受けて、尼連禪河の上流下流に住んでゐたのである。この新興文明の都市地方に向つて、道を進められたといふことは、旣に十分に古典の教學に教養を重ねた釋尊が、新たな自由な生氣の潑溂としてゐる新思想の空氣を汲ひ込んで、其處に問題の解決の道がないかと求められたことを示してゐるのである。
この求道の旅路に於て、釋尊の尋ねられた師匠に就いては、過去現在因果經、普曜經、佛本行集經、佛所行讃は跋伽婆といふ苦行者を舉げて居り、佛本行經は鞞羅梵士苦行女人、波頭摩梵士苦行女人所、利波陀梵行仙人所、光明、調伏二仙人の處を訪はれたと記してゐるが、それらよりも古い記錄に依つて證據立てられ得ないから確實でない。阿羅々迦蘭と鬱頭迦羅摩子を尋ねられたことは、佛傳が皆さう記してゐる許りでなく、中尼柯耶二六アリヤパリエーサナ經、中阿含二〇四羅摩經(昃七・七四)中尼柯耶三六マハーサツチヤカ經、中尼柯耶八五ボーデラーヂヤクマーラ經にも記し、又この訪問受教以外に、阿羅々迦蘭のことは長尼柯耶一六經、長阿含二遊行經に、プツクサがその禪定の
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練達に就いて驚嘆してゐることを記し、鬱頭迦羅摩子のことは、雜尼柯耶三五、一〇三、中阿舎一一四優陀羅經(昃六・三五)に、その所唱の教理を出し、長尼柯耶二九パーサーデカ經長阿含十七清淨經に少しく關説してあり、又増尼柯耶四・一八七にエレツヤ王がその六人の侍臣と共に沙門ラーマプツタに歸依してゐることを出して居り、佛鳴の註にはこのラーマプツタは鬱頭迦羅摩子のことだと云ふてゐるに依つても、この兩人が實在の人物であつて、釋尊が訪問受教せられたことは明かであると思ふ。
それでこの二人の師匠は、釋尊に如何なる教を示したであらうか。經典はこれに就いて次の如く記してゐる。
「迦羅摩よ、私はこの法と律とに於て、梵行を行じたいと思ふ。」
「住せよ、尊者、この法は有識の人が、遠からず自分を師とし、自ら知り實現し證入して住する、かくの如きものである。」
比丘等よ私は遠からず速かにその法を學び得た。唇を打ち、語に話す限りに於て、私も他人の如く、智慧の語を語り、上座の語を、「私は知り私は見る」と告げるを得た。この時私はこのように思うた。阿羅羅迦羅摩はこの法總てを、唯信仰丈けで、自ら知り實現し證入して住すると云ふのではない。阿羅羅迦羅摩は實際この法を知り見て住するのである。そこで比丘等よ、私は阿羅羅迦羅摩の處へ行きこのように云つた。
「迦羅摩よ、何の範圍迄、あなたはこの法を自ら知り實現し證入して住すると云はれるのであるか」。
かう問はれて阿羅羅迦羅摩は無所有處を告げた。私は思ふよう。阿羅羅迦羅摩が信仰がある許りではない、私にも信仰がある。阿羅羅迦羅摩に精進……正念……定……智慧がある許りではない、私にも智慧がある。阿羅羅迦羅摩
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が自ら知り自ら實現し證入して住するといふその法を實現するよう勤めようと。比丘等よ、私は間もなく速にその法を自ら知り自ら實現し證入して住した。
經典はこれより、このことに依つて阿羅羅迦羅摩が釋尊に拂ふ尊敬を示し、釋尊が、「この法は厭離、離欲、滅、靜安、上智、正覺、
槃のためにならない、只無所有處に生れるのみである」とし、その法に滿足せず厭うて去られたことを記してゐる。
次に鬱頭迦羅摩子の處へ行かれるのであるが、記述は全然前と同じく、たゞ無所有處に換へるに悲想非々想處を以てすれば善いのである。
この記述は一見して解るように二段に分れ、教理の了解が第一段であり、無處有處又は非想非々想處の實證が第二段である。漢譯羅摩經は前の第一段を缺き、後の第二段のみである。中尼柯耶三六經八十五經も一段二段を有すること聖求經に同じい。然し漢巴何れの記述にしても、この兩人が禪定者であつて、無所有處又は非想非々想處を實證して、それを以て
槃境としてゐること丈けは疑ひない。この無所有處、非想非々想處は、佛教で云ふ四禪を超えて四無色の中の空無邊處、識無邊處を超えて達する境地であつてこの四無色は何れも、一方禪定の或る特殊の心境といふ風にも考へられると共に、他方死後生れるべきさういふ特殊の世界といふ風にも考へられてゐるのである。四禪も佛教の經典に從ふ限り、この四無色と同じいように、特殊の心境と特殊の世界といふ二つの意味を持つてゐたのである。一寸考へると四禪四無色は禪定の淺深の階段であり、それが又死後の世界の約束であり、當時の禪定者の思想であつたものを佛教に採用せられたようにも考へられるが、當時の禪定者の考へであつたことは間違ないが、四禪四無色を階段的に考へ
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てゐたのではなくて、それぞれの一つに住してそれを最高としてゐたのであつて、それを又批評する立場に立つて、階次的に見た意見があつて、それが佛教中に取り入れられたと見た方が至當のようである。それで四禪は梵網經では六十二見中の現生
槃論の後四に列ね、四無色は斷滅論の七見中の四五六七に列ねて居るのであるが、四禪はその禪味を目的として考へ、その禪味に浸つてゐる間を涅槃、現在に於て達する涅槃と考へてゐたのであり、四無色はそれぞれの世界に於て「我」が初めて斷滅するといふ意見である。この四無色も、無所有處、非想非々想處に就いて、阿羅々迦羅摩、鬱陀迦羅摩子が、體驗してゐる、言や理論丈けではなく身證してゐる、私も身證出來ない筈はないと釋尊が身證せられたといふ文から見ると、未來さういふ世界に生れる修行が出來たといふ意味ではなく、或る特殊の心境を指すのであることは明かである。婆娑論八(收一・三七)が、「外道執有四種解脱一名無身二名無邊意三名淨聚、四名世間窣堵波、無身者謂空無邊處、無邊意者謂識無邊處、淨聚者謂無所有處、世間窣堵波者謂非想非々想處」と云ふのもこの意味であらう。と共に又その心境に住したものは未來それぞれその名相當の無色處に生れると考へられてゐたのであらう。現に先きに引くやうに、聖求經には「只無所有處に生れるばかり」、「非想非々想處に生れるばかり」であるとして厭ひ捨てたと云うてあるのである。それから果してこれが梵網經に云ふやうに斷滅論なりや否やと云ふことになるとはつきりしないが、そこへ生れて後に滅する。それが眞の斷滅であつて、その下の界の滅とは異なる、この斷滅が輪廻の終極であると考へたとすれば、阿羅々迦羅摩、鬱頭迦羅摩子も斷滅論者であつた譯である。私は二人を斷滅論者と見て差支ないと思ふ。卽ち彼等は無所有處、非想非々想處をそれぞれ解脱と考へ、その解脱境に入るものは生前は退轉の止むなきに居るが(婆娑論八收一・三七にこの意味が記してある)、後にその解脱に應ずる天界に生れ、其處
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にて斷滅して、永久の解脱を得ると考へてゐたものとなるのである。
かういふ考方には、矢張り禪味を目的と考へる誤つた思想があると共に、他の世界に生れて後に涅槃に入るのだといふ未來
槃の考へ方があるのであるが、釋尊はこの二つの考へに反對せられたのである。それで捨て去られたのである。從つて釋尊の涅槃はこの二つの考へ方のない
槃であることは云ふ迄もないのである。
アラーラ・カーラーマは、倶戸那羅と波婆の間で、深い禪定に入つてゐて、五百輛の車が前を過ぎたのを知らなかつたとその弟子の福貴に傳へられてゐるのみであるが(一〇)、ウツダカ・ラーマプツタは次のやうな教理を説いたものとして傳へられてゐる。それは長尼柯耶二九經、長阿含十七經では、彼が「見て見ない」といふ詭辨的な語を使うたことを記してゐる。善く磨いた剃刀の平は兄るが刄は見ない。それ故に見て見ないと云ふことが出來るといふ意味である。漢譯も同じい意味になつてゐる。佛鳴はこれを、彼がこの見て見ないといふ矛盾語の意味を人々に尋ねたところ、誰も知らない、説明を求められて、この問の意味は深いが、腹具合の善い時に少しく考へれば説くことが出來ると曰つて、四ケ月間人々の尊教供養を受けて、見て見ないことは剃刀の平は見るべし、刄は見る可からず。これが見て見ないといふことであると説明したと註釋してゐる。註釋は勿論釋尊を押し上げるために、ラーマプツタを眨しめての解釋であるが、恐らく删闍耶などの屬する當時の詭辨派の一立言であつたであらう。
雜尼柯耶三五・一〇三、中阿一一四優陀羅經では、ラーマプツタが、「これは實に吠陀に達せるもの、これは實に一切の勝者、これは實に癰本を拔きしもの」と、自らそれに非ずして、斯くの如く揚言してゐることを非難してある。漢譯は意味不明の箇處がある。註譯もこの文の前語を解釋するに光明を與へないが、兎に角、 gandamūla 卽ち苦の本
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を拔き智者勝者であるといふ宣言であつて、釋尊がそれを否定せられた形になつてゐる。これに依つて見ると、ラーマプツタは當時の最も練達した禪定者の一人であり、現生最高の解脱にあり、未來非想非々想處天に生れて
槃に入るといふ考を持ち、當時の詭辨派に或る關係を持ち、苦の本を拔いたもの、智者勝者と宣言してゐたものであらう。エレツヤ王及びその六人の侍臣が供養尊敬してゐたことは、増尼柯耶四・一八七の記すところである。この増尼柯耶の文から見ると沙門ラーマプツタと呼ばれてゐるから、沙門婆羅門と分けて使ふ當時の用語法から見て、前の阿羅々迦羅摩と共に、正統婆羅門教系に屬する禪定者でなく、當時の社會が生んだ宇井教授の所謂一般社會系に屬する者であらう。又、その禪定にも、未來生れる天界に於ても、梵天との同侶になるといふ意味が全くないから、前の阿羅々迦羅摩と共に、正統婆羅門教系統のものではなく、當時の社會が生んだ、宇井博士の所謂一般社會系に屬する者であらう。
釋尊はかくしてこの二人の禪定者の教ゆるところを諾はないで、獨り善を求めて更にその旅に上り、優留毘羅の林の中を流るゝネーランヂヤナ川の白沙の汀の清いところに居を占めて、今度は苦行の實行に取りかゝられたのである。
註(一)同本長尼柯耶十六大般
槃經五・二七、法顯譯大般
槃經(昃一〇・三二)は共に廿九歲出家としてゐる。然し般泥沍經下(昃一〇・四四左)には昔我出家十有二年とし、佛般泥沍經(昃一〇・十八、十九)はこれに相當する場所で、出家の歲を出して居らない。中阿含二〇四羅摩經(昃七・七四)にも年二十九出家を傳へてゐる。
(二) Āpastamba 1.1.1.21
(三) Āpastamba 1.1.1.20
(四)過去現在因果經、太子端應經
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(五)中尼柯耶九三 Assalāyana S.
Kalpa S. § 10
(六)宇井博士 印度哲學研究第二六師外道研究、印度哲學研究第三阿含に顯はれた梵天、六十二見論、和辻哲郎氏原始佛教の實践哲學第一章根本的立場
(七)宇井博士印度哲學研究第三一一一頁
(八)宗教研究新三巻五號六號
(九)中尼柯耶七七マハーサクルダーイ經、中阿含二〇七箭毛經(昃七・七八)
(一〇)長尼柯耶十六大般
槃、長阿含二遊行經

大無量壽經
第二回
大谷大學教授
曾我量深
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第二講
宗教的要求の總合的主體としての「法藏菩薩」
私は前講に於て『大經』の「序分」の始終を貫通して宣示せられたる「大寂定」の瑞相を以て、完全なる宗教的體驗の象徵と觀るべきことを主張し、隨てその「正宗分」の中に廣く開演せらるべき、如來淨土の因果道桯も、衆生往生の因果道程も、共にこの體驗の内面的展開に外ならないことを明にせんと勉めた。さればこの大寂定こそは誠に宗教精神それ自體であり、如來の法性法身でありて、色もなく形もなく、名と想とを離れて、純一に内に平等無間斷なるものであらう。それが感覺意識として、感覺世界に迷ひ出でたる我々衆生を救濟せんがため、これを内から召喚し内へ自覺すると共に、それを外へ應化し、外から發遣するものが、此の經の序分に於て、一時に十方から來會せる菩薩大士であり、教主釋尊の五德瑞相であり、本經の正宗分の教説である。凡そ此等の顯現は「大寂三昧」が現實の衆生界へ神通し應化せる還相であらねばならぬ。而してこの神通や應化は大寂定の外面的偶然的の「一時的象徵」であつて、それはそれの内面的必然的の「眞實永遠の象徵」を先想せねばならぬのである。大寂定が外面的に衆生への應化するには、それが内面的に衆生を攝取することを先驗せねばならぬ。前者は大寂定の方便の化身であり、後者はそれの眞實の報身である。されば私は外的應化としての本經正宗の教説の文字を繙き、深くそれの詮顯せんと欲する意味を求め、それの方便化身を通じて、内に關係する所の、それの眞實報身を闡明せねばならぬ。
『大經』の正宗分の上下二巻は、その文字から見れば、古來の定説の如く、上巻には如來の淨土の因果を明にし、下巻
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には衆生の往生の因果を明にすると云ふべきである。今是を一層明瞭にするために私の言葉を以つて表明すれば、上巻は如來が衆生を内に攝取する因果道程であり、下巻は衆生が如來に内から召喚せらるゝ因果道程である。全體如來とか衆生とか云ふものは宗教原理に於て何であるか。如來は則ち宗教的意志の對象である、衆生は宗教的認識の對象である。隨て此の如來と衆生とが同一の次元に相對立する二箇の實體でなく、兩者を比較するに如來界は主客不二なる總相の根本的法界であり、衆生界は主客對立する別相の枝末的世界である。而も如來衆生を攝取すると云ふことゝ衆生が如來に召喚せらるゝと云ふことゝは、同一なる本願卽ち宗教的意志の體と用とである。衆生をそれの内に攝取するは本願の體であり、衆生が如來に召喚せらるゝは本願の用である。かくして攝取と召喚とが、前者は限りなく後者を裏づけ、また後者は限りなく前者に先だち、前者は無限に自己を具象化して止まないが、後者は無限に對象を超へて自己を概念化しやうとする。それは前者にあつては如何に自己を對象化しやうと努めても到底その本質は無限にして對象化することの出來ない所の主客不二の絶對我に立脚するからであり、後者は如何程純眞先驗の究極的主觀を求めやうとしてもそれはどこまでも客觀的内容に對立し、畢竟して對象を超越するを得ざる所の主客對立の相對的對象に立脚するからである。さればこの二箇の立場は相依りて成立するものであつて、その間に輕重を決すべきではないが、今此の『大經』はこの宗教的認識の問題を以て宗教的意志の問題の中に發見し、而して意志の中に於て認識の問題こそ意志の問題の眼目であることを明にせんがために、衆生の往生問題を後にし、如來の淨土問題を先にするのであらう。而も如來淨土の因たる本願はやがて衆生往生の因たる本願であるは勿論であると共に、それは衆生往生の單なる因ではなくして、衆生往生の因をして眞に因たらしむる究極原因である。されば衆生の往生の眞因としての本
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願は往生の果に對立する對象的の因ではなく、それは因果を總合する純一の因である。隨てそれは如何なる經驗をも超越して、それ自身純粹清淨の本性を持續すると共に、如何なる經驗の中にも入り來りて、それを攝取し、それをしてあるがまゝに純粹清淨の一如に歸入せしめずんば止まぬのである。
『大無量壽經』は親鸞が『教行信證』の教卷に述ぶる如く、「如來の本願を説く」をその宗教とするであらうが、しかし單に如來の本願を説くのではない、若し單に彌陀の本願を説くのであるならば、直接簡單に根本的なる第十八願の一つを以て尽きるであらう。亦隨てその願文の始めの「設我得佛」の語も、終りの「若不生者不取正覺」の語も自ら不要となり、且つ中間の重要文字である所の「至心、信樂、欲生我國」の三信も除き去られて、「衆生、念佛せば我國に生るべし」と云ふ如き簡單なるものとなり、同時に前後の四十七願は自然に消滅すべきである。然るに「根本的本願」としての念佛往生の願の外に前後四十七願を具に選擇するは何故であらう。それは單に根本本願を明にする以外に「因位本願」の意義を明にし、それによつて根本本願が如何なる道程によりて生起し、且つ如何なる理由によつてこれが根本本願としての價値を有するやを明にせんがために、廣く深く十方衆生の心の中に此を求めたのであらう。何故に念佛のみが衆生救濟の大行であり、また衆生の救濟に何故に淨土の往生を必要とし、如何にして衆生に於て念佛の行が可能であるか、且つ念佛の行が觀念でなくて稱名を顯はすかは、恐らくは單なる如來の根本的本願としては到底是等の諸問題を解決し得ない所であらう。而して此を決定し、依て以て「念佛往生」の根本本願の意義を闡明し、而して此の根本本願を圓滿成就せしめるものが、因位本願としての前後四十七願であらう。
全體第十八願が念佛の大願と云はるゝ所以の「乃至十念」の文字は、その源を「序分」の「大寂定」の内容なる「佛
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佛相念」に發せることは疑ひ得ない所であらう。而して念佛往生が如來の根本本願たる所以が大寂定の無限の内容をあるがまゝに等流し表明せし所に存すことは亦疑を容れぬ所であらう。但し兩者同一念佛でありながら、一方は「佛佛相念」であり、一方は「衆生の念佛」である、則ち「佛々相念」が「衆生の念佛」と轉ずる所に、念佛の内容に一箇の限定が加へられ、根本本願が因位本願となり、隨て「選擇の大願」と呼ばるゝに至つた理由があるのであらう。猶此の本願に關する詳細は、更に次に本願を講ずる所に譲り、茲には唯大寂定と第十八願に於ける念佛往生との間の交涉關係を説明し、單純なる如來の根本本願が如何にして因位本願と轉成したかの論理の道程を明瞭にするに止める。
私達は茲に兎に角「法藏菩薩」の「因位本願」に到達し得た。則ち因位本願なるものは無限性なる大寂定の宗教的精神が内に自己を展開し具象化したるものである。而して自己を内に限定しようとして、而もそれの主觀的境界が法藏菩薩として象徵せられ、此内面的主觀的限界の法藏菩薩に對して、限定せらるべき客觀的對象の外的境界が此法藏菩薩の師主として象徵せられたる「世自在王如來」である。
私達は暫く抽象的論議を止め、靜に此『大經』正宗分の勝因段を讀誦し、法藏菩薩の出現の道程を内觀しやうと思ふ。誠に此『大經』の法藏菩薩の本願選擇佛土莊嚴の叙述は宛然一大神話の姿を以て説かれた。私達は徒に一神話として聞くべきでない。此森嚴なる象徵の經文を通じて、そこに表現せる宗教精神に觸れねばならぬ。『今經』の説く所を讀むに、佛陀世尊は久遠劫を貫通せる大寂三昧に止住して、その歷史を凝視しつゝ、それの内面から時々に出現する還相の神光を觀じ、同時にその神光を嘆美する名號に注意したまひた。その内觀が深きより一層深きを加ふるに隨
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ふて、出現する還相の神光は次第に輝きを増すのである。而して最初に最も近く見出したる光の名は「錠光如來」であり、次に見出した名は「月光」であつた。かくて次第に五十三箇の神光を見出した。而して最後に發見したる、元始最大の光りの名は「世自在王如來」であつた。此等の神光は衆生界を遍照し、名を以て大寂定の德相を讃仰して、衆生の志願の滿足を預言した。而してその最後に憶念したる元始の光りなる「世自在王」に照されて、本性無限の大寂定は單純に外的無自覺であつて何等清淨眞實の内面生活の虛無であつた衆生を、始めてその内面に認識し得たのである。それは衆生の心の中に「願生の心」を發見することであつた。眞實に衆生が存在することは此「願生の心」を大寂定の中に發見せられてのことである。而してこの「願生の心」こそ實に「阿彌陀佛」の因位たる「法藏菩薩」の體であらう。
されば「法藏菩薩」の何者なるやを知らんと欲せば一切衆生の感覺意識を遍く貫き流れ、衆生の内的生命である所の「淨土に徃生せんことを願求する意欲」卽ち「願生の心」を内感せねばならない。私達は山河大地日月星辰の儼として外に千古に變らぬ偉大なる姿を仰ぎ、飜つて有情界の限りなく生れ限りなく死して内に連續無窮なるに顧みて、感覺意識の世界が如何に廣大であり、且つその能感の意欲の如何に深く強き根底を有するやに驚き、深重の悲痛感に堪へないのである。併しながら私達は徒に現實を悲痛する餘り、此れが能感の業因たる愛欲を斷念すべきであらうか。けれども自分一人だけで斷念し得られる如く感ぜらるゝ個我的愛欲は果して愛欲の全自體であらうか。それの當位に於て盲目的なる個我的の愛欲はそれの部分的反省である。愛欲の全自體は内に限りなく自己を開展し、その底知れぬ愛の泉をたゝへて、普く衆生の胸を貫き流れ、全我の自覺を喚起せしめずんば止まないのである。愛欲の不純不
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淨の相はその過去的反省の屍骸に外ならぬ。本性として内に等流して、無限に自覺の光明を滿足成就する所の愛欲自體は、性としてその不純の垢を離脱し凉淨明であらねばならぬ。されば私達は過去的反省の愛欲の屍骸から、現在に全衆生を愛の泉に浴せしめつゝある所の愛欲する意識に對向し、感覺せらるゝ現實と、それを感ずる愛欲とを、抽象し因果分立せしめずして、所謂業の因果を具體的一如に直觀し、眞に全體的なる現實的感覺意識そのものゝ意味を内觀せねばならぬ。業因の自證なるものは誠に業因の内面化であり、隨つて亦一面から見れば業因の超越である。それは隨つて一層内面的なる業果であり、更に一層深き業因を展開するであらう。私達が眞に現實を悲痛することはそれを内面化し、それを超越するに外ならぬ。業因を一層内面化することは則ち業果を一層内面化する所以である。業因が内に無限であれば、業果も隨つて内に無限であらねばならぬ。かくの如くして、内に無限なる「願生の心」はやがて衆生の内的無限の展開であらねばならぬ。
「願生の心」が阿彌陀佛の因位「法藏菩薩」の體であると云ふことは一往此に決定を得たとして、さて一體「如來の本願」卽純粹に因果超越の無限の大寂定を觀念し信知することだけで、純粹なる宗教的要求は滿足せらるべきではないか、今更に此を現實の衆生に對して此を限定し、煩しく、それの「因位」としての「願生の心」を主觀的に開展するは何の為であるか。それは宗教的要求の必然性として、自己を完全に對象化するを念願するからである。それは純粹無限の大寂定の佛々相念を對象化して、衆生の經驗の上に稱名念佛の行信を成立せしめるがためである。換言すれば衆生を大寂定の内に招喚することは畢竟するに大寂定の一如海にそれを攝取せんがためである。而して如來に攝取する道程が稱名であり、また衆生を招喚するの道程が同一の稱名念佛である。同一なる念佛は攝取の果に對しては客
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觀的道程であり、招換の因に對しては主觀的道程である。然り而して法藏菩薩の選擇本願たる因位の四十八願は正しく衆生を招喚したまふ所の因の主觀的道程を示し、此本願に依つて莊嚴成就せらるべき果の客觀的道程が本經に説く所の光明無量の眞佛土、則ち眞實報土と稱するものである。
かくの如く考へ來る時、私達は茲に大乘佛教に於ける佛道と菩薩道との相關相成が此法藏菩薩と阿彌陀佛との因果必然關係の上に巧に顯示せられてあることを想はしめられる。大乘經典を念ずるに『般若經』には純ら佛道を顯はし『華嚴經』は菩薩道を背景として菩薩道を顯示し、『法華經』は菩薩道を背景として更に深く佛道を詮示するものでなからうかと思ふ。また印度の論家について見るに、龍樹は小乘佛教に對して否定的に純一の佛道を高く掲げ、無着、世親は龍樹の純一佛道に立つて、再び小乘佛教を廻顧し、茲に小乘佛教に一層深き基礎を與ふる所の菩薩道の教學を建設した。龍樹の『中論』の教學は法についての「識」の否定であつたが、無着、世親の『唯識』の教學は此否定に立つて、法それ自體の中に自證する「識」を見出した。かくして法についての「識」をも成立する根據を與へ、菩薩道の建設に依つて小乘佛教に更に新生命を復活せしめた。所謂小乘佛教學は要するに世間實用の常識を用ゐて純正なる法の識を可能ならしめやうとするものである。されば大乘佛教に於ける一貫の問題は、佛道に於ける信解と、菩薩道に於ける行證との二者を、如何にして立體的に具足せしめ得べきやにある。『般若經』に於ける嚴肅なる常識の否認が、純粹なる先天的理解なる般若に因て清淨なる宗教的信を確立するにあつたことは疑を容れぬ。しかし、その宗教的信解の純粹なるを得る所以は『華嚴經』に開顯する所の圓滿具足なる菩薩の行證に裏づけられてのことである。唯問題は與へられたが、解決は已に問題の中に含まれて居ると思ふ。
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かくして再び私は『大經』にかへり、法藏菩薩の體とする所の純粹なる「願往生の心」について考へなければならぬ。この「願生の心」は法藏菩薩の四十八願を統一する主觀原理であつて、就中十八、十九、二十の三願に於て、三重に「欲生我國」を開顯して願生の心を徹底的に内面化し、深く衆生を招喚してあるが、これは此三願を通じて四十八願の全體が「欲生の心」の象徵莊嚴であると闡明するのでなからうかと思ふ。惟ふに法藏菩薩は此四十八願に先つて、その純眞なる無上菩提心を表白する所の「讃佛の偈頌」があり、また四十八願を結んで、滿願要證の「重誓の偈頌」がある。此は四十八願を「別願」とするに對して、「讃佛偈」は「總願」であり、「重誓偈」は「總誓」と名くべきであつて、「總願」は「別願」の各始に掲げられたる「設我得佛」の主觀的要求の底なき深さを顯はし、「總誓」は「別願」の各の終りの「不取正覺」の客觀的妥當の廣大普遍を顯はすものである。則ち「讃佛偈」は法藏菩薩が師主世自在王佛の三業の德相を憧憬して、その切なる大菩提心を開き、願作佛心から度衆生心へと内的に展開し、「重誓偈」は反對に先づ強き確信を以て、成佛、度生の大菩提心を飽くまで對象化し、普遍妥當を要請して止まないのである。兩者共に等しく大寂定の應化なる師主如來の功德神通の範圍を出でないのである。就中「讃佛偈」は正しく師佛に對する「信」の表明であり、「重誓偈」は師佛と等しき「證」を要請するのである。共に大乘佛教の通相たる願佛、度生の二願を總合する大菩提心の表明に出でないのである。元より總願の中に已に別願の根芽を包み、別願の華實は總誓の庫に充實してあるは勿論である。かくして中間の四十八願は信と證とを總合する所の「行」の願であると云ふべきであらう。四十八願は要するに通途の大菩提心の内容としての菩薩の四弘誓願や、それを概括する所の願佛、度生の二願の如き外面的可能的のものではなく、一々に完全なる必然的個性を有する「行」の願である。一々が特別なる内容を具備し、一
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般的なる信と證とをして獨自のものにしなければ止まないものである。
是故に『大經』に依れば、法藏菩薩は巳に「讃佛偈」を以て、その純一無限なる願を説き了り、次に別願選擇の問題に證入せんとするや、彼は師佛に向つて求むる所は次の如くであつた。
「やゝ然り世尊、我は無上正覺の心を發せり、
願くは佛、我がために廣く經法を宣べたまへ、
我はまさに佛國を修行し攝取して、無量なる妙土を清淨に莊嚴すべし、
我をして世に於て速に正覺を成り、諸の生死勤苦の本を拔かしめたまへ」
『經』によれば、こゝに世自在王佛は、卽ちために廣く二百一十億の諸佛の淨土の人天の善惡や國土の麤妙を説き、猶その心願に應じて悉く示現して觀せしめたまひた。時に法藏菩薩は普く此廣大深奧の諸佛の淨土の因果を聞見して、無上殊勝の願を超發し、寂静なる五劫の思惟によつて、佛國莊嚴についての清淨の行願を攝取し、此を具説せられたのが、四十八の「超世の大願」である。而して法藏菩薩は此弘誓を建立し已へて、此四十八願が攝取選擇せる實在的内容たる、悔廓廣大、超勝獨妙なる淨土を、永劫の修行を以て此を莊嚴し、衆生をして、その願生の心を成就圓滿せしめたまひたと、示されてある。
以上の經文を靜に考へて見るに、單に神話宗教として見れば五劫の思惟によつて四十八願の淨土を選擇し、永劫の修行によつてその淨土を莊嚴し、迷へる衆生をして往生の志願を充足せしめ終つたと云ふことで、願を行とを前後に區別することであるが、併し神話を超越して、その上に表現せる意味を考ふるに、永劫の修行が通常の菩薩であるに
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比較して、選擇されたる四十八願そのものが一層根本的なる行體でないかと思ふ。茲に往相、還相の言葉を以て分別すれば、五劫思惟の發願は則ち往相廻向の行と云ふべく、永劫修行の淨土莊嚴は此れ還相廻向の行と云ふべきである。宜なる哉、五劫思惟にありては法藏比丘なる一箇出家人として記されて、始終一箇の應化佛の常隨弟子たりしに過ぎなかつたが、永劫修行に入りては法藏菩薩なる全人格を得て、自由に十方世界に應化する相が説かれてあることである。則ち五劫の選擇本願の行は純粹にして超世間なる内的行であつたが、永劫修行は内は三昧常寂にして而も外に動亂の衆生に應化し、神通説法を以て變脱せしむる向外的行であるからである。私は『華嚴』等に説ける菩薩行としての十波羅密の如き外的なるものを以て、宗教的には方便化身の因行なる還相に外ならないとし、此を第二義の總行とし、第一義的往相の眞實行は、「願生の心」の内的展開である所の因位本願の選擇に存することを、茲に明にするのである。

勝鬘經
第二回
文學博士
常盤大定
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正宗分(本詞)
一、嘆佛眞實功德章
如來の來現に接した勝鬘夫人、及びゐならぶ人々は、再び如來に對して讃歌を奉り、その加護を請ふた。
如來の妙色身は、世間にともに等しきものなし。無比にして不思議なり。是の故に、今、敬禮し奉る。
如來の色は無盡なり、智惠も亦復然なり。一切の法は常住なり。是の故に、我れ歸依し奉る。
心の過惡と、及び身の四種とを降伏して、已に難伏地に到りたまふ。是の故に、法王を禮し奉る。
一切の爾炎の智惠身自在にして、一切の法を攝持し給ふを知る、是の故に今敬禮し奉る。
哀愍して我を覆護し、法種をして増長せしめ、此の世及び後世、願くば佛常に攝受し給へ。
此の讃歌の内に、佛教哲學上最も重要な佛身論が含まれてゐることを注意して置く。佛身論の最も發達したものは三身説である。三身とは法身、報身、應身である。或は又、自性身、受用身、變化身とも稱せられる。法身とは永劫不變なる萬有の本體、佛の自性たる理體をいふ。次に報身とは修業の結果現はれし人格的佛陀を云ふのであつて、因行に報いて顯はれた佛身であるから報身と云ふのである。報身は有形であり、然かも永恒性と普遍性とを具有するものである、淨土門の阿彌陀佛の如きはその代表的なるものである。然かるに此の佛身に自受用と他受用との二身あつて、前者は、佛自身法悦を味つて、他と共にせざるを云ひ、後者は、他のものをも共にその法悦に浴せしめん為に、其の身を示現して、衆生救濟の作用をなすをいふ。最後に應身とは、報身に接し得ざる劣れる衆生を救濟
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せんが為に、衆生の心の程度に隨つて種々に應現する佛で、歷史上の釋迦如來の如きを云ふ。
勝鬘が空中に應現した釋迦如來を拝して「如來の妙色身は云々」と讃歎したのは、應身としての佛に讃歌を奉つたのである。然し若し勝鬘が、單に應身としての佛にのみ讃歌を奉つたのであるならば、勝鬘は何等普遍人と選ぶところがないのである。然るに勝鬘は應身を通して、同時に普遍人には接することの出來ない報法二身に直接してゐるのである。此處に勝鬘の非凡なところがある。已に述べた如く、報身は、永恒であり、普遍である。色身、音聲、光明、壽命、法門、總て無量、無邊ならざるはない。大無量壽經には正覺の大音十方に響流す、と云つてある。勝鬘が「如來の色は無盡なり、智惠も亦然なり、と讃歎してゐるのは應身佛を通して同時に報身佛に直面したからである。又同時に法身に接してゐるのは、一切の法は常住なり、と云へる讃歌によつて、明瞭に現はれてゐる。次の二段は解脱と般若とを歎じてゐる。因つて、此の讃歌が應身、報身、法身、解脱、般若を歎じてゐることは、明瞭に知られるのである。これによつて、佛德は、これを舒ぶれば則ち法界に遍滿し、これを巻けば則ち慮絶言亡のものであるを知るべきである。
佛の勝相に接した勝鬘は、菩提心生起して、經の如く佛の哀愍、覆護を請うてゐる。その時佛は、勝鬘夫人が未來に於て作佛すべきことを豫言し、その樂土及び樂土に住する聖衆の勝相を説き給うた。かくて其の有樣を聞ける一切の人々、及び天人等皆心に彼の國に生ぜんことを願つたので、佛は、彼等も皆當に往生すべきを許された。
かくて、佛を見て歡喜し、希有の心を起した勝鬘夫人は、三寶海に歸入したのであつたが、正法が實現せらるゝ為には、信より戒に、願より實行に進まねばならない。
槃經には、一切衆生皆佛性を有し、悉く成佛すべし。要らず
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戎を持し、然る後性を見ん、と云つてゐる。勝鬘夫人は、前に法種をして増長せしめと云つたのを、如實に實現せんが為に、次の十大受を受けてゐる。十大受といふは十個の大願である。
二、十大受章
十大受は、これを三聚淨戒に概括しうるのである。三聚淨戒とは、攝律儀戒、攝善法戎、攝衆生戒である。一より五までは自己の行為に就いて防非止惡を誓つたのであるから、攝律儀戒である。經には
一、所受の戒に於て犯心を起さず。二、諸の尊長に於て慢心を起さず。三、諸の衆生に於て恚心を起さず。四、他の色身及び外の衆具に於て嫉心を起さず。五、内外の法に於て慳心を起さず。
とある。此の文の味はひは、各自の反省省察に待つより他はないのである。然し今もしこれを佛教心理の立場に於て考察すれば、迷界を構成する根本惡(無明)に對する心理的分析(煩惱)であることが明らかに理解せられる。初の一は總じて明し、後の四は別して明したものである。別中、慢とは、凡て己を恃んで高しとなす心である。隨つて有德の人、及び勝法に對して謙下の思なく、為めに迷界を構成して諸の苦を受けるにいたる。恚とは、瞋は憎恚するを性用とすとあるから、その本質は瞋である。吾々は瞋により身心を
惱して不安となり、諸の惡業を起して流轉するのである。嫉は嫉妬であつて、瞋を本質とした一作用である。然し此の場合は次の慳悋と倶に貪欲の意味を多量に包含してゐるやうに思ふ。然かるに貪、瞋、慢は總て無明卽ち癡に依つて成立してゐるのである。佛教では貪、瞋、癡、慢を四根本惑と稱してゐる。根本を滅することによつて枝末の消滅することは自然の道理であるから、勝鬘の四受は一切
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惑業を根本に統一して制伏せんとしたものである。又經文に内外と云つてゐるのによつても、單に出家法を説いたのではなく、在家そのまゝに佛教精神の實現を期せんとする態度が明らかに見らるゝ。此の精神が振張して社會的となつたのが、次の攝衆生戒である。經に曰く
六、自の為めに財物を受畜せず、悉く、貧苦の衆生の為めにせん。七、自の為めに四攝法を行ぜす、無愛染心、無厭足心、無罣礙心を以て、衆生を攝受せん。八、孤獨、幽繋、疾病、厄難、困苦の衆生を、義を以て饒益し、その苦を脱せしめん。九、惡律儀及び犯戒を見ば、或は折伏し、或は攝受せん。
右の四受は慈悲心の發露で、初二は慈心與樂を明してゐる。現代の經濟思想では、財の蓄積と云へば必ず搾取と云ふ考へが裏面に浮んでくるが、若し之に反して社會全般と云ふ廣い立場に眼をむけて、蓄財を考へるならば、必ず勝鬘の如く願望するに至る。卽ち純然として貧苦者の為めにするのである。四攝法とは、布施、愛語、利行、同事で、これを行ふに無貪、無瞋、無癡(聖德太子は無愛染心等をかく配當せらる)の動機よりするならば、そとには何等の功利的分子を認めることが出來ない。此の精神が社會的に實現したものは、後二受の悲心拔苦である。孤は孤兒院、獨は養老院、幽繋は刑務所教誨及び免囚保護、疾病は病院、厄難困苦は罹災者及び貧民救助の事業として現はれるのである。聖德太子が敬田、悲田・施藥等の諸院を經營せられた根底には、必ず十大受中の此等の精神が流れてゐたことは明白なことである。然し悲心拔苦は現實的苦を除くのみにては未だ徹底したものとは云へない。孤獨、幽繋等は自因によつて得た自果である。因を除くことによつて徹底する。その因を律儀と稱するのである。吾々の外的行為は一時的であるが、一時的な外的行為の後、行為の善惡に應じて、善惡の無表色(獨樂が糸行為によりて廻轉を起すも糸を離
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れて尚其作用を止めぬ如く)と稱せらる力が殘存するのである。此の時惡行為を持續せんことを期し惡の無表色を發するを惡律儀と云ふ。又受戒の時惡を斷じ善を持續せんことを期し善の無表色を發するを善律儀と云ふ。然かるに此の誓に違して戒を持續せざるを犯戒と稱す。故に此等惡律儀及び犯戒を除くことによつて悲心拔苦が徹底するのである。社會事業家の心すべきことである。
これ攝律儀戎に於て自己の完成を誓ひ、攝衆生戒に於て社會の完成を誓ふたのであるが、然しそれらの出發點であり同時に歸着點であるところのものは正法でなければならぬ。正法の攝受を誓ふのが最後の攝善法戒である。經には正法を攝受して終に忘失せしめざらんとある。
勝鬘が十大受を説き終るや、虛空より天華飜々として雨ふり、天の音樂が聞へ、その間に「是の如し、是の如し」と云ふ佛の妙聲が交はり、天地は歡喜に滿ち、人々は踊躍した。勝鬘は、是等の十大受を、更に三大願に結び束ねたのである。
三、三大願章
三大願とは、第一願を求正法智願といひ、第二願を説智願といひ、第三願を護法願と云ふ。求正法智とは、如實の世界を如實に認識する、自己完成を求めるのであるから、前の攝律儀戒に當り、説智とは自己完成と倶に、かくあるべき如實の世界を説いて他を完成せしめんとするから、前の攝衆生戒に當り、護法は、身命財を捨して正法を護持せんとするものであるから、前の攝善法戒に當る。十大受、三大願、倶に攝受正法を以て統一して居る所にこれなくん
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ば自己完成も社會救濟も無い事が分る。隨つて攝受正法が本經の中樞思想として如何に重要であるかが窺はれるのである。此の中樞問題に就て經は以下章を分ち、各方面より觀察して詳細を極はめてゐる。
四、攝受正法章
勝鬘は佛力を承け、攝受正法廣大の義を演べて
「菩薩恒沙の諸願、一切皆一大願中に入る、所謂、攝受正法なり。その廣大なるや無量なり、一切の佛法を得て、八萬四千の法門を攝するなり。」
斯の如くにして、經は、總じて一切佛法を攝受正法のもとに綜括し、更に此の一攝受正法が、對手の相異に適應して、種々相を成ずることを説いてゐる。
無聞非法の衆生には、人天の功德善根を以て之を成熟し、聲聞を求むるものには、聲聞乘を授け、緣覺を求むるものには緣覺乘を授け、大乘を求むるものには大乘を以てす。攝受正法の善男子善女子は、普ねく衆生の為に、不請の友となり、大悲を以て衆生を安慰し、哀愍し、世の法母となる。斯る人は他の為に身と命と財とを捨つ。身を捨てゝ不變常住の法身を得、命を持てゝ無邊常を得、財を捨てゝ圓滿の果報を得。
經の説くところによれば、攝受正法とは、一切佛法の出發點であると同時にまたその歸着點である。その正法とはまさしく如來藏に他ならないから、勝鬘經の自體は如來藏であると云ひうる。起信論の語を借りて云はゞ、如來藏に無量の性功德を具足して、能く一切世間出世間の善の因果を生ずるといふに相當する。華嚴宗で華嚴經の體を如來藏と
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なし一切認識を超越した絶對界の善を性起、或は如來出現と云ひ、認識界に於ける善を性起方便と云つてこれを性起に基礎付けてゐるのも、同一精神の發露である。又、天台が法華玄義に「如來藏とは是法華の正體、一實理なるが故に名けて藏となす。實理の中、備に同體權實の法あり」と云ひ、又「諸方便悉く圓より出づ。(乃至)諸乘の數法如來藏所攝となす」と云へるなど、至るところに同一の思想が見らるゝのである。若し現代の表現を以てせば、善の先驗性を眞如如來藏に求めたと云ひうるのである。隨つて、不請の友となり、大悲を以て安慰し、哀愍するのは、はかない一沫の感情に動かされたと云ふが如きものでなく、先驗的統一の自己發現である。さればこそ、經には、身を捨てて常住の法身を得、(乃至)財を捨てゝ圓滿の果法を得、と云ふのである。
勝鬘の所説を聞かれた世尊は、隨喜の心を起して汝の所説の如しと歎じ、大乘の攝受正法が、人天、二乘の善に超絶してゐることを明して、究竟地を示された。
五、一乘章
本經の題名が、勝鬘師子吼一乘大方便となつてゐる如く、一乘は經の宗旨である。前章に於て、勝鬘は、人々の個性に應じて各ゝの教が施設せられることを説いた。而して各ゝの教が、たとひ眞如如來藏より流出してゐるものと雖も、聽法者の能力に適するやうに施設せられる限り、それは方便の教である。方便教なればこそ、二乘三乘乃至無量乘に分れるのである。然かも聽法者は、其れ等の教法を各ゝ別異のものと執するを以て、勝鬘は今や異を會して同じく一乘に歸入すべきことを顯はすのである。隨つて大小二乘の對立が著しく目立つてゐる。先づ總じて大乘の外に小
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乘なく、小乘は大乘に依つてゐることを明して、
世尊よ、攝受正法は摩訶衍なり。聲聞緣覺世間出世間の善法は、皆摩訶衍より出で、摩訶衍に依りて増長することを得。
といひ、次に別して、小乘の因行が畢竟大乘に會入すべきを明して、
世尊が小乘中に施設せる六處、卽ち正法住も、正法滅も、波羅提木叉も、毘尼も、出家も、受具足も、大乘の為めの故に説く。
といふ。正法住、正法滅とは、正法の興衰を示したもので、佛滅後五百年間を正法住となし、其後の五百年を、正法滅といふ。波羅提木叉とは、別解脱と譯し、得善を意味する。毘尼は滅惡の義、出家は入道の初めである。受具足は具足戒を受けて比丘の資格を受ることである。攝大乘論に「佛、六を説く所以は、言は小に屬すと雖も、而かも意は大にあり」と云へるが如く、大乘の他に小乘なく、小乘は大乘に依つてゐるのであるとして、小乘の因を大乘に求めたのである。次に小乘の果を、大乘に歸入せしめて、
阿羅漢は如來によりて出家し、猶ほ恐怖ありて、究竟の樂なし。佛のみ獨り
槃を得たまふ。
といふ。此れ小乘の究竟位たる阿羅漢が、實は未究竟たるものなるを現はしたのである。それは阿羅漢に恐怖あるを以て知られるのである。寶性論にも、一切煩惱の習氣を斷ぜざるが故に、有為の行想に於て恐怖心を生ずと云つてある。果して然からば、如何にして阿羅漢の四智、卽ち我生已に盡き、梵行已に立ち、所作已に辨じ、後有を受けず、と云ひうるのであらう。經には次の如く説いてある。
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阿羅漢と辟支佛とは餘過あり、
槃を得といふは、佛の方便なり。四智究竟して、蘇息處を得るといふも、亦是れ如來の方便なり。何を以ての故に、阿羅漢は、分段生死を斷つを以ての故に我生已盡と説き、有餘の果證を得るが故に梵行已立と説き、未だ作さざる虛偽の煩惱を斷ずるが故に、所作已辨と説き、所斷の煩惱後有を受くる能はざるが故に、不受後有と説く。
經の意によらば、阿羅漢の四智は分段生死を斷ずる邊に就いて云つたのである。現に吾々の受けてゐる生命は、過去に起した煩惱の勢力の強弱に隨つて、或る期間連續してゐるのである。而して其の期間を經過し終ることによつて、現世の生命を終ると共に、更に現世に起した煩惱の資助によつて、再び他生を受けて生死流轉する。此の生死に分段を見る故に、分段生死と稱するのである。分段生死は、必ず煩惱障の資助に由る。阿羅漢は分段生死を起す煩惱障を斷じ終りて、分段生死を受くべき道理なきを以て、此の分段生死に就いて、四智圓滿と説いたのである。さあれ、分段生死を斷じ三界の流轉を脱するも、佛果に到るには、なほ無數劫の修業を要す。此の間の微妙不測の生命を、不思議變易生死と云ふ。此の變易生死を斷ぜざる阿羅漢の四智は、未だ圓滿究竟とは云へない。故に經は其の理由を説いてゐる。
世尊よ。阿羅漢、辟支佛は起煩惱を斷ずるも、その所依たる無明住地を斷ずる能はず。無明住地に覆障せらるゝが故に、その解説究竟せず、餘過あり、少分の
槃を得るのみ。
此處に來りて、阿羅漢の未究竟なる理由、卽ち斷惑の分齊が指示せられてある。惑を知的と情意的とに分ち、前者を見惑と稱し、後者を思惑と云ふ。見惑は頓斷如破石と云ひ、理論の理解によつて直ちに除去しうるが、思惑は漸斷如
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藕絲と稱して、前者の如く、簡單にはゆかない。一茶の有名な句に「露の世は露の世ながらさりながら」と云ふのがある。露の世と云ふ理解は、見惑を除去したのであるが、見惑を除去して露の世と理解しても、さりながら、と云ふ思惑がなほ殘る。此思惑を漸時に斷じ去る心的練訓の、次第に微妙になりゆくのを、三階段に分つて欲界、色界、無色界と分つ。此の前後四の場合に生起する煩惱を、起煩惱と云ふのである。此の煩惱を斷除し得ざる間は、三界流轉の分段生死を受けるのである。阿羅漢は此等の煩惱を斷じて、分段生死より解説するが、なほその煩惱の本源たる無明が存在してゐるから、此の無明を斷ぜざる阿羅漢の解脱涅槃は究竟とは云へない。此の無明住地を斷滅して、無上
槃に到るは、佛のみであつて、小乘のあづかり知らざる究竟地である。經は更に續けていふ、
されども、聲聞、緣覺は愚ならず、畢竟大乘に入るべきものなれば、自ら菩提を得べきを知る。大乘は佛乘なり、故に三乘は一乘なり。一乘を得るものは菩提を得、菩提とは
槃界なり、
槃界とは如來の法身なり。
かくて小乘の果も畢竟大乘の果に會入すべきを明し、更に二乘の三歸依を、歸依如來に會して一乘の外に二乘なしと結んでゐる。
三乘衆に恐怖あり、如來に歸依して菩提に向ふ。されば三歸依と云ふも、畢竟は如來に歸するなり。何を以ての故に、一乘道を説き給へばなり。如來彼の所欲に隨ひて、方便を以て説き給へるは是大乘なり。二乘あることなし。二乘は一乘に入る。と
已上一乘とは如何なるものであるか、卽ちそれは二乘三乘乃至無量の末説を攝めて歸入すべき根本眞實の教であることを明したのである。よつて自下第二に一乘の境界或は一乘の一乘たる理由に就いて述べてある。

佛所行讚
第一回
文學士
平等通昭
頁一
佛所行讚
平等通昭
第一 佛所行讃解説
一 序
我々は佛所行讃に於て創めて、佛教文學史上稍ゝもすれば乾燥にして冗長なる諸作の後に、純梵文學の諸傑作に比肩し得る純藝術的一傑作を見出し得る。又この佛所行讃に至つて初めて、佛傳文獻史上粗朴にして首尾なき斷片的部分傳の後に、稍正鵠に近しと覺しき佛全傳を發見し得るのである。實に、吠陀 Veda の讃歌・大婆羅多詩 Mahābhārata ・羅摩耶那詩 Rāmāyana の叙事詩等に榮えた印度文學と、阿含聖典以後の佛教思想殊に佛陀觀とが、印度文化に培はれた天才馬鳴の心靈の坩堝に溶し合はされ、此處に創り出されたのが、大宮廷叙事詩佛所行讃であつたのである。まこと、佛所行讃は印度文化の花園の中に爛漫と咲き亂れて、他純文學と艶を競ふ蓮華であり、光明けき佛教の摩尼の中にても分けて光燦然たる珠玉である。
佛所行讃に就いては旣に良く知られて、今更私によつて喋々される要もないと思ふが、唯此處には講述の順序として、學術的考證は避けて、唯研究の結果のみを簡單に綴つて、紹介解題とすることゝする。
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二、作者馬鳴
梵文佛所行讃 Buddhaearita の作者が馬鳴 Aśvaghoṣa であることは、各種の理由から信じ得る。馬鳴に就いては現在の學界の研究は確定的なものを出すに至つて居ないが、自分は彼の年代は西曆紀元後一世紀後半から紀元二世紀前半にかゝるものと推論する。馬鳴の著大莊嚴論經三巻六巻にも出で、他書には彼と交涉あつたと傳へる栴檀罽尼吒又は眞檀迦膩吒 Chandana Kanīta 王は、紀元後二世紀在位が略定説の迦膩色迦王 Kaniska と同一人らしい。又一方、佛教の法燈傳承の方からも、馬鳴の師と傳へられる脇尊者は一世紀の人である。其故に馬鳴は一、二世紀在世と考へるのが最も妥當と思はれる。而して紀元前にも紀元後二世紀以後にも置くことは出來ないと思ふ。
彼の生地は婆枳多 Bhāsita( Āketa-Ayodhyā 今日の Ondho 世親傳)、或ひは波羅奈斯 Vārāṇasi (佛祖通載)又は巴蓮弗城 PĀtaliputra とも言はれてゐる。何れにしても、彼の中印度の生れなのは確であらう。波羅門族の出身で、深い波羅門教育を受け、世親傳の傳説によれば八分毘枷羅論・四毘陀・六論に通じ、(十八部を解し)(1)たと言ふ。(婆藪槃豆法師傳、藏九・一一五b)初め有我思想を稱へて佛教に反對して居つたが、脇 Pār᾽ava 尊者又は富那奢 Puṇyaya᾽sas 尊者に教化されて佛教に歸依し、教義の宣揚に努めた。傳説によれば、その後東征の罽呢吒王に連れ歸られ、北印度に赴いたといふが、(付法藏因緣傳五、馬鳴菩薩傳)、その眞偽は未だ斷定し難い。
その佛教思想は多く一切有部に屬するが、大衆部等の進步思想を取り入れる邊、又文體・氣分・態度等より、自由思想の佛教詩人として分別部又は分別部的行き方を取つた人の如く思はれる。大乘思想家ではないが、佛陀の崇拝讃嘆に力を入れる内、心内に大乘の萠芽を藏するに至つたが、それは十分に芽生えなかつたらしい。
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彼の著作として確實なものは、大莊嚴論經( Sūtrālamkāras 原典失。鳩摩羅什四〇五年譯)と佛所行讃で、サウンダラアーナンダ詩 Sanndarānanda Kāvya も略ゝその著たること確からしく、其他の馬鳴作と傳へられる書は彼の著なること殆んど疑しい。殊に從來馬鳴著と傳へられた大乘起信論は更に何等かの文獻の發見されない限り、現在に於ては思想・文體上馬鳴著作と考へ難い。古來馬鳴が大毘婆沙論編纂に關係したと傳承するが、疑はしい。唯、サウンダラアーナンダ詩の巻末には解脱の為に (mokṣāt) 書いたと記してゐるから、他に何等かの哲學的著書あり、大乘起信論の原始的原型(若しありとすれば)の如きものを書いたかも知れない。
馬鳴は從來大乘佛教徒として喧傳崇拝されて來たが、今後は寧ろより多く佛教詩人・文藝家として注目讃仰さるべきである。彼は叙事詩家戯曲家抒情詩人として印度文學史上に最も優れた詩人の一人として顯著な重要な地位を占めるに至つた。彼は佛教的感情を純藝術的表現によつて歌ひ出で、實に羅摩耶奈詩の著作者跋彌
Vālmīki の後繼者であり、かの著名なカーリダーサ Kālidāsa の先驅者である。彼は藝術的才能に勝れ、付法藏因緣傳第五によれば、彼は妙伎樂
吒啝羅を作り、其音清雅哀婉調暢にして苦・空・無我の法を宣説し、伎人は解する能はず、曲調音節悉く乖錯する時、馬鳴は白氎を著け、衆伎人中に入り、自ら鐘鼓を撃ち、琴瑟を調和した。音節哀婉曲調成就し、諸法の苦・空、無我を演宣し、城中五百王子開悟し、五欲を厭惡し、出家して道を為した。華氏城王は人民の家法を捨離し、國土空曠し王業廢壞するを恐れ、その樂を禁制したといふ。(藏九・一〇五)
近世の研究の結果、彼が從來大乘家として佛教思想史上に占めてゐた顯要な地位は放棄しなければならなくなつたが、彼が梵文學史上、佛教詩人として輝しい地位を獲得することを闡明し得たことは滿足するに足らう。
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三 佛所行讃結構
現存梵文佛所行讃は十七品より成り、佛陀誕生に初り、還國に終つてゐる。然し、義淨の言葉によれば、本讃は「若し譯せば十餘巻有あり。意、如來の始王宮より雙樹に終る一代佛法を述ぶ」(南海寄歸傳第四)とあり、入滅までを含む譯であり、一方漢譯西藏譯は共に二十八品あり、生品より分舎利品に終り、佛生涯を記述しでゐる。それ故に十七品より成る現存梵本は前半に止り、然もその内馬鳴眞作のものは最初の十三品のみで、後の四品は思想が後代のもので、表現拙劣な點から、後世の附加──恐くは寫字生 Amḷitānanda の補書と思はれる。
今次に佛所行讃の各品の題名を梵本漢譯藏譯を對照して出さう。
梵本 漢譯 藏譯
1. Bhagavatprasūti sarga 生品 童子誕生品
2. Antaḥpuravihāra s. 處宮品 住王妃侍中品
3. Sanvegopapatti s. 厭患品 憂心生品
4. Strīvighātara s, 離欲品 婦人障碍品
5. Abhiniṣkramaṇa s. 出城品 外出品
6. Chandakanivartana s. 車匿還品 犍陀迦還退品
7. Tapovanapravo᾽sa s. 入苦行林品 入苦行林品
8. Antaḥpravilāpa s. 合宮憂悲品 王妃眷屬悲歎品
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9. Kumāraveṣaṇa s. 推求太子品 隨求青年品
10. Sreṇyābhigamana s.
沙王詣太子品
沙王請太子品
11. Kāmavigarhaṇa s. 答
沙王品 答請品
12. Arāḍadar᾽sana s. 阿羅蘭欝頭藍品 訪阿羅蘭欝陀羅品
13. Māravījaya s. 破魔品 降魔品
14. Abhisambodhanasamstavana s. 阿惟三菩提品 現成菩提品
15. Dharmaeakrapravartanādhyeṣaṇa s. 轉法輪品 轉法輪品
16. Dharmaeakrapravartana s.
沙王請弟子品
沙王諸弟子品
17. Imṃbinīyātrika s. 大弟子出家品 大聲聞出家品
18. 化給孤獨品 化給孤獨品
19. 父子相見品 父子相見品
20. 受祗恒精舍品 受祗園精舍品
21. 受射醉象調伏品 業相續品
22. 菴摩羅見佛品 觀菴摩羅女林品
23. 神力住壽品 身壽想攝受品
24. 離車辭別品 哀愍離車毘族品
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25. 涅槃品 入涅槃品
26. 大般涅槃品 大般
槃品
27. 歎
槃品 讃
槃品
28. 分舎利品 分舎利品
現在梵本十四品後半より十七品迄は漢藏譯に一致せず、寧ろ漢藏譯が原作に近い。
漢譯は北凉の曇無繊 Dharmarákṣa により紀元四一二年より四二一年間に譯された。五巻廿八品、譯文美しき韻文より成り、その調崇嚴、その詞婉麗、自由に漢語と漢詩の韻律を驅使し、一個の獨立した文學をさへなしてゐる。然しそれ丈に原典に忠實でない缺陷もあり、省略削除し、或ひは敷衍増補してゐることがある。西藏語譯はサーワンザンボとチエーヂヤルボの二人の共譯と巻末に記し、その飜譯年代は不明である。西藏語譯は梵本に殆んど逐字的に一致し、梵本の落脱違漏をこの譯によつて訂正し得る便さへあり、漢譯より寧ろ貴重なる譯書である。
十四品以下、梵本なき部分の漢譯と西藏譯は大體一致する。
梵本は Sylvain Lávi 教授により一八九二年第一品の出版と飜譯が公にされ、次で E. B. Cowell 教授により一八九三年良校訂本 The Buddhaearita
of A᾽svaghoṣa (Aneedota Oxoniensia) が、一八九四年その英譯
The Bubdhaearita (S. B. F. 49) が出版され、最近一九二三年 Richard Schmidt によりその獨逸譯 Buddha᾽s
Leben が共にされた。二譯共に立派な良譯であるが、前者には僅少の意譯増補がある、後考はより逐字的である。漢譯は S. Beal により Fo-Sho-Hing-Tsan-King
(S. B. E. XIX) として一八八三年英譯され、西藏語譯は寺本婉雅氏により大正十三年邦譯された。同じく藏譯八品迄は
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最近 Weller により Das Leben des Buddha I として校訂西藏語原典並びに飜譯が公にされた。
四 佛所行讃の思想的地位
如何なる宗教も、神話的人物にせよ、歷史的人物にせよ、何等かの意味に於て宗祖を有してゐる。然して宗祖は宗教の中心として、教義の淵源として、人格的感化の原動力として、信仰の對象として、重要な地位を占めてゐる。佛教・基督教の如くその教祖が歷史的實在の人物である場合には、殊に然るを見る。この故に各宗教は宗祖の人格を重く論ずるが、その人格の信仰に於ては一方直接經驗によつて宗祖に接せんとすると共に、他方宗祖の歷史的人格なるを要求する。こゝに兩者一致の努力は宗祖の傳記となつて現れる。然して宗祖の傳記に於てはその目的として傳記を記錄し、人々に傳へて人格的感化を及さんとする故に、必然的に事實を理想化するに至る。
佛教に於て、その教祖釋尊は佛教の理想たる菩提の體得者として、僧團の指導者として最も重要であり、その教義も教祖たる釋導の人格と自覺とを基礎としてゐる。然し、滅後間もない頃には纏つた佛傳の如きものはなく、僅かに大品 Mahāvagga 等の律藏中の斷片的記述・大般
槃經 Mahāparinibbāna sutta (遊行經)等を有するに過ぎない。これは滅後間もない時代は佛陀に對する記憶新で、法に注意せよとの佛の遺誡に從つて、法の記錄に急で、佛傳の如きを顧る暇がなかつた為の現象であらう。然し、佛陀を去るに遠く、佛陀に親しく接した弟子も沒し、教祖を慕ふ風が盛になると共に、ある程度の纏つた佛傳を欲するに至り、遂には聖典に傳る材料・教團に傳る口碑・自己の理解する佛陀觀を加味し、こゝに佛陀傳が成立した。卽ち現存する本生譚 Jātaka ・行藏 Cariyā pitaka ・因緣譚 Nidānakathā ・修行本起經・太子瑞應經・過去現在因果經・大事經 Mahāvastu ・佛本行集經・佛所行讃 Buddha-earita ・佛本行經・普曜經
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Lalitavistara 等の佛傳文學が之である。(佛所行讃・佛本行經の佛全傳たる外、悉く佛部分傳)
此の中に於て、佛所行讃は數少き佛全傳中の逸作であり、在來の材料に基きつゝ、事實を重じ、適度の理想化を加へて、美しき韻文にて佛陀の生涯とその教義を朗らかに、歌ひ出で、その人格を讃えて、人格的感化を人々の胸に引き越さんとしてゐる。その記述は誇張修飾少く、歷史的事實に近いと覺しく、他の佛傳文獻と對象比較研究して、史的事實としての佛傳を推定するに役立つこと多く、徒らに捉れることなく、古代の聖典によく通曉して而もそれを自由に取捨し、尚も多くの古傳説を含んでゐる。
かく單に佛傳として貴重なる文獻たるに止らず、その思想は原始的佛教をさして多く出でないにしても、佛教の眞髓要諦を悉く簡潔にその内に藏めて、麗しい語によつて飾り、珠玉のやうな光を發つてゐる。而も本讃には數論瑜伽等の外道哲學思想・神話傳説等を記述することは本讃の内容を多樣豊富にし、他諸書と關係附けしめ、その研究に役立つことも多い。殊に最近の私の考證によれば、本讃は大婆羅多詩中の解脱法品 Moksadharma と密接な關係あり、(2)その結果は今後各方面に重大なる關係を及すことゝならう。(拙稿「馬鳴と解脱法品との關係に就いて」參照)
五 佛所行讃の文學的地位
自然の讃歌たる諸吠陀・哲學の淵源たる梵書 Brāhmana 奧義書 Upanisad ・傳承の財源たる古傳承 Purāna・今昔物語 Itihāsa 等に培はれた詩想豊かな印度人の心情は、遂に二大叙事詩大婆羅多詩・羅摩耶奈詩を創り出した。而して物語詩 Akhyāna ・聖聞 Smriti としての大娑羅多詩の後を受け、宮廷叙事詩 Kāvya としての羅摩耶奈の作者跋彌 Vālmīki の後繼者して生れ出でたのは、馬鳴の大宮廷叙事詩佛所行讃である。而して馬鳴の後に來つて、梵文學の精
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美を完成したのは叙事詩 Raghuvaṃ᾽sa ・戯曲 Śakunta ・抒情詩「雲の使」
Meghadūta 其他の諸傑作の作者として著名な Kālidāsa である。我々は之等の諸作諸詩人の間に事實密接なる關係を指摘し得る(3)のであつて、馬鳴及び佛所行讃は印度文化の主流に棹さすものとして、梵文學史上極めて重要なる地位を占めるものである。
その表現は宮廷叙事詩 Kāvya として梵詩の諸規に則り、殊に韻律によく、 Alamkāra (修飾)調に中庸を得、詩語詩調のみでなく、奇蹟を述べるにも徒らな誇張なく、材料は整頓され、藝術的統一を得てゐる。その用語はカーリダーサに比すれば未だ多少粗朴ではあるが、反つて其處に荒削りの彫刻に見る生々しい太い線の美しさを見る。洗練された繊細ではなからうが、雄渾な筆致がある。爛熟の落日の麗しさでなく、暗闇を破る黎明の若き日の輝きである。その韻律は時に雄渾・莊重・時に輕快・華麗或ひは沈潜・逡巡・悲調・哀愁を含み、よく内容と調和し、妙に流暢に歌ひ出てゐる。
梵文學史上の最も卓越した逸作の一つなること、世界古典文學の名詩なることは否み得ない。
六 宗教藝術として佛所行讃
分けて佛所行讃の秀でた所は「古い熟知された傳説に纏ふに新しい詩の衣を以てし、佛教經典中の世に知れ渡つた教義を表現するのに自己獨創の麗辭を以てした」( Winternitz: Gesehiehte der Indischen Litteratur 印度文學史 IIBd, S. 205 )ことである。實に馬鳴は自己心内に宗教の眞髓──佛教思想と藝術の本質とを渾然と融け合はしめて、それを聲高らかに朗らかに歌ひ出で、以て佛陀を讃嘆したのである。我々は馬鳴心内に宗教と藝術の一致の境地を見、佛所行讃に於て宗教と藝術との渾然たる融合を見る。我々は實にこの佛所行讃に於て始めて、ウインテルニツツ教授の言ふ
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如く、「佛陀の人格を衷心より憧憬し、恭敬し、佛陀の教義の眞髓に徹し、その生涯と教義とを極めて氣高い藝術味に富んだ、而も何等虛飾に陷入らない言葉で朗らかに歌ひ出でた眞の詩聖の眞の佛陀叙事詩を見ることが出來る。( WG. I. L. IIBd. S. 204 )誠に佛所行讃に就き義淨の言ふことは正鵠を得て得る。「意明かにして字少くして義を攝する能く多し。復た讀者をして心悦び惓くを忘れ使む。又復聖教を纂持し能く福利を生ず。」(南海寄歸内法傳第四、致七・八a)。かくて我々はこの佛所行讃に於て宗教と藝術との渾然たる融合を見出す。
書肆に請はれるまゝに日本宗教大講堂の一講として佛陀讃嘆の詩佛所行讃を講述することゝなつた。先づ以上に本讃の解題をなして、その大體の概念を御承知願ひ、更に以下に過去滿三年を要して刻苦譯讀研鑚した梵文佛所行讃を中心に、梵本ある部分は之に漢藏譯を參照し、梵本なき部分は漢藏譯によつて、特に佛傳記に留意して、佛所行讃の綱要を述べたいと思ふ。然し紙數に制限もあり、到底十分なるを期し難いと思はれる。その點は御諒承願ひたい。足らぬ所は、小生の梵文佛所行讃の飜譯註譯が年内に公にされる筈であるから、それにて補つて戴ければ幸である。師事する馬鳴の傑作佛所行讃を中心に、佛陀の生涯と教義を講じ、讃ずるのも、淺からぬ緣と喜び、感謝したい。此処に併せて諸賢の御示教と御交情を願ふ次第である。
(一九二七・ニ・一三。東京帝大梵文學研究室にて)。
〔註解〕 一、八分毘枷罹論──波儞尼大仙 Pānini の八部の文典をいふ。四毘陀 Veda ──梨倶吠陀 Ṛgveda 夜柔吠陀 YajurV. 沙磨吠陀 SāmaV 阿圜婆吠陀 AtaarvaV の四吠陀をいふ。六論──數論 Sānkhya ・瑜伽 Yoga ・論理 Nyāya ・勝論 Vai᾽sesika ・吠檀多 Vedānta ・聲論 Mimāmsā の印度六派哲學をいふ。
ニ、梵文佛所行讃一・四六──五〇と解脱法品(大波羅多十二)二一〇・一九──二四との傳説の一致。佛讃十二・六七と解品三一八・五八──
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六二との數論論師の一致。佛讃十一・十二品と解品三二〇の思想的類似殊に前者十一・四七──八と後者三二〇・一三五──一四〇の言語的一致其他神話の一致。その結果、馬鳴(後一──二世紀)は解脱法品を知り、大婆羅多詩殊にその十二品解脱法品の大體は紀元後二世紀には成立してゐたこととなる。
三、ラゲヴアンシヤ七・五──一二の阿闍 Aja 太子を見んとする婦人の描寫と佛所行讃三・一三──二四の悉達太子外出を見んとする婦人の描寫の類似。カーリダーサの
Kumārasambhava と佛所行讃十三──七、八の魔羅強迫の描寫の類似。羅摩耶奈 (Bomb. ed.) 五・一〇・三四──四九の Rāvaṇa
鬼の宮廷の嬪室の描寫と佛所行讃五・四八──六一の太子出城の夜の嬪室の婦人の醜態の描寫の類似。其他神話傳説の一致。

日本佛教史
第一回
史料編纂官補
東洋大學教授
藤原猶雪
頁一
日本佛教史
藤原猶雪
緒言
佛教史の範圍には廣狹の二面と考へることが出來る。これを廣く採れば佛教々理史或は佛教々理史と謂はるゝ思想的哲學的方面の史的展開の考察も亦佛教史の一部であらねばならぬ。然るに之を狹く見れば畢竟佛教傳播史の謂であつて、佛教々團に對する歷史的地理的方面の變遷發達に對する考察を主とするものである。然し乍ら言ふまでもなく教團の成立が已に教學教理に其の基礎を有し、又教團の分岐派生は主として其教學教理に對する見解の相違に據るものであるから、佛教傳播史が佛教々學史と離れて獨自に存在するものでない。而して又、佛教々學史における純思想史的方面も思想そのものが、歷史的に將又地理的に變遷しつゝある事實を認むるなれば、佛教傳播史と離れて其所に正しく佛教々學史を考ふることは極めて至難であると思ふ。されば教學史と傳播史とは互助補綴して佛教の史的研究の成全を果遂せしむることゝなる。
茲に於てか私のものせんとする日本佛教史の範圍を定めねばならぬが、本講座に於ては史傳に併べて教學に關する概論及び各説幷に聖典の綱要が講ぜらるゝ筈であつて、教學史の方面は其等と重複する部分が多いと想はれるから、本講に於てはたゞ佛教々團の歷史的地理的變遷及び其發達に對し、影響を及ぼしたる教學教理に限つて顧慮すること
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にして、專ら傳播史を跡づくることにしたい。
佛教傳播史は之を各部に分つて研究することが出來る。或は教會寺院を中心とする教會寺院史、或は人物を中心とする佛教人物史、或は經典注疏の成立刊寫流傳等を中心とする佛教書史、或は文學藝術を中心とする佛教文學史、佛教藝術史等、各種の方面より精究して初めて成全が期せらるゝもので、極めて廣汎なる内容を持つものであらねばならぬ。されど限られたる時間と紙幅に於て此等の各部より精究することは到底不可能であるし、別に僧傳及び佛教印書史の講座が設けられ、又文學藝術に關する講座も特設されて居るから、本講に於ては國史特に日本文明史の上に、わが佛教が如何に傳播せしかの史的展開を跡づけて見ようと思ふ。
佛教は中印度に發源し北部迦濕彌留、尼波路を經て西藏に出で、支那南北朝時代に北魏に傳はり、更に之を三韓に傳へて居る。然るにこの謂ゆる北方佛教に對し、中印度の南方錫蘭に傳はり、緬甸、暹羅等に行はるゝ謂ゆる南方佛教があつて、輓近西洋の學者は佛教をこの南北に二大分して居る。而して言ふまでもなく、わが日本の佛教は三韓の一なる百濟より傳ふる所であるから北方佛教に容れられて居る。されど其の彙類は今日となつては單なる史實であつて、内面的には最早北方佛教の末端として其展開を議するには、餘りに偉大なる發達を遂げて仕舞つた。謂ゆる東流佛法
爾時舎利弗白佛言、世尊、甚深般若波羅蜜多、佛滅渡已後時後分後五百歲、於東北方廣流布耶、佛言舎利子、如是如是、甚深般若波羅蜜多、我滅度已後時後分後五百歲、於東北方當廣流布 大般若波羅蜜多經卷第三百二初分難聞功德品第三十九之六
卽ち佛教東漸の究極は、今や逆に光は東方よりの標語を翳して佛教の世界的大乘運動を促進せしめた。茲に於てか近
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頃文學博士鷲尾順敬氏が特に東方佛教を立稱して、わが日本佛教の歷史的特異を闡明せむとされたことに、私は滿腔の敬意と同賛を拂はなくてはならぬ。されば佛教史の三部、卽ち印度佛教史、北方佛教史、南方佛教史に對立すべき東方佛教史は、正にわが日本佛教の世界に有する使命を表象せる別稱と考へることも出來やう。かくて我が日本佛教が已に過去に於てわが文化の中心を成したに止らずして、進んで將來の世界文明に寄與するものであることを認めねばならぬ。
第一章 日本佛教の紀元
第一節 佛教渡來年時に關する諸説と其文献
わが日本國は佛教の渡來以前に於て儒教の傳來、漢學の輸入ありて已に支那文化に接觸したが、未だ以て文化の内容は極めて簡素であつた。然るに一度佛教を傳ふるや、當初は幾多の波瀾を生じたが遂に國民精神を全く同化して、僧侶は文運の指導者となり、啻に學問藝術に貢献したばかりでなく、國政に參與し外交の衝に當り、或は社會的公共事業や救恤に力を尽し、今日の文明日本國の出現に對し最も重要なる一母胎となつたのである。さればこの文化の母を迎へた紀年は、永劫に銘記さるべきものであらねばならぬ。然るにこの佛教渡來の年時に就ては異説を分つべき史徵が散見して、日本佛教の紀元を何年に定むべきかゞ疑はしくなつて來る。先づ其文献史料を掲げて之を剖檢し、其準據を定むることにしたいと思ふ。叙述の便宜上暫く史料の順位に據らず、渡來を古きに傳ふるものより抽出して其説の發生年代を考へ、其史的價値を論じて結歸する所を究明把握することにしやう。されば稍考證に亘る煩を辛抱せね
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ばならぬ。
(一)顯宗天皇時代
(1)、叡岳要記所引の傳教大師父三津百枝本緣起に見ゆる第二十四代顯宗天皇三年(紀元一一四七)
其父後漢孝獻帝孫高萬貴王子也、乘船浮浪遊海上、大日本國輕島明宮御宇、應神天皇第卅年、近江國志賀郡化來、年百餘歲也、始賜姓為三津氏、其名謂百枝、應神天皇第九女為妻、仁德天皇第十年 戊午 始賜位階為正五位、同天皇第廿年 辛未 叙正四位、顯宗皇帝第三年 丁卯 於志賀草屋取田中泥土、造長三尺比丘之形、人見之成怖畏之思、仁賢天皇第五年 壬申 叙三位兼近江守、宣化天皇第三年 戊午 賜水田川町、被充其所食、欽明天皇御宇兼酒守、同年自欽明天皇經巻佛像給、深習學之無他念、所造泥土僧形百枝始致禮拜有無量光明、此時彌知有佛法、同廿六年 乙酉 聖德太子見此佛像成怖畏、備香花燈明供養、致禮拜恭敬數百返、文殊彌勒普賢定三菩薩
この記事を一見するに、後漢獻帝の曾孫我國に歸化して三津百枝と稱した者が、顯宗天皇の三年に近江國志賀郡に草屋を構へ、田中の泥土を以て長三尺の比丘像を造るとあるから、當時已に佛教が我國に渡來した表徵と見做す一説が強ち成立たぬこともない。然し叡岳要記は後世の編纂であつて誤の多いことは、之を近く今文に徵しても想察することが出來る。卽ち三津百枝は傳教大師最澄の父とあるが、最澄は神護景雲元年の生誕であつて、三津百枝を父とするには實に父の四百八十餘歲の子となり、又百枝は歸化の當時、卽ち應神天皇の三十年に年齡百餘歲にして、其の後應神帝の第九女を妻とすと傳ふるが如きは、何れも事實に遠かるものである。加之ず聖德太子は敏達天皇三年の降誕な
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れば、記するが如く夫より九年前の欽明天皇二十六年には、如何にしても百枝所傳の佛像を見らるべき筈がない。されば叡岳要記收むる所の傳教大師父三津百枝本緣起なるものは、頗る疑問とすべきもので、顯宗三年説の史料の年代的價値は決して叡岳要記を朔るものとは思はれない。而して要記編纂の年代は詳かでないが、想ふに群書類從所收本の奧書に永和五年(康曆元)戊午五月日於石占井宿所以圓光寺上人乘空御本令交合畢とある永和五年を上ること餘り遠からざるものであらう。圓光寺上人乘空の時代が明となれば多少上ることも出來やうが、今は假りに書寫の永和五年を充つれば、顯宗三年より八百八十二年後の史料に過ぎなくなるから、其の所傳の史的價値に乏しいことが肯かれる。
(二)繼體天皇時代
(2)扶桑略記所載藥恒著法華驗記に引く禪岺の記に見ゆる第二十七代繼體天皇十六年(一一八二)二月
日吉藥恒法師法華驗記云、延曆寺禪岺記云、第廿七代繼體天皇卽位十六年壬寅、大唐漢人案部村主司馬達止、此年春二月入朝、卽結草堂於大和國高市郡坂田原、安置本尊歸依禮拜、舉世皆云、是大唐神、之出緣起、隱者(藥恒)見此文、欽明以前唐人持來佛像、然而非流布也、
これは延曆寺の禪岺が或る緣起によつて記した文が、藥恒の法華驗記に引用されたものを、更に扶桑略記が轉引したものである。これによると繼體天皇十六年二月に漢人司馬達止來朝し、草堂を大和高市郡坂田原に結び、本尊を安置し歸依禮拜したとある。司馬達止及び其の一族の事蹟は我正史にも見え、蘇我馬子と共に原始日本佛教史上の重要なる人物である。されど已に草堂を結び本尊を安置するに至つたか否かは明でない。その確否はこの所傳發生の年代
頁六
が何所まで朔り得るかによつて、多少固定し得るけれども、不幸にして餘り多くを其所に望み得ないやうである。今の文に之は緣起に出づとある謂ゆる緣起は、或は坂田寺の緣起かとも想像せられるが、元より斷定の限りでない。然るにこの史料の年代を定むるには、先づこの緣起、次に禪岺の記、次に法華驗記、終に扶桑略記の成立年代を充つべきであるが、前三書は傳らず、又禪岺及び藥恒の事蹟も不明に屬して其の寂年を知ることが出來ない。然し藥恒の法華驗記が扶桑略記に引用されたる範圍に於て暫く其の内容を見るに、延喜二年の條に藥恒の言葉として延喜年中とあるからには、恐らく延喜廿二年間を過ぎてからの筆と見做さなくてはならぬ。隨つて茲に藥恒生存の最高限を大略想察することが出來ると思ふ。加之ず近年東寺金剛藏より發見された尊勝眞言異本勘定持誦功能唐朝日域興隆流布緣起と題し、天台比叡山延曆寺隱者釋藥恒集の撰號を有する古書は、撰者の名及び住山、並に自名に隱者と冠する特稱等が共通して居るから、疑もなく法華驗記における藥恒の同著である。されば藥恒の時代は茲に一層明確にすることが出來るやうになつた。卽ちこの流布緣起には長承二年(一七九三)書寫の識語を有し、序文の中に延長三年(一五八五)の炎旱に當つて陀羅尼を持誦し、雨を祈つて驗のあつたことが出で、且つ朱雀天皇の為に陀羅尼を持誦し祈禱せしめられたことが見えるから、本書の内容は朱雀天皇治世自承平元年至天慶九年以後のものであることが知れる。隨つて其製作が承平天慶(一五九〇──一六〇六)以後長承二年以前の百八十年乃至二百三年間にあることは言ふまでもない。而して之と同著なる法華驗記を引く扶桑略記の最後記事が寛治八年(一七五四)三月二日に止むより見れば、恐らく法華驗記は朱雀天皇同世或は天皇を去ること遠からざるものと見るべきであらう。されば暫く朱雀上皇崩御の天曆六年(一六一二)を以て藥恒生存中の一年と假定すれば、繼體十六年を去ること四百三十年である。
頁七
(3)水鏡に見ゆる繼體天皇治世(一一六七──九〇)中
繼體天皇ノ御世ニモ唐ヨリ佛經ヲ日本ニ渡シタリキ、其時人未聖德太子以前ノ事ナレバ、佛ヲ持シ奉テ崇行然共、時ノ人々只唐ノ神ト名付テ佛共知奉ザリキ、又世ノ中ニモ彼佛ヒロマリ給ハズナリニキ、サリナガラ此欽明天皇ノ御世ヨリゾ(下略)
前説と同じく繼體天皇時代に佛教の渡來を示しては居るが、其年時を詳記せず單に繼體天皇の御治世に、唐より佛經の渡つたことを傳へるに過ぎないの異がある。而して水鏡の著者は普通に藤原忠親と言はれ(薩戒記應永三十三年十一月十六日の條)或は又源雅賴の作(永正七年二月十二日記載の砂巖)とも言はれ、前者は建久六年(一八五五)に後者は同三年に薨死して居るから、繼體天皇末年卽ち廿四年の渡來としても、六百六十二年乃至五年後の記載たるに過ぎないことゝなる。
(附)、この外、高田吉近の豊前國誌に繼體天皇廿五年渡來の説が見へて居る。卽ち「人皇二十七代繼體天皇廿五年、開山善正大師は後魏の孝莊帝の皇子、少くして佛門に入り、東方日本國に佛法を弘通して群迷を度せんと志し、晉泰の年、震且を辭して僧尼百六十餘人を將ゐて渡海し、筑前の國御笠の縣に着きたまひしが、其頃日本未だ釋氏あることを知らず、怪みて船より上げず、依つて善正唯一人如何にもして志願を達せんと古賀の庄に上り、夢を見て日子のの山あることを知りて入峰し、始めて開山となる、是れ日本に佛法來りし始めなり、此時より日子山靈山寺と號す」と。されど本書は近世の編纂であつて、其據る所も不確であるから、暫く異説として計上しないことにしやう。
頁八
(三)欽明天皇時代
(4)上宮聖德法皇帝説に見ゆる欽明天皇戊午歲(一一九八大化三)十月十二日
志癸島(欽明)天皇御世
(戊)午年十月十二日、百濟國聖明王、始奉度佛像經教幷僧等、敕授蘇我稻目宿禰大臣令興隆也(中略)志歸島天皇治天下
(四十)一年
辛卯年四月崩陵檜前坂合岡也
本書には欽明天皇戊午の年 日本書紀の宣化天皇三年に當る 百濟の聖明王より公式に佛像經教及び僧等を、我が大和朝廷に献じたること見え、第五の審祥記、第六の元興寺伽藍緣起流記資財帳、第七の顯戒論、第九の八宗綱要・第十の佛本傳來記、第十一の日本書紀、第十二の扶桑略記、一代要記、元亨釋書等の所説と同一の事實に對し、年月日を異にして傳へたものである。就中、第五第六第七とは全く同年の戊午歲渡來説を立てゝ居ることは特に注意したい。但しこの戊午説に就ては後に詳説するから、今は法皇帝説の年代を考へて史料としての評價を一言するに止めて置きたい。法王帝説の年代は先づ外型の上では平安中期承曆二年(一七三八)までしか上ることが出來ない。卽ち裏書の山田寺の下に「承曆戊午南一房寫之眞曜之本云々」とあるものが外的に其年代を制約する最古の文字である。而して現に知恩院に存する古寫本は奧書に「傳得僧相慶之」とあつて、其の所藏者相慶は法隆寺藏大般若經の跋文に「長寛二年(一八二四)甲申八月六日酉時書寫畢、法隆寺之五師大法師相慶之」と見え、又大谷大學圖書館所藏大般若經巻第二百七十三の奧書に「永萬二年(一八二六) 丙戌 五月廿五日午時許於法隆寺西室之邊依五師相慶大法師之勸進奉寫了」とある相慶であつて、眞曜と共に平安中期の人であることが知れる。然るに此知恩院本は假名源流考の著者大矢透氏は周音の事を考へる資料に採擇して、其書體延曆弘仁に近いも
頁九
のと推定された。されば帝説の本文は奈良朝のものであることは疑ふべきでない。加之ず本書の内容を檢する時は夙に狩谷液齊が「要之似未見古事記日本紀之所作、其為古記可知」と評結したるが如く、本書の製作は實に奈良朝初期にかゝること今や史家の等しく是認する所となつて居る。されば假に古事記撰進の和銅五年(一三七二)壬子を以つて帝説成立の最低限とする時は、所傳の戊午を下ること百七十四年にして、戊午説は佛教渡來の當時を去ること甚だ遠からざる期間に發生した所説として最も注意すべきものと肯かれる。
(5)三國佛法傳通緣起所引の審祥の記に見ゆる宣化三年戊午十二月十二日
昔新羅學生大安寺審祥大德記云、檜隅蘆入野宮御宇,宣化天皇卽位三年歲次戊午年十二月十二日、從百濟國佛法傳來、宣化天皇卽第二十九代帝王也、
審祥は新羅の歸化僧にして大安寺に住し、我國華嚴宗の祖となつて居る。同じく華嚴の學匠にして佛教史家であつた疑然が其著三國佛法傳通緣起に引載する所によつて其説を見るに、宣化天皇三年戊午歲十二月十二日百濟より渡來したと傳へて居る。この説が法王帝説の所説と相違する點は十月を十二月とし欽明天皇御宇を宣化天皇御宇の第三年とするの二點である。戊午歲は欽明宣化兩朝の何れに入るべきかは後述に譲り、今はこの説發生の年代を確むるに止めねばならぬ。然るに審祥の記は逸して傳らず、たゞ其寂年を三國佛法傳通緣起に「天平十四年壬午奄焉卒矣」とあるに徵し得るのみである。而して本朝高僧傳にも「不祥世齡法臘、祥師之事不載于國史及釋書、今據疑然之記以立傳焉」とある如く、疑然所傳の外に據るべきものがない。されば本説は宣化天皇三年戊午を去ること二百四年以内の所傳であることが考へられる。
頁一〇
(6)元興寺伽藍緣起流記資財帳に見ゆる欽明天皇七年戊午十二月
大倭國佛法、創自斯歸島宮治天下、夫國案春(欽明)岐廣庭天皇御世、蘇我大臣稻目宿禰奉時、治天下七年歲次戊午十二月度來、百濟國聖明王時、
この説も亦第四と第五に同じく戊午歲百濟傳來を示して居るが、第四法皇帝説に異なるは十月を十二月とし、第五審祥記に違するは彼が戊午歲を宣化三年とするに對し、これは欽明七年とするにある。これ等の是非は後に釋明することゝして、先づ本書の年代を檢するに、史家の間に異見あれど暫く文中「牒以去天平十八年十月十四日被僧綱所牒儞、寺家緣起並資財等物、子細勘錄、早可牒上者、依牒旨勘錄如前、今具事狀謹以牒上、天平十九年二月十二日」云々とあるに據れば、戊午歲を去ること二百九年の天平十九年の書上であることが知れる。
(7)顯戒論所引護命等の上表文に見ゆる欽明戊午歲
沙門護命等謹言、僧最澄奉献天台式幷表、奏不合教理事(中略)我日本國志貴島宮御宇天皇歲次戊午、百濟王奉渡佛法、聖君敬崇至今不絶 彈曰(最澄)、天皇御位元年庚申、御宇正經三十二歲、謹案歲次曆、都無戊午歲、元興緣起取戊午歲、巳乖實錄、敬崇之言未盡其理、沈燒之事理須注載也、 (中略)弘仁十年五月十九日大僧都傳灯大法師位護命(以下五人略ス)
弘仁十年に最澄が叡山に戒檀を設置することを朝廷に願つた時、奈良の僧都の意見を求められたから、護命等は其反對意見を上表した。然るに最澄は之に對して更に駁論を出したものが顯戒論であつて、巻頭に護命の上表文を引いて居る。而して其文中に欽明天皇戊午歲佛教渡來の記事に就ても、欽明天皇の御宇に戊午の年なきによつて其説を否認して居る。その當否は後に自ら明となるが、護命の所説は第四第五第六の諸説と同じく戊午説を執つて居ることを特
頁一一
に注意せねばならぬ。因に弘仁十年は戊午歲を去ること二百八十一年である。
(8)一代要記に見ゆる欽明天皇三年(一二〇二)十月十三日
三年壬戌十月十三日、從百濟國阿彌陀三尊、浮浪到來攝津難波津、佛像最初也、
右は日本最初の佛像として、欽明紀三年十月十三日百濟國より彌陀三尊が浪に浮んで、攝津難波の港に着いたことを示して居る。如何にも奇蹟的記載であるが、記述の意志は之を以て佛教の渡來を表示するにあるものと見なくてはならぬ。然るに此文は宛も扶桑略記所引の善光寺緣起の文を要約したものに酷似し、たゞ緣起は更に十年後の欽明天皇十三年十月十三日の事にかゝるの相違あるのみである。而して緣起の原文を彼此比較して見るに、扶桑略記の所引は全く其取意の文であることが知れる。想ふに一代要記の編者は善光寺緣起若くは扶桑略記の十三年と傳ふる十の字が脱落したものに據つて誤を傳へたものではなからうか。此の如く十三年の出來事と見れば第十一説と全く同じとなり、第十説日本書紀のそれとは同年同月に對し日附を補ふたゞけの違である。因に一代要記は最後の記事文保二年(一九七七)に止むから、暫く欽明天皇三年を保存するとして七百七十五年後の所傳に過ぎない。
(9)八宗綱要に見ゆる欽明六年(一二〇五)十一月
至如日本國、人王第三十代欽明天皇御宇六年乙丑當梁大同八年十一月從百濟國聖明王、献金銅釋迦像一躯及繙蓋若干經論、
これは欽明天皇の六年乙丑十一月に、百濟の聖明王から金銅の釋迦像、繙蓋、經論等を我朝に献じ公式に佛教の渡來せることを示して居る。乙丑歳は戊午歲に後るゝこと七年にして、八宗綱要は著者疑然の奧書に「文永五年戊寅正月二十九日於豫州圓明寺西谷記之」とあるから、この脱は欽明天皇六年を去る七百二十三年の所傳となる。但し疑然は六
頁一二
年乙丑の下に梁大同八年に當ると注して居るが、大同八年は壬戊にして日本書紀の欽明天皇三年に當り、欽明天皇六年は梁の大同十一年である。
(10)日本書紀所引孝德天皇詔、三國佛法傳通緣起所引華嚴宗幷因明章疏目錄序文、佛本傳來記に見ゆる欽明天皇十三年(一二一二)大化元年八月癸卯遺使於大寺喚聚僧尼而詔曰、於磯城嶋宮御宇(欽明)天皇十三年中、百濟明王奉傳佛法於我大倭(下略)、詔、東大寺圓超僧都延喜十四年甲戍奉詔、撰華嚴宗幷因明章疏目錄、彼序中云、磯城島金指宮御宇欽明天皇十三年佛法始傳矣、章疏目錄、
天國押排廣庭天皇磯城島宮御宇卅二歲之中第十三年壬申、百濟王、佛像經教奉渡日本、傳來記、
何れも前説より七年後れて、欽明朝十三年に渡つたことを傳へて居る。先づ詔は孝德天皇大化元年(一三〇五)のものであるから、欽明天皇十三年より僅に九十三年を距つるのみであつて、法皇帝説や日本書紀よりも古い文献史料となるが、果してこれが詔勅の文字の儘を傳ふるか否かは明でない。さればその成立年代は暫く書紀の編纂年時を以て律すべきものではなからうか。次に華嚴宗幷因明章疏目錄は右に引く如く、東大寺の圓超が延喜十四年(一五七四)に詔を奉じて撰んだものであるから、欽明十三年より三百六十二年を距てゝ居ることが知れる。次に佛本傳來記の成立は史家の間に異見あれど文中「豊御食炊姫天皇小治田宮御宇卅六歲之中第廿一年癸酉(中略)從爾以來至于天安二年戊寅合三百一歲」とあるによれば、天安二年の作と考へられて、欽明十三年を去ること三百六年の所傳となる。
(11)日本書紀に見ゆる欽明十三年十月
冬十月、百濟聖明王 更名聖王 遺西部姫氏達卒怒唎斯致契等、献釋迦佛金銅像一軀、幡蓋若干、經論若干巻、別表讃流通禮
頁一三
拝功德云(表讃文後出)
此内容全く第九に同じく、たゞ年月を十三年十月とするの異あるのみである。而して本説には百濟王の使者名も記され、且つ上表文まで收めてあるから、最も整つた如何にも佛教の大和朝廷に入る面影を彷彿せしむるの觀がある。されば普通にはこの欽明天皇十三年を以て佛教渡來の年時として、文部省檢定の中等教科用國史に或は「欽明天皇の御代百濟より佛教及び經卷を我が朝廷に献じて盛にその功德を説けり 紀元一二一二年(中略) この時始めて我が國に傳はりたるものなり」と記し、或は又「繼體天皇の御代に支那の人司馬達等はじめて佛像をもたらしけり(中略)百濟王佛像經論を献じて其の功德を說くに及び」と云ひ、又國定の尋常小學國史にも之を略載して「欽明天皇の御代始めて百濟よりつたはれり」とあつて、何れも書紀に發源し、欽明十三年を以て佛教渡來の年時として居る。果してこれ公準として史的妥當なるべきか、私は遺憾ながら之を疑ふ一人であるが、其等に就ては後項に讓り、今は書紀の成立が續日本紀養老四年(一三八〇)五月癸酉日(二十一)の條に「先是、一品舎人親王奉勅、修日本紀、至是功成、奏上紀三十卷系圖一巻」とあるに眼を注ぎ、養老四年欽明天皇十三年を去る百六十八年なることを注意するに止めておく。
(12)扶桑略記、一代要記、元亨釋書等に見ゆる欽明十三年十月十三日、
十三年壬申冬十月十三日辛酉、百濟國聖明王、始献金銅釋迦像一體幷經論幡蓋等、其表云(下略)、略記、
十三年壬申冬十月十三日辛酉、百濟國聖明王、始献金銅釋迦像一躯、彌勒石像幷經論幡蓋等、要記、
十三年十月十三日、百濟國聖明王、使西部姫氏達卒怒利斯致、貢献釋迦銅像經論幡蓋若干品、上表曰(下略)、釋書
これ等は何れも前の説に日附を補入したもので、たゞ略記要記の二つが高麗の使者名を缺き、要記が彌勒石像を加
頁一四
へ、釋書が釋迦銅像として金字を缺くを異とするの差あるのみである。而して扶桑略記にては五百四十二年、一代要記にては七百六十五年、元亨釋書にては七百六十九年後の所傳となる。
(13)佛法傳來次第、佛法由來集に見ゆる欽明天皇治世中
當于如來滅後一千二百餘年、 如來滅後一千一百年護法菩薩出世以其義述之 我日本國志貴嶋金刺宮御宇、百濟國始献佛像經論幡蓋等、傳來次第、大日本國第三十代欽明天皇御侍、始自百濟國渡佛法、入像法五百餘年許也、由來集、
この兩書は共に欽明天皇の御宇に百濟から傳へたことを出して居る。而して佛法傳來次第の製作年次は明でないが、本書の終に著者信救の自叙傳が附記されて居るから大凡見當がつく。卽ち「抑信救者、本是南曹北堂遊學末生也、近衛天皇在位之昔、忽辭槐市交、攀躋台嶺之嶮、於黑谷剃翠髮、初修行北陸、後居止南都、治承四年蕤賓之月、高倉皇子被攻逆臣入園城寺、住侶相議牒送南都乞救、●滿寺左北●●承諾、信救被押群議令草返牒、平氏傳見大成其怒(以下闕文)」とある。今假に治承四年を以て成立年時の最高限と見、更に欽明天皇御宇を十三年と假定するなれば、六百二十八年後の記載となる。次に佛法由來集は製作年時及び作者を詳にせず、續群書類從所收本の奧書に「弘安七年極月十日酉尅寫之慧一之」とある。この所藏者慧一の書寫の年時を以て暫く本書の撰時と見做せば、欽明十三年を去ること七百三十二年の所傳である。
以上、この十三説の中最も早き顯宗天皇三年と最も後るゝ欽明天皇との間には、實に六十有五年の差があつて、何れを日本佛教の紀元として信準すべきか惑はしい。先づ試に該史料の成立年時と其所傳にかゝる渡來年時との時間的比較を表にして見よう。
頁一五
史料 史料成立年時 佛教渡來年時 其差
上宮聖德法王帝說 一二七二以前 一一九八(欽明戊午十月十二日) 一七四以下
孝德天皇詔 一三八〇(所引) 一二一二(欽明十三年) 九三
日本書紀 一三八〇 一二一二(欽明十三年十月) 一六八
審祥記 一四〇二以前(寂) 一一九八(宣化三年戊午十二月十二日) 二〇四
元興寺緣起流記資財帳 一四〇七 一一九八(欽明七年戊午十二月) 二〇九
護命等上表文 一四七九 一一九八(欽明戊午) 二八一
佛本傳來記 一五一八(記事) 一二一二(欽明十三年) 三〇六
華嚴宗幷因明章疏目錄序 一五七四 一二一二(欽明十三年) 三六二
禪岺所引緣起 一六一二(藥恒在年) 一一八二(繼體十六年二月) 四三〇
扶桑略記 一七五四(記事) 一二一二(欽明十三年十月十三日) 五四二
佛法傳來次第 一八四〇(信救在年) 一二一二?(欽明天皇御世) 六二八
水鏡 一八五五(忠親歿) 一一九〇以前(繼體天皇御世) 六五五
八宗綱要 一九二八 一二〇九(欽明六年十二月) 七二三
佛法由來集 一九四四 一二一二?(欽明天皇御世) 七三二
一代要記(甲) 一九七七(記事) 一二一二(欽明十三年十月十三日) 七六五
同(乙) 一九七七(記事) 一二〇二(欽明三年十月十三日) 七七五
元亨釋書 一九八二 一二一二(欽明十三年十月十三日) 七六九
三津百枝緣起 二〇三九以前(叡岳要記書寫) 一一四七(顯宗三年) 八八二
この圖表を一見して最も興味のあることは、佛教傳來年時に關する史料の成立年時と、該文献が傳ふる所の渡來年
頁一六
時と其史料の成立年時との差額の順位とは、法皇帝説と日本書紀(本文及び所引の幸德天皇詔)とが位置を代ふる丈けで、その他は全く順位を同うすることである。而して法皇帝説は前にも記した如く、古事記や日本書紀の以前に作られたものであるが、成立年時は不詳によつて暫く古事記撰進と同年に見て置いたから、實際は帝説における百七十四年以内は、書紀における百六十八年よりも少くなることが想察される。されば史料成立の年代と其所傳にかゝる佛教渡來年時と其所傳發生の年代との差の順位とは全く同じいことゝなる。かくて今の差隔の年數が小になれば小になる程、昔話を書いたものでなくて、其當時の記錄日記の如き確實なる史料に近づいて行くことを認むるなれば、上掲の對比は正に古い史料ほど其確實さを増すことゝなる。茲に於てか、佛教渡來の諸説中何れが眞實を傳ふるかの信用の程度は、全く史料の成立年代の順位と見做さねばならぬ。然るに茲に最も注目すべき事實は、日本書紀を除いて初の方の法皇帝説、審詳の記、元興寺緣起、護命等の上表文における四説は、同じく戊午歲の渡來を傳へて居ることであつて、この戊午歲渡來が最も史實に近かるべきことが想見される。而して戊午説は日本書紀の欽明十三年説が戊午歲渡來を否定するに足る説として存在し得るか、將又異説として尚存在するかによつて、我が日本佛教の紀元としての當否が定まると思ふ。更に項を改めて之を説明することにしよう。

日本佛寺史
第二回
文學博士
鷲尾順敬

目次
總說(承前)
種別
宗派
職制
等級
經濟
記錄
印判
頁七
種別 寺の種別は、支那朝鮮以來種々の意義に依つて分れてゐろ。我國では政治的の意義に依れば、官寺、私寺、公寺と分れてゐる。官寺と云ふは、官府で建立供養する寺であり、私寺と云ふは、私人で建立供養する寺である。それから公寺と云ふは、官府の認許により、人民が共同で建立供養する寺を、今姑くかく名づけたのである。官寺には、勅願寺、定額寺の別がある。勅願寺と云ふは、天皇の御願によつて建立供養し給ふ寺で、定額寺と云ふは、官府が一定の數額に列して供養する寺である。私寺を改めて官寺卽ち勅願寺定額寺に列せらるゝことがある。しかし今は共にその名がない。それから宗教的の意義に依れば、祈禱寺、學問寺、菩提寺と分れてゐる。祈禱寺と云ふは、現世利益の祈禱を主とする寺であり、學問寺と云ふは、出世學問の研究を主とする寺であり、菩提寺と云ふは、來世冥福の薦修を主とする寺である。菩提寺は香花所とも、墳寺とも云ふ。
是等の他に、僧寺、尼寺の別があり、十方刹、塵弟院の別がある。僧寺は僧が開山住持である寺であり、尼寺は尼が開山住持である寺である。僧寺が改めて尼寺になることは極めて少ないが、尼寺が改めて僧寺になることはまゝ例がある。十方刹、度弟院の別は、支那の宋元明時代の禪寺の別である。十方刹と云ふは、十方住持の寺のことで、諸方の高德を請じて住持とする寺であり、度弟院と云ふは、師弟相續して住持となる寺である。これは我國鎌倉時代以來禪寺の別となつたのである。今はその名がない。
我國飛鳥朝時代、奈良朝時代に、官寺私寺があつた。當時數ゝ私寺を建立することを制止せられたのであるが、その後盛に建立せられた。平安朝時代以來故宅等を改めて寺とすることが盛に行はれたもので、私寺は、益多くなつた。遙に後、江戸時代になつて、公寺と云はるべきものがあることゝなつた。これは實は幕府の宗門改めの必要に依つて
頁八
建立することゝなつたものである。
飛鳥朝時代、奈良朝時代の官寺私寺は、共に率ね祈禱寺であつた。皇室の繁榮を祈禱する、國家の安穩を祈禱する、病氣の平癒を祈禱すると云ふ主意で建立せられたものである。官寺で學問寺があつた。法隆寺は具には法隆學問寺と號したのである。平安朝時代に入つて、官寺は尚ほ率ね祈禱寺であつたが、同時代に始めて官寺私寺に菩提寺が建立せらるゝことゝなつた。官寺で菩提寺と云ふのは泉涌寺が聞えてゐる。
鎌倉時代以來私寺で菩提寺であるものが大に加はつた。しかし當時一方からは菩提寺が輕賤せられたものである。東福寺が五山に列せらるゝにあつて、藤原氏の菩提寺であると云ふことで貶斥せられやうとした、當時東福寺の虎關師鍊が、大にこれを辯明したことが聞えてゐる。
然かし諸國に私寺で菩提寺であるものが、益盛に建立せらるゝことゝなり、殆ど寺と云へぼ香花所であると見做さるゝことゝなつた。
飛鳥朝時代以來、官寺私寺共に僧寺尼寺があつた。初めは尼寺が比較的に多かつた。後には官寺に尼寺に少くなつた。しかし室町時代に禪宗に五山と云ふものが定められて、尼寺五山と云はるゝものもあることゝなつた。
江戸時代に、十方刹度弟院の別について、數々紛爭があつた。禪宗曹洞派では、寺と人と法系を分ち、寺の法系を伽藍法と云ひ、人の法系と人法と云つた。
我國には、清僧寺妻帶寺の別があつた。平安朝時代以來、一部に妻帶の僧があつて、實子を弟子とし、これを眞弟と云ひ、血統相續する寺があつたもので、天台宗の著しい寺に、妻帶寺があつた。神社の別當である寺は、率ね清僧
頁九
寺妻帶寺が並び立つてゐたものである。室町時代以來、修驗者の入つて住する寺が、皆妻帶寺であつた。日蓮の宗派にも妻帶寺があつた。それで諸國に妻帶寺と云ふものが少くなかつた。
鎌倉時代以來、眞宗の寺が、妻帶寺であることは、世間周知のことである。
宗派 寺の宗派は、支那朝鮮では、廣い意義に依つて分たれたもので、大乘寺小乘寺と分たれ、講寺律寺と分たれ、教寺禪寺の分たれた。朝鮮では、李朝の世宗六年に、古來の七宗を改めて禪教二宗にし、諸寺の宗派を二宗に限ることゝした。
我國には、奈良朝時代、平安朝時代に、講寺律寺と云ふた。講寺は、倶舎、法相、三論、成實、華嚴等の諸宗の寺であり、律寺は律宗の寺である。それより各時代に通じて、律寺と云ふ稱呼があつた。鎌倉時代には教寺禪寺と云ふた。同時代に禪寺と云ふものが興つたのである。その始めは鎌倉の建長寺である。同寺は具には建長興國禪寺と云ふたのである。それから室町時代になつて、京都鎌倉をはじめ、諸國に禪寺と云ふものが多くなつた。それで教寺禪寺と云へば教寺は前時代の講寺律寺を併せた稱呼で、一寺に二宗三宗を兼ねてゐた。八宗兼學と云ひ、八宗を兼ねたものもあつた。
江戸時代になつて、諸宗が競興して對立するに至り、殆ど一寺に一宗を限ることゝなつた。二宗三宗を兼ねたものが、全く無かつたのではないが、極めて少數であつた。これまで一宗であつたものが、二宗派三宗派に分れたものもあつたので、各寺が各宗派に分屬することゝなつた。
明治時代以來、諸宗は益分派することゝなつた。一宗であつたものが、分派獨立して宗名を公稱するものがあり、
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それに各寺が分屬することゝなつた。今日に至つては、五十四宗派に分れ、各宗派の特徵を保持することゝなつた。
職制 寺の職制は、寺の種別宗派等に依つて差別があり、變遷がある。印度以來戒律に依つて制定せられたもので支那では、晉時代に始めて寺に三綱が置かれた。三綱と云ふは、卽ち一に上座、二に寺主、三に綱維、(知事とも云ふ。)漸く後に寺に主事四員が置かれた。主事四員と云ふは、一に監寺、二に都維那、(悦衆とも云ふ。)三に典座、四に直歲である。是等は毗奈耶律、僧祇律等に見ゆる名稱である。唐時代に禪宗が興り、百丈山の懷海が清規を製作して、禪寺の職制を創定した。これは戒律に依つて制定したものに朝廷の職制等を參酌して修訂を加へたものであるが、清規は後に數ゝ修訂を加ふることゝなつた。それが禪寺の職制となつたものである。卽ち禪寺には、住持、兩班がある。住持は、堂頭和尚である。兩班は、東序、西序である。東序は、都寺、監寺、副寺、維那、典座、直歲であり、西序は、首座、書記、藏主、知客、知浴、知殿である。禪書には數々是等の職名の異稱が見える。東序の都寺は、都總とも、都管とも、都監寺とも云ふ。監寺は、監院とも、主首とも云ふ。副寺は、庫頭とも、知庫とも、櫃頭とも云ふ。西序の首座は、第一座とも、座元とも、首衆とも、禪頭とも云ふ。書記は、記室とも、外史とも、外記とも云ふ藏主は、藏司とも、知藏とも云ふ。知客は、典客とも、典賓とも云ふ。知浴は、浴司とも、浴主とも浴頭とも云ふ。知殿は、殿司とも殿主とも云ふ。是等の他に祖塔には侍眞あり、方丈には五侍者卽ち侍香、侍狀、侍客、侍藥、侍衣があり、出納所に納所があり、是等の職制に依つて一切の事務を分擔處理することゝなつてゐる。
我國では、飛鳥朝時代に始めて寺司と云ふものが置かれて、俗人が任ぜられた。奈良朝時代、平安朝時代以來、諸大寺の興隆に隨ひ、職制が漸次整備することゝなつた。大寺には三綱が置かれたのであるが、實はそれが諸寺を通じ
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て置かれたものでなかつた。後には大寺の三綱の職制は形式のものとなつた。
平安朝時代の大寺の職制は、五大本寺と云はるゝ東大寺、興福寺、延曆寺、園城寺、東寺が整備したものであつた。是等の大寺の最高の偕職は、各寺各別の名稱があつた。別當、座主、長吏、長者、總法務、法務等と云つた。諸寺の重要の僧職は、檢校、專當勾當、執當、執行、貫主等と云つたのである。鎰取、行事、奉行、綱掌、雜掌、年預、出納、職掌、坊官等と云ふものがあつた。
寺の所領の事務を執る者には、俗人があつた。
鎌倉時代以來、禪寺の職制は、宋元明時代の禪寺の職制に依つたものであるから、前に舉げた如くである。
等級 寺の等級は、支那唐時代に、上寺、中寺、下寺の等級があり、宋元明時代に、禪宗の寺に、五山十刹の等級があつた。
我國飛鳥朝時代、奈良朝時代に、大寺小寺の稱呼があり、平安朝時代に、大寺小寺と云ひ、本寺別院と云ふ稱呼があつた。是等が自ら寺の等級を示すものであつた。然かし寺の等級を定めたと云ふことはない。室町時代に、禪宗の寺に、五山之上、五山、十刹、諸山等の位次を定めた。諸山は一に甲刹と云うた。これは支那宋元明時代の禪宗の寺の例に依つたものである。
江戸時代に、幕府は、本寺、末寺、無本寺の等級を定めた。實は前代より、本寺末寺と云ふ稱呼はあつたのであるが、江戸幕府は、この稱呼に依り、確然だる等級を定めて、各その分限を明にしたのである。是等の等級には、數多の等級があつた。卽ち御門跡地、准御門跡地、總本山、大本山、中本山、末寺頭、直末寺、孫末寺、脇坊、塔頭、子
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院、寺中、坊舎等の等級上の稱呼があつた。
御門跡に、宮門跡、攝家門跡、公方門跡、清花門跡があり、門跡の下に、院家寺があつた。
各宗派の本山の下には、檀林とか、獨禮とか五箇寺とか、種々の寺格があつて、等級を示すことゝなつてるた。
明治時代以來、各宗派は、本山末寺とし、各本山は各末寺の等級を定め、開山由緒資産等に依つて、數等乃至數十等に分つことゝなつた。是等を寺格堂班等と稱するのである。
平安朝時代以來、諸宗派の僧が寺の等級を追うて昇進遷住することがあつた。然かしこれが一定したものでなかつた。室町時代に、禪宗の寺の位次が定まつて後、禪宗の僧は禪寺の等級を追うて、昇進遷住することが一定することとなつた。
明治時代以來、諸宗派の一部には、本山が末寺の等級を昇進することが行はれた。これは本山が末寺の出金に依つて、末寺の寺格堂班を與へたものである。
經濟 寺の經濟は、三寶の供養料に依るのである。我國では飛鳥朝時代奈良朝時代以來、佛分法分僧分に分け、各用途に充つることゝなつてゐる、この三寶の供養料に二種ある。一は所領の收入に依り、ニは歸依者の信施に依るのである。前者は寺の建立の際、本願主から寄附にかゝる田園、及び歸依者から寄附にかゝる田園の收入に依るものである。是等の田園を供養田、佛餉田、燈油田等と名づくるのである。この後者に二種ある。一は特別の關係のある歸依者から納入する一定の金穀に依るものであり、二は十方檀那、卽ち特別の關係のない歸依者から施入する不定の金穀に依るものである。これ等の金穀に佛餉料、(一に佛聖料と云ふ)祠堂金、賽錢、佛供米、齋米等がある。
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支那朝鮮の寺の經濟は、率ね所領の田園山林等の收入に依るものである。我國の寺の經濟は、始め全く支那朝鮮の例に依つた。最初の事實は崇峻天皇の朝に物部守屋の田莊を沒收して、四天王寺に寄附し、推古天皇の朝に、近江阪田郡の水田を阪田尼寺に寄附し、播磨の水田を斑鳩寺に寄附した。其の後數ゝ諸寺の墾田を定められ、寺田は不輸租田とせられた。奈良朝時代平安朝時代から鎌倉時代室町時代等に亙つては變りはなかつた。江戸時代に入り幕府から寺領を定め、朱印狀、黒印狀を附與した。故に寺の經濟は比較的豊富であつた。當時一部の寺の經濟は歸依者の信施に依るものもあつた。江戸時代に寺院檀家の關係が確立することになり、寺の經濟は檀家から納入する一定の金穀に依るものが多かつた。無祿無檀地と云ひ、所領も檀家もないものは、いはゆる十方檀那の信施に依つたものである。
明治三年に、政府が寺領の土地返上を命ずることゝなつて、寺の經濟は忽ち窮乏し、僅に歸依者の信施に依ることとなつた。固より從來歸依者の信施に依つたものは、これにより直接の影響は受けなかつたのである。
記錄 寺の記錄は、緣起、日記、帳簿の類である。緣起は、寺の剏立建立の由來を記錄したものであり、日記は、寺の日常の行事を記錄したものもあり、法曾等執行中の行事を記錄したものもある。帳簿は、寺の資財等を記錄したものが多いのである。
我國の寺の緣起は、奈良朝時代、平安朝時代以來記錄したものである。然るに平安朝時代以來、本尊の靈驗等を記錄したものに、神恠なる傳說を以て緣飾し、繪畫を加へたものがある。この種のものは、一面に文學藝術の價值あるものが多いが、後代になるに從ひ、卑俗拙惡なるものが多い。室町時代以後、寺の緣起が堂塔の再興等に衆緣を勸募する必要から新に製作せられたものが多い、是等は俗耳に入りやすく感興をそゝつてゐるのである。
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然かし寺の緣起は、極めて重要なる文化史料となるものが少くないが、室町時代江戸時代のものはその價值が低下する。
日記は重要なる文化史料である。
帳簿には資財帳、過去帳等がある。資財帳は、後代には、寶物帳、什物帳等と云ふ、禪寺には、常住簿、交割簿があり、日黄簿、戒臘簿、住持籍等がある。然かし今は率ね歷史的の名稱となつてゐる。
印判 寺の印判は、種々ある。寶印、三寶印、寺號山號等の印がある。寶印は、卍字を刻したもの、梵字、卽ち本尊の種子を刻したものがある。印面の形狀は、華瓣形、寶珠形、寶塔形、五輪形、圓形、方形など極めて多樣である。三寶印は、佛法僧の三寶の文字を、九重篆で示し刻したものが多い。これは率ね圓形か方形かである。是等の印は、印信、血脉、牛王誓紙、祈禱札、納經帳等に朱肉で押捺用したものである。稀に黒肉で捺用したものがある。
我國には奈良朝時代以來、寶印等が用ひられたものである。古く文書記錄等に押捺せられてゐる。寶印の傳はつてゐるものも少くない。大和の長谷寺の金印は、華瓣形のもので聞えてゐる。
然かし寺の印判と云へば、寺號山號等を刻して、寺の證に用ゆるものが、實際上に重要なものとする。支那朝鮮以來これがある。我國には飛鳥朝時代、奈良朝時代からこれがある。寶龜二年に、寺の印を製して、諸大寺に頒たれたのである。鎌倉時代以來、禪宗の寺には寺の印が一種の新しい形式のものとなつて行はるゝこゝとなつた。それは支那の宋元明時代の寺の印に做うたものである。
支那唐時代に、節度使が境に入つて事を視る三日にして、印を洗ひ、其刓缺を檢することがあつて、これを滌篆と
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も視篆とも云うた。篆は印文の篆字のことである。この事實が禪寺に見られたのである。
禪宗の清規に依れば、禪寺の住持は、寺の印判を保管し、退隱の時に嚴封して、綱維卽ち知事に托し、後の住持に傳へしむるのである。新に住持が入院の時、綱維が寺の印を捧呈し、住持が自ら嚴封を解いて寺の印を視る。故に新に住持になることを、滌篆とも、視篆とも云ふことゝなつた。この語は、我國の禪寺にも行はれたのである。
奈良朝時代以來、諸大寺が各その證に用ひた寺の印は、寺號山號を楷字か、隷字か、篆字かで示し刻したものである。印面の形狀は率ね圓形か方形で、徑一二寸のものが多い。鎌倉時代以後、禪寺に用ひらるゝものは、印面の形狀が、率ね方形か長方形のものが多い。文字の周圍に、蛟龍等の模樣を刻したものがある。徑三四寸のものがある。是等が率ね朱肉で捺用したものである。
江戸時代に、切支丹宗門改の寺請證文等に、必ず寺の印判を捺用したもので、天下の諸寺に必ずこれを備へた。これは印面の形狀が簡單であつて、徑五六分のものが多い。率ね黑肉で捺用したもので、これを宗判と云うたのである

日本宗教者列傳
第二回
史料編纂官文學博士
鷲尾順敬編纂

目次
役小角 大久保道舟
太安萬侶 廣野三郎
舍人親王 廣野三郎
玄昉 文學士藤本了泰
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役小角
行歷 役小角は世に役行者、又は役優婆塞として知られてゐる。 日本靈異記巻上、三寶繪詞卷中、本朝神仙傳、扶桑略記第四、今昔物語十一、水鏡卷中 役は俗姓で具には加茂役公氏といひ、後の高加茂朝臣に屬し、小角はその諱である。 日本靈異記巻上、三寶繪詞卷中、私聚百因緣集第八、元亨釋書第十五 父を高加茂間賀介麻呂、母を白專渡都岐麻呂といひ、 私聚百因緣集第八、役君形生記卷上、 舒明天皇の六年正月、(皇紀一二九四)大和國葛上郡(南葛城郡)茅原村に生れた。 三寶繪詞卷中、帝王編年記第八、一代要記第一、元亨釋書第十五、 幼少の頃から聰明であつて、學問を好み、七歲にして佛教に歸し、三寶を信じたといはれてゐる。 日本靈異記卷上、三寶繪詞卷中、水鏡卷中、私聚百因緣集第八、 世俗に傳へらるゝところによれば、十六歲の持大和伊駒山に登り、尋で紀伊の熊野山に登り、十九歲の時攝津の箕面山に入り、かくして苦修練行の功を積んだといふことである。 役君形生記卷上、 三十二歲に及んで始めて鄕里大和に歸り、葛城山に入つて巖窟の中に棲み、藤皮を着物とし、松葉を食物として、專ら清泉に身心の垢穢を洗淨したと傳へられてゐる。 日本靈異記巻上、三寶繪詞卷中、水鏡卷中、元亨釋書第十五 葛城山に隱棲したのは約卅五年間であつたが、その間常に孔雀明王の像を巖窟の内に安置して神咒を念誦し、驗術を體得して遂に鬼神をも驅使するが如き神カを發明したといはれてゐる。 續日本紀第一、日本靈異記巻上、本朝神仙傳 從五位下韓國連廣足は、小角を師匠としてその驗術を學習したが、後小角の賢能を嫉み、世間を妖惑するものであるといふ口實のもとに讒奏した、そのために小角は、文武天皇の三年(皇紀一三五九)五月、六十六歲を以て伊豆の大島に配流せられた、 續日本紀第一、三寶繪詞卷中、扶桑略記第五、水鏡卷中、 一説によれば小角が流されたのは、單に廣足の讒言ばかりではなく、他に深い原因があるといはれ、それに就て一條の神恠談が傳へられてゐる。乃ち小角は前にも述べたやうに修驗の達人であつたから、常
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に神力を以つて鬼神を使役し、或は水を汲ませたり、また薪を探らしたりした、一日それ等の諸神を集め、葛城山と金峯山との間に石橋を架して行路を通ずべきことを命じた、此の時諸神等は小角の命令に從つて夜々岩石を運び營構に勵んだけれど一向に涉るところがなかつた、小角はその仕事の遲々として進まないのを見て大に怒り、諸神に向つて事の理由を尋問したところ、葛城山の一言主神が自分の形の醜いのを恥ぢて晝の勞役を怠り、夜の間のみその仕事に從つてゐたからであることが判つた、此に於て小角は一言主のこの怠惰を叱り、エ事を促進すべきことを勸獎したけれど、彼は少しもそれに肯ずるところがなかつた、小角は終にその強情を怒り、神咒を念誦することによつて一言主を縛し、深谷に突き落した。此時一言主は小角のこの仕打ちを恨み、神人に託して小角は國家をうかゞひ危くするものであることを密奏した。朝廷はこの事を聞いて非常に驚き、直に小角を召し捕へんとしたが、彼は神通によつて空中に飛び去り、變現自在にして容易に捕へることが出來なかつた。この時官吏は一策を案じて小角の母を捕へ去らうとしたが、小角は母の受難を見るに忍びずして、終に自ら官の囚に就き、尋で伊豆に配せられたといふことである。 三寶繪詞卷中、本朝神仙傳、源平盛衰記第廿八、元亨釋書第十五、 その伊豆に居る間も常に近國に出遊し、或は駿河に入つて富士山に登り、 日本靈異記巻上、富士山記 或は相模常陸の諸國をも廻歷したといはれてゐる。かくして三年を過ごしたが、大寶元年正月に赦されて京都に歸り、 日本靈異記巻上、扶桑略記第五、 尋て箕面山に遷つて更に三年を過した。箕面寺は小角が曾てその山に練行してゐたとき、夢に瀧口に於て龍樹菩薩に謁した因緣によつて建てられたといはれ、實に龍樹の淨土であると稱せられてゐる、 元亨釋書第十五、役君形生記卷上、
小角は更にそれより西海の諸國を遊歷し、豊前の彦山を跋涉して、終にその地に沒したといはれてゐる。 豊前國志第二、日
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本佛家人名辭書第二、 一説によれば母を鐵鉢に載せ、自身は草葉に坐して海に泛び唐に去つたとも傳へられてゐるが、 三寶繪詞卷中、本朝神仙傳、源平盛衰記第廿八、 それは全くの虛構説であらう。なほ古傳には、小角が大寶元年に配流を赦されて京都に歸る時、宮廷の近くに到つて俄に空中を飛んで新羅の山中に行き、道昭の法華經を講ずる席に到つて互に問答を試みたと記されてゐるが、 日本靈異記巻上、三寶繪詞卷中、本朝神仙傳、 これまた一種の揑造說である。乃ち道昭の入唐したのは孝德天皇の白鴙四年(皇紀一三一三)であつて、小角が配流を赦されたといふ大寶元年(皇紀一三六一)に先き立つこと四十九年前である。増して道昭は文武天皇の四年(皇紀一三六〇)に旣に入寂してゐるのであるから、その年代の上に錯誤のあることは一見して明らかである。 扶桑略記第四、元亨釋書第十五、 前の入唐説といひ、この道昭相見説といひ、何れも小角の驗術に勝れてゐることを傍證せんが為めの虛作であることはいふまでもない。三寶繪詞卷中には古人の傳說として
葛城山ノ谷ノ底二ハ常ニ物ノ呻コヘキコユルヲ人尋イタリテ見ハ、大ナル岩ヲ大ナル藤モトヒ縛レルヲウタカヒテソノ藤ヲキレトモ、卽又如元二成リタリヌ、又橋ノレウ(料)ニセシ石ハ、削造テイマニ峯谷ニオホカリトイヘリ。
といふ一節が見えてゐるが、實に小角と一言主神との關係は、我邦神怪説話中の優たるものであらう、話の糸はそれからそれへと奧深く引かれてゐる。
後世修驗道が起るやうになつてから、小角はその開祖に迎へられ、寛政十一年正月廿五日には神變大菩薩の諡號を賜つたが 寬政聖詔 小角の名はこれより益々普遍的に知られるやうになつた。
事業 小角の事業は前項行歷の條に於ても見らるゝやうに、幾多の嶮岨な山嶽を踏開したことである。その重なるものは大和の葛城山、金峯山、大峯山、紀伊の高野山、和泉の牛瀧山、攝津の神峯山、本山、箕面山、駿河の富士山、豊前の彦
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山等であつて、何れも小角が神咒を讀誦しつゝ攀躋したものであるといはれてゐる。一體小角が斯樣な事業を成し得たといふのは、もとよりその信念にもよるのであらうが、併し乍ら尚他の一面に於て、小角の生家の職業がもたらしたものであらうといふことが考へられる。小角の姓は役であるが、役は使役の意であつて所謂役民を指すのである。故に役君又は役公とは卽ち役民の長をいふのである、小角の生家は恐らく此の役民の長としてそれ等を統轄してゐたものであらう、さればこの役公の家に出でたる小角に土木的才能のあることは當然である。小角が葛城山に於て多數の神々を使役し、金峯山との間に橋梁を架けやうとしたといふやうな説話は、確に小角の生家と彼自身の作業とを暗示するものである。その一言主神との爭闘の如きも、恐らく土木事業に關する意見の相違であつたのであらう。自分は斯樣に解することによつて、小角が前人未踏の山嶽を開發したといふこの大なる事業のすべてを解決することが出來ると思ふ。
學說 小角は旣に述べた如く單なる行者であり、また優婆塞である、それに一定した學説のあらう筈はない、まして一部の著述すらないのであるから、學説の存在を認めやうとすることは聊か無理である。併し乍ら小角の行歷なりその精神生活なりを觀察するに、極めて神恠たる場面に富んでゐるのみならず、小角自身がまた一種の驗術を證得してゐたといはれる位であるから、それ等に關する學的系統を吟味することも強ち不可能なことではない。
惟ふに當時の佛教者に神異奇行の風が流行してゐたことは事實である。例へば泰澄法道等の如き人々がそれである。これ等の人は何れも山林に入つて巖窟に棲み、苦修練行の功によつて神通力を會得するといふのが一定の型であつた、かゝる修行の形式は、我邦上古の宗教に於ては見ることの出來たい風習であつて、全く佛教渡來後の現象であるといはなければならぬ。識者は此の修行形式を以つて印度思想の感染から來たもので、婆羅門行者の修道法をまねたもの
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であるといつて居るが、勿論佛教に於ける隱棲生活の形式は婆羅門の修行法を探り入れたものであるからして、系統を辿り辿つてゆけば恐らくそこまで遡源し得ることは出來るであらう。しかし乍らそれは餘りに速斷の嫌があるやうにも思はれる、寧ろ佛教直接の影響を受けたのであるといふ方が妥當ではなからうか。何となれば當時の日本は、所謂支那佛教殊に隋唐佛教の輸入に努めてゐたのであるから、佛者の為す行持は、殆ど支那佛教者の為すところを直模してゐたのである。小角が巖藪に隱れて鬼神を驅使したといふやうなことも、所詮それは當時の支那佛教その儘の型を承けたのであるといつても過言ではない。況や當時の佛教は、それが生れてから旣に一千年以上も經過してゐる、そして其間には印度より西域諸國を展轉して、雜多なる民族宗教と混融して來てゐるのであるから、その修道法は最早や純然たる佛教誕生當時のものではない、その中には諸種の形式が加味せられてゐることは事實である。されば此の佛教が與ふる影響感化は、佛教が創立當時に受容したる娑羅門修道の形式とははるかに相違してゐる、故に小角の修した道行の如きも、それはやはりこの當時の支那佛教者の為すところを踏襲したものであると考へる方が穩當である。乃ち當時支那には印度西域より多數の譯經僧が入り込んでゐたが、それ等の人々は所謂習禪の風格を具へ、巖藪に棲止して神異を行ふのが特徵であつた、從つてこれ等の人々と道行をともにする支那僧に、その風習の傳薫することは當然である。例へば僧達 續高僧傳第十六 僧稠 同上 僧實 同上 法融 景德傳燈錄第四弘賛法華傳 等の如き人々は、皆神異奇行によつて、或は虎を降伏したり、鬼神を驅使したり、猛火を現じ、巨蛇を出すといふやうたことを演じたのである。斯樣な不可思議の法は逸早く流行するものであつて、我邦にもそれは十分に受容されてゐる。されば小角が佛教に歸して神驗を證知したといふのも當然の結果であるといはなければならぬ。特に小角はそれを土木事業に應用したが為めに、その盛名
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を成したのであつて、恐らく當時小角以外にも修驗の達人は數多くあつたに相違ない。
ところが小角がこの神術を體驗したのは、葛城山の巖窟に在つて孔雀明王の咒法を修したが為めであると傳へられてゐる。 日本靈異記巻上 しかしながらこの修法が當時傳來してゐたかは疑問である。一體孔雀明王の咒法は、孔雀經(具には佛母大孔雀明王經といひ三巻ある。)の説相に基くのであつて、我邦には弘法、慈覺、智證の諸師が請來したことになつてゐる。もつとも弘法等の傳へたのは唐の不空譯であつて、その以前旣に義淨によつて佛説大孔雀王咒經三巻が譯せられ、尚その前に梁の僧伽婆羅が佛説孔雀王咒經二巻、秦の鳩摩羅什が孔雀王咒經一巻を譯してゐるのであるから、これ等の諸經がこの當時我邦に傳はつてゐないといふことは斷言し得ない、されど小角の時代にそれ程に發達した修法が、この經の傳來と共に流布してゐたかは甚だ疑はしい。故に小角の修練した驗術は如何なる種類のものであつたか、それは判然しないけれども、自分の乏しい知見からは、それはやはり當時の支那僧等が修したといはれてゐる習禪の法ではないかと思はれる。たゞ後世になつて修驗道と稱する一派が成立して、それが天台や眞言などに派祖(天台系に屬するものを本山派といひ、三井の増譽を派祖とし、眞言系に屬するものを當山派といひ、三寶院の聖寶を派祖としてゐる。)をもつてゐる關係上、小角の行つた修道法を密教流に解釋して、それに種々なる教理を附加したのではないかと思はれる。彼の私聚百因緣集や參語集の如きものは恐らくこの傾向の代表的先驅の一をなすものであらう。(大久保道舟)
太安萬侶
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行歷 安萬侶は神武天皇第二皇子神八井耳命の後裔である。 太は古事記本文に意富、新撰姓氏錄に多と記す。 慶雲の初、從五位下に叙し、和銅中正五位上に陞み、勳五等を授けられた。同四年九月十八日、元明天皇の詔を奉じて、嘗て天武天皇の、舎人稗田阿禮をして誦習せしめ給ひし帝皇の日繼及び先代の舊辭を採
して、古事記三巻を撰し、翌五年正月二十八日、之を奏上した。ついで從四位下に進み、靈龜二年九月二十三日、氏長となり、後ち民部卿に拝せられた。斯くて元正天皇の養老四年五月二十一日、撰上せられた日本書紀の編纂員としても力を盡すところが多かつたが、同七年七月七日(皇紀一三八三)世を損てた。壽は詳でない。
古事記序、續日本紀、新撰姓氏錄、弘仁私記、大日本史
著書 古事記。これは勅撰であるから、嚴密な意味では著書とはいへぬであらうが、しかしこの書は、稗田阿禮の誦習したるをそのまゝ筆錄したのでは無く、安萬侶自らの見地より阿禮の訓んだ記錄類を參覈取捨して編纂したものであることは、その序文に、「謹隨詔旨子細採
」と記したのでも知れるのである。古事記が日本書紀に根本史料として採錄せられてゐない理由として、その太安萬侶の編纂であることを舉げられた安藤正次氏の説
(日本文化史、古代) は當を得たものである。これ敢て著書として掲ぐる所以である。
抑々天武天皇が、稗田阿禮として帝皇の日繼、先代の舊辭を誦習せしめられたのは、當時諸家に傳ふる所の帝紀及び本辭が、漸く正實に違ひ虛偽を加ふることが多くなつたからで、詔にも「當二今之時一、不レ改二其失一未レ經二幾年一、其旨欲レ滅、斯乃邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟撰二錄帝紀一討二覈舊辭一、削レ偽定レ實欲レ流二後葉一。」との聖旨が宣べられてある。而して此事は同天皇の九年三月、川島皇子等に命じたまひし修史の事業とも關聯があると思はれる。
不幸是等のことの完成を見ずして、天皇は登遐あらせられ、文武、持統二朝を經て未だ果されなかつた。こゝに於て
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元明天皇は、天武天皇の御遺志を繼ぎ舊辭の誤忤を惜み、先紀の謬錯を正さんとして、安萬侶に命じて、阿禮の誦習せる所の古記を撰錄せしめ給ふたのである。
古事記の記事は、天地開闢より彦波瀲武鸕鹚草葺不合尊までを上巻、神武天皇以下應神天皇までを中巻、仁德天皇より推古天皇までを下巻に收めてあり、その文體は漢字の音訓と、漢文の語句を借りたる國文であつて、實に現存せるわが國最古の文獻であり、日本書紀と相並びわが上古の傳説と史實とを知る上に於て重要なるのみならず、國語學國文學上に於ても貴重なる資料である。更に、その特色ある神代の記事は、わが國最古の神典として、大いに尊重せられた。すべての神道説は本書及び日本書紀、舊事本紀等を基礎として打立てられてゐるのである。斯くてわが太安萬侶はわが神道史上にその位置を確保せらるゝものである。(廣野三郎)
舎人親王
行歷 天武天皇第三皇子、母は天智天皇第六皇女新田部皇女。持統天皇の九年正月五日、淨廣貳を授けられ、文武天皇の朝、親王となり二品に叙せられ、慶雲元年正月十一日、封二百戸を加へ、元明天皇和銅七年正月三日また封二百戸を加へられ、ついで元正天皇養老二年正月五日一品を授けられた。同三年十月十八日、元正天皇勅して、皇太子(聖武)年齒なほ稚きを以て、新田部親王と共に補佐せしめられ、内舎人二人大舎人四人衛士二十人を賜はり、封五百戸を増された。前を通じて實に一千五百戸である。いかに皇族間に重きをなしてゐられたかが知れる。尋いで同四年五月廿一日、豫て勅を奉じ、總裁として編修を督しつゝあらせられた日大書紀三十巻竝に系圖一巻を撰上せられ、八月
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知太政官事となり、神龜元年二月四日、聖武天皇卽位し給ふや、封五百戸を益されたが天平七年十一月十四日終に薨ぜられた。(皇紀一三九五)天皇、從三位鈴鹿王等を遣して喪事を監護せしめ、その儀太政大臣に准じ、親王内親王に命じて悉く會葬せしめられ、中納言多治比眞人縣主等をその第に遣し、宣詔して太政大臣を贈られた。王子七人、王女二人あり、第七王子大炊王、天平寶字二年八月庚子朔、卽位(淳仁)し給ふに及び、同三年六月十六日、追尊して崇道盡敬皇帝と諡せられた。 日本書紀、續日本紀、大日本史、纂輯御系圖
著書 日本書紀三十卷。系圖一巻。これも嚴密にいへば、親王の著書とすべきではないであらう。が、親王はこの書の編纂を總裁せられ、多くの編纂員を代表せらるゝのであるから、敢て舉げたのである。
日本書紀の編纂は、わが上代に於ける修史事業の一大完成であつて、その端は天武天皇の十年三月四日、川島皇子忍壁皇子、廣瀨王、竹田王、桑田王、三野王、上毛野君三千、忌部連子首、阿曇連稻敷、難波連大形、中臣連大島、平群臣子首等に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めしめ、中臣連大島、平群臣子首をして之を筆錄せしめられたのに發する。
この時の修史は正史の上にはその完成が傳へられてゐない。が、持統天皇の五年八月十三日、大三輪、雀部以下十八氏にその祖の纂記を上進せしめられたことは之と關聯して考へてよいであらう。元明天皇が天武天皇の御遺志を繼がれ、修史を念とせられたことは、前項にも述べた如くであり、和銅四年九月、太安萬侶に古事記の撰上を命ぜられたのは、その第一着手と見られ、和銅七年二月十日、紀朝臣清人、三宅臣藏麻呂に詔して、國史を撰ばしめられたのは更に計畫を大にせられたと察せられる。(編纂者を二人しか舉げぬのは、續日本紀の脱文と考へる學者もあることは注
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意してよい。)この前年五月二日、諸國に勅して風土記を撰ばしめられたのも亦之と關係があらう。
舎人親王が、日本書紀編纂の勅を奉ぜられた年時は明かでないが、和銅七年に始められた修史が更に擴張せられた結果ででもあらうか。何れにせよ、天武天皇によりて端を發かれた修史事業を完結するの榮譽は、その皇子たる舎人親王が擔はれたのである。
日本書紀の記事は、神代を一、二巻に、神武天皇より持統天皇までを、三巻以下三十卷までに收めてある。その文體は古事記と異り、漢文である為に、德川時代の國學者(殊に本居宣長の如き)からは、その價值古事記に劣るものとせられたが、今日より之を見れば、支那の修史法に傚ひ、出來るだけ材料を生かし、紊りに私意を加へることをせぬ編纂法、豊富なる材料、詳密なる記事に於て、古事記に優れるものがある。殊に神代巻の如きは、「一書曰」「一書云」として多くの傳承を舉げ、漢文であり乍ら、努めて我國固有の語を生かさうとしてゐるのは注意すべきである。
されば、この神代巻が神道の教典として、いたく尊重せられたことは古事記の比ではない。たゞこの點のみに於てもわが舎人親王の功德は景仰に堪へざるものがある。
まことに、古事記、日本書紀、殊にその神代卷は、相共に炳として日月の如くわが神道界に懸る神典である。之に依りて初めて、神々の發生、活動、古代人の神祇觀、宗教思想を知ることが出來る。原始神道は、この二書を除いては遂に十の一をも知り得ないであらう。(廣野三郎)
玄昉
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行歷 玄昉俗姓は阿刀氏であつて、出家して龍門寺義胤に師事し唯識法相を學ぶ、其の生年月日及び幼年の事を傳ふるものがない、靈龜二年八月多治比眞人縣守阿倍安麻呂等が遷唐押使並に大使に任せらるゝ時に當つて、同じく入唐の命を受け、翌年同使に附隨して西航し撲陽の智周大師を問ひて法相の薀奧を究めた 續日本紀十六扶桑略記六三國佛法傳通緣起中 時に唐の開元四年であつて智周は年卅八歲の壯年であつた、留る事大凡そ二十年に垂むとし、高譽四傳した、玄宗皇帝は彼を召見して其學才を尊ひ、三品に准じ紫袈裟を着せしめたと傳へられてゐる、 續日本紀十六
天平六年十一月入唐大使從四位多治比眞人廣成が歸朝するに當つて、之に從ひ、菩提仙那、佛哲、道璿、眞備等の一行と共に歸朝した、是時玄昉は始めて一切經五千餘卷と諸の佛像とを賚し來つて興福寺に安置したと共に、大に所傳の法相の妙宗を宣揚したと傳へられてゐる、法相家に於ては、この玄昉の所傳を法相の第四傳と云ひ、又智鳳(第三傳)義淵と共に北寺の傳或は御笠の傳と云つてゐる。 三國佛法傳通緣起中
兎に角是時彼が一切經を將來したことは、眞備が唐禮一百三十巻、大衍歷經一巻、大衍曆立成十二卷、或は鐵尺、銅律管、樂所要錄十巻等を將來したと共に 續紀十二 大陸文化の輸入と云ふ點から見、又例へ文武天皇の頃に於て旣に一切經所寫と云ふ樣な事があつたとしても、經典傳來史の上から見て大に注意すべきことであらう。
同八年には封一百戸、田十町、扶翼童子八人を賜つてをり 同紀十二 同九年八月には僧正に任ぜられ 同紀十二 又紫袈裟を賜つてゐる 同紀十六 蓋し我國紫袈裟を賜はるの始めである、是より内道場にあつて益々榮寵を擅にしたのであつた、蓋し玄昉が僧正に任ぜられ僧綱の一人になつたことは、僧綱が政府と對立して政界に勢力を示すに至つた始めをなすものであることゝ、彼玄昉がこの職に列して次第に權力を得るに至つた最初の段階であることを注意すべきであらう、僧
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綱所の起原は推古天皇の三十二年の四月に或僧が斧をもて祖父を団つたので、道人 僧侶 の戒法を犯すは俗人教誨に支障ありとて、始て僧正僧都を任じて僧尼を撿校せしめ、鞍部德積を僧都に、鞍部德積を僧都となし、別に阿曇連を法頭として寺院を撿校せしめた、これが我國に於ける僧官の始である、 日本書紀卷廿 而して天武天皇の十三年三月には始めて僧正、僧都、律師の三級を任じ、僧尼を統領すること法の如くせよと命ぜられてゐる 同紀廿九 この僧正、僧都、律師の總稱が謂ふ所の僧綱であつて、治部省監督の下に天下の寺院及び僧尼を取締つてゐた、かくて僧綱は一つの佛教行政事務官といふべきものであつた為に、初めは俗人も任ぜられたが、後には僧侶が専ら其職に備はることゝなり、僧侶界の腕利きが僧綱所を組織するやうになつた、こゝに於て僧綱所は純然たる僧侶の勢力を表示する機關となつた、のみならず佛教が次第に隆興に赴き、國民全般が廣くこれを信奉するに至つて、僧綱所の勢力範囲は自ら擴張せられ、僧綱は文字通りに眞俗の棟梁となり、道俗欽仰の標的ともなつて、遂には隱然たる大勢力を為すに至つたのである、而してこれは綱所が教權の外に俗權をも併せ支配することゝなり、普通行政官の一面をも備へる過程を示したのであつた、かくて、天平元年には唐僧道璿に俗位たる從五位下の階に擬せられ、やがて天平寶字四年七月には俗界の位階の制に摸して、三位十三階が定められ、大法師位及三色の師位を勅授位記式に、自外を奏授位記式に准じ、 續日本紀廿九 寶龜四年十一月には僧綱の賻物を定めて僧正は從四位に、僧都は正五位に準じて、益々俗化せしめた 同紀卅二 かくて僧綱が俗權を獲得した結果、遂に普通政治に於ける大臣納言等と共に天下の政治に參與し、勢力に任せて廷臣と相對峙して堂々と政權を爭ふに至つたのである、玄昉の時代は正にかゝる時代であり、同時に此の時代の趨勢に乘じて、自ら政治に參與し、僧綱所をして政府と對立して政界に勢力を示すに至らしめたのである、九年八月に玄昉が僧正に任ぜ
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られ内道場に入つたことは勢力を得る先第一の段階であつた、蓋し内道場とは禁中の寺であつて、天皇皇后皇子女等の禮拝堂である、この時玄昉と共に歸朝した吉備眞備も大學助に任ぜられ、翌年正月には從五位下に陞敍せられ、尋で中宮亮に轉ぜられた、中宮とは藤原宮子皇太夫人の宮である、當時宮子皇太夫人は病に臥し幽憂に沈まれ、久しく人事を廢し、聖武天皇を御生みになつて以來、甞て天皇と相見え給はなかつたが、玄昉の看護に依りて惠然として開晤し給ひ、この年十二月には、皇后宮に於て玄昉と御會見があり、天皇もまた行幸して母子御對面になつた、為に天下の人々は之を慶賀せざるものはなく、又天皇に於かせられても玄昉の勞を賞せられて
一千疋、綿一千疋、絲一千疋、布一千疋を賜はせられ、また中宮職の宮人六人に位を進められ、亮眞備も亦從五位上となり、尋で右京大夫に任ぜられ右衛門督を兼ぬるに至つたのである、
同紀十二 之によつて、見るに玄昉と眞備とは互に相提携する所あつた樣に思はれる、實に此の二人は共に入唐留學歸りの新智識者であり、新文化輸入の新人であることを以て、宮中の謀臣となつたものであらう、殊に玄昉は非常なる寵榮を擅にし、日々に勢力を得て、為めに漸く沙門の行に背くに至り、世人の惡しみを受けたのであつた、
同紀十二 とにかく、彼が自己の學藝才能を恃み、かくの如き勢力を得るに至つては、閥族政治の時代に於て、一種の闖入者として、兎角の批評を受けるのは當然と云はねばならぬ。
かくして玄昉の勢力を得たことは、軈て其時代の一勢力者である藤原廣嗣との間に隙を生ずるに至つたのである、蓋し廣嗣は藤原氏四家の一人である式家の宇合の長子であつて、形容端嚴にして五異七能ありと稱せられ、文武歌舞管絃天文陰陽に至るまで精微を極めたと傳へらるゝ程の非凡人であつた、 松浦廟宮先祖次第並本緣起 されば天平十年に大倭國を改めて大養國と名づけた際に、從五位下式部少輔であつて大養德守を兼ねるに至つたのであるが、其の十二月に廣嗣は
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突然として、太宰少貳に任命せられたのである、 同紀十二 この轉任は大義德と云ふ大國の守であり、然も京都の内官の重職であつたものが、太宰府と云ふが如き外官に任ぜられたのであるから、一の排斥であり貶謫であつた、蓋しこの貶謫は、天平十二年九月廿九日の筑紫府の管内諸國官人百姓等に下された勅書に依れば、逆人廣嗣は生來凶惡で長じて詐奸を為した為めに父宇合は常に之を除棄せんとしたが、天皇の思召しで許されて今日に及んだのである、然るにこの頃京中にあつて親族を讒亂するので其心を改めしめんが為めに遠方に遷したのであると云ふ所に其原因の一つがあるであらうけれど、 同紀十三 他面、玄昉眞備の時めくを惡んでこれを排斥せんとした廣嗣の運動に對して、彼等が彼の非凡の材を恐れ、努めてこれを排斥した結果であらうと思はれる、事實廣嗣は天平十二年八月廿日に表を上りて時政の得失を指し、天地の災異を述べて、玄昉眞備の兩人を除かんことを以てしてゐり 同紀十三 又彼が西任の後、玄昉が京都に殘し置いた妻女の姿色の優なるを聞きて近づかんとしたのを、妻女が太宰府の廣嗣に傳へた為めに隙を生じたと傳へられてゐる、 元亨釋書、松浦廟宮先視次第並本緣起
かくして廣嗣は遂に同年九月に九州に於て叛亂を起すに至つたのであるが、之は參議按察使兼犬養德守大野東人等を大將軍に任じ、東海東山山陽山陰南海の五道の軍一萬七千の追討軍を發したことによつて、直に平定せらるゝに至つたのである、とにかく廣嗣は朝廷に反抗して兵を動かした事に依りて遂に逆賊の名を免れなかつたけれど、彼の反亂の直接の口實となつたものは、實に玄昉と眞備とを對象としたものであつた為めに、亦一部の人々の反感と惡しみとを受け、却て廣嗣の境遇に同情を寄するものさへあつたのであつた、殊に彼自身に於ては徹頭徹尾自ら忠臣を以て任じてゐたゞけに、彼の悲惨な最後に對して同情禁じ得なかつたと共に、そこに怨をのんで死んだ人、廣嗣の魂の不
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死を信じ、死後とても磅礴として威力を發揮して、生前果し得なかつた怨を死後に於て實行するものと信ずるに至つた、所謂彼の靈魂は天地に浮遊して屢ゝの災異を起したと傳へらるゝに至つたのであつた。
廣嗣の死後四年天平十七年十一月に至る間の玄昉に就ては何等記する所がない、只僅に正倉院文書寫經所解に、天平十六年五月四日阿刀氏から、玄昉が彌勒經を所寫すると云ふので其料紙の送狀があるのみである 大日本古文書二 然るに是月二日玄昉は筑紫觀世音寺造營の監督を名として太宰府に遂はれ、尋で十七日彼の封物悉く沒收せられてゐる 續日本紀十六 然かもその翌十八年六月十八日に玄昉は突然として寂してゐる 同紀十六、扶桑略記五日に作る 世人は之を廣嗣の靈の為に害せられたのであるとなし 同紀十六 或は觀世音寺供養の日、玄昉其の導師として供養の法會を行つてゐる間に、俄に大虛より其身を捉捕する者があり忽然として亡失して了つた、後日其首は興福寺の唐院に落ちたと傳へられ 扶桑略記抄本 或は「廣嗣惡靈ト成テ且公ヲ恨奉り、且ハ玄昉ガ怨ヲ報ゼント為ルニ彼ノ玄昉ノ前ニ惡靈現ジタリ、赤キ衣ヲ著テ冠シタル者來テ、俄ニ玄昉ヲ掴取テ空ニ昇ヌ、惡靈其ノ身ヲ散々ニ掴破テ落シタリケレバ、弟子共有テ拾ヒ集テ葬シタリケル」と云ふ傳説となつてゐる 今昔物語十一 蓋し傳説に云はれてゐるが如く不自然なる死を遂げたことは、或は九州の廣嗣の殘黨等が刺殺したのかも知れない。
とにかく、かゝる傳説が扶桑略記、今昔物語や、元亨釋書、水鏡、詞林采葉抄、平家物語、源平盛衰記等に種々に記載せられてゐるばかりでなく、旣に續日本紀の出來た桓武天皇の御世に、かゝる説のあつたことは、わが國の靈託思想、怨靈思想發達の研究の上に大に注意すべきことであらう。而してこの思想は平安朝から鎌倉にかけて益々盛んとなり、南北朝室町時代に迄及んでをつて、わが國思想界に大なる影響を與へてゐる、とにかく彼の菅公の怨靈出
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現、後鳥羽院の靈託等、幾多の出來事が、その後の歷史の上に傳へられてゐるが、この廣嗣の傳説の如きは、史上に現はれた最初の一と見らるべきものであらう、玄昉の寂後一年その正忌日に當つて、唐僧善意なるものが、師の菩提を弔ひ妙果を得しめんが為に、大般若經一部六百巻を粉身碎骨して書寫してゐる、 大日本古文書二天平十九年唐僧善意大般若波羅多經奧書 其趣旨は偏に恩德に酬ゆるが為であると記されてゐるが、之れ又彼が在唐廿年の研學とその唐朝に名を得た一面と、及び歸朝の後も猶かゝる外國僧との密接なる關係あつた一面とを窺ふに足るものであらう、玄昉の門弟には慈訓、善珠等あつて、亦法相唯識の宗を宣揚した。
附説 玄昉が天皇並に皇太后皇后の御信任を得て、宮中内道場に入り、殊に皇太后藤原宮子夫人の如きは永く幽憂に沈められ給ふたのが、玄昉一看したので惠然開晤せられ給ふたと云ふ續日本紀の記事から、後世に至つて皇太宮夫人と玄昉との間に醜聞があつた樣に傳へられ、其事は更に、玄昉の弟子である善珠は藤宮子之糵子であると云はれ 元亨釋書二 殊に扶桑略記に於ては、「流俗有言玄昉密通太皇后宮子、善珠法師是息也云々」と迄云はれるに至つたのである、かの水戸の大日本史の后尼傳に於ても猶同樣の意を敍述してゐるのであるが、然しながらかゝる事は事實あり得べきことでない、之は全く續日本紀の誤讀から來てゐるもので、旣に先輩田口卯吉博士、佐藤誠實博士等の論じ盡された所であつて 史海第五──第七 今日かゝる誤傳を信ずるものはない、然らば其の誤讀とは、何んであるかと云へば、續日本紀の全文の舊點に依ると、皇太夫人藤原氏就皇后 〇光明皇后 宮、見僧正玄昉法師、天皇 聖武 亦幸皇后宮、皇太夫人為沈幽憂、久廢人事、自誕天皇未甞相見法師、一看惠然開晤、至是適與天皇相見、天下莫不慶賀となつてゐる、卽ちこの句點からすれば、皇太后夫人は聖武天皇を御生みになつてから玄昉と相見えなかつたが、一度遇ふに至つて惠然として開晤
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せられ給ふたと云ふ風に解釋せらるゝに至つたのである、之は實に句讀の誤りであつて實際は自レ誕二天皇一未二甞相見一、法師一看惠然開晤、とすべきである、卽ち藤原皇太夫人は久しく氣欝の病に罹らせ給ひて、聖武天皇を生み參らせてより天皇に對面し給はざりしが、玄昉の看護に由りて、其の病平癒し給ひ、其御妹の藤原皇后乃ち光明皇后の宮にて玄昉に遇ひ給ひしに天皇も其宮に臨幸し給ひて、御生母なる皇太夫人と對面し給ふと云ふ事である、 史海七に依る 一看と云ふことは一度遇うと云ふことではなくして、看病看護の意である、誠に僧侶が病者を看病し看護したことは、この時代の通例のことであつて、其例としては天平勝寶八年五月の勅に 禪師法榮甚能看病とも、又奉為先帝陛下屈請看病禪師一百二十六人者、宜免當戸課役とも見えてゐる 續日本紀十九 又日本後記弘仁三年四月の勅には、病者可就寺治病、及請僧看病者、經僧綱若講師聽其處分ともありて、かゝる例證は尚幾多之を見ることが出來る、この場合に於ける一看が看護であることは、又前後の文章によりて明瞭の事であらう、然るに前記扶桑略記元亨釋書を初めて、舊點に從ひ、かゝる醜聞な誤り傳ふるに至つたことは、其等の著者が相當なる學者であつただけそれ丈け甚だ其の意を得ないと共に、後世に及ぼした影響の頗る大であつたことを痛感する、殊に德川時代から明治の初年に於ける排佛家の好材料となつたことは、皇室の為めに、將た奈良朝佛教の為めに、又玄昉の為めに甚だ遺憾の限りと云はねばならない、善珠法師が藤原宮子皇太夫人の孽子でなかつたと云ふことも、この一事に依りて自ら明瞭であらうと思ふから、佐藤博士等が善珠法師の寂年と、玄昉の入唐の年時等から、更に詳かに然からざるを考證してゐらるゝけれどもこゝには略すことにする。
事業學說 玄昉の事業として最も注意すべきことは、彼が在唐廿年に及んで法相唯識宗を將來したことであらう、
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この事は旣に行歷の條に於て略述した所であるが、更に之を述ぶれば、彼は實に我國法相宗傳來の第四傳者であり、又興福寺流の法相宗の第一人者と云はねばならぬ、元來法相宗の傳來には四傳ある、第一傳は孝德天皇の白雉四年入唐した道昭が、玄弉三藏に就て法相宗を學び、又三藏の上足慈恩大師と同學數年に及んで其薀奧を研めて歸朝したのがそれであり、 前號道昭傳参照 第二傳は齊明天皇四年入唐した智通智達の兩師が、是亦玄弉三藏並に慈恩大師に就て是宗を研學して歸朝し、大に宗旨を弘めたのがそれであり、第三傳は文武天皇大寶三年に勅命を奉して入唐した智鳳、智鸞、智雄の三師が撲陽大師に師事して是宗の奧旨を研めて歸朝したのがそれである、而して第四傳はこの玄昉の傳來を云ふのであつて、第一傳第二傳は合して南寺の傳、元興寺の傳或は飛鳥の傳と云ひ、第三傳第四傳は合して北寺の傳、興福寺の傳或は御笠の傳と云はれてゐる、玄昉が義淵僧正に就て出家したことは旣に記した所であるが、彼の敏才は義淵の門下に於ても勝れたものであつて、行基菩薩、宣教大德、良敏大僧都、行達大僧都、隆尊律師、良辨僧正等の所謂七上足の首位を占めた位であつた、凝然が法相宗の傳來を敍して、至當代興福一寺學侶繼踵論難彌昌、並是智鳳玄昉後裔門葉而已と云つてゐることは、單に鎌倉時代に於ける法相宗の教學が興福寺に於てのみ行はれてゐることを云はんとしたものであつたにしても、尚彼等の法流として其の影響を見ることが出來やう、第二に玄昉の事業として見らるべきものは、天平文化の名に依つて代表せらる奈良朝の文化、聖武天皇及光明皇后の情熱を中心にして建設せられた佛教文化に貢献したと思はるゝ点である、彼の從來の所傳に從へば、僅に宮中の信任を得て僧正となり内道場に入つたことのみが、この方面に關する事業として傳へられゐるに過ぎないで、他は多く彼を非難し、俗的に見た政治的干與のみが傳へられてゐるのであるけれども、天皇皇后をして、佛教に對する絶對なる情熱を振起せしめ、自ら三
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寶の奴と為つて佛教文化の興隆を計らせられ給ふに至らしめた内面には、波羅門僧正鑑眞和尚等の外國の僧侶や、義淵行基良辨等の我高僧達に依つて受けられ給ふた御感化にもよるであらうけれど、玄昉に依つても亦其情熱を高めしめられたかと思はれる、天皇が大佛鑄造の大願を起されたのは、實に天平十二年であつて、玄昉の勢望は廣嗣等の非難があつたにしても尚失はれなかつた時代である、然も玄昉は宮中の信任を擅まにした時代である、國土をして永遠の佛國土に轉ぜしめ、人をして和樂福至の世界に導かんとする佛教の御勸化は、内道場に出入した玄昉に依る所なかつたとは云へない、殊に彼の才學は時人に越ゆる所があつたのを以ても之を想像することが出來やう、政治的干與の大なるに覆はれて、かゝる方面の史傳に現はれざるは止むを得ないにしても、必ずやかゝる方面の事業も亦之を想見して然るべきであらう、彼の學説の系統が如何なるものであるかは、彼の事業の第一に依て直に明瞭の事であるが、併しながら入唐廿年に垂んとする間に於て、研學する所のものが、唯一法相宗のみとは限らなかつたであらうことは云ふ迄もない、從つて當時唐朝に興隆された、三論、成實、倶舎、華嚴、律等に就ても亦學ぶ所があつたであらう、然も歸朝の後法相宗に就て如何なる學説を立て、如何に是を敍述したかは固より明瞭でない、又政治に干與し、實際の運動にのみの史實に盡されてゐる彼としては之等に就て明瞭ならしめることは極めて困難な事と云はねばならぬ。
藤本了泰

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